2022年11月09日
2022年9月、「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」(以下「人権DDガイドライン」という)が策定・公表された(リンクはこちら)。2022年3月、経済産業省において「サプライチェーンにおける人権尊重のためのガイドライン検討会」(座長:松井智予東京大学大学院法学政治学研究科教授)が設置され、企業における人権尊重の取組みを後押しするための業種横断的なガイドラインの作成について検討が行われてきたが、本ガイドラインは、そうした検討会における議論を踏まえて作成された原案についての意見募集手続を経て、「ビジネスと人権に関する行動計画の実施に係る関係府省庁施策推進・連絡会議」において、日本政府のガイドラインとして決定されたものである。人権DDガイドラインでは、企業の規模、業種等にかかわらず、日本で事業活動を行う全ての企業に対して、ガイドラインに則って人権尊重の取組みに最大限努めることが求められている(1.3)。
本稿では、人権DDガイドラインの概要を紹介しつつ、関連する取組みの第一歩となる人権方針の策定に向けた検討事項について解説する。
近年、人権尊重を含むサステナビリティに関する取組みが重要な経営課題であるという認識が高まっており、関連する取組みの強化は、企業にとって喫緊の課題となっている。特に人権尊重の取組みについては、2011年に「ビジネスと人権に関する指導原則」が国連人権理事会で採択されたことを契機として、欧州を中心に人権尊重に向けた各種の法規制が相次いで導入されるなど、重要性が高まっている。筆者は、本ウェブサイトで2015年に企業における人権デュー・ディリジェンス(以下「人権DD」という)の取組みについて紹介したが(安井桂大「今、企業が取り組むべき『人権デュー・デリジェンス』」(2015年4月15日掲載))、近年では企業側の関心もますます高まっており、2021年11月に経済産業省と外務省が共同で実施した「日本企業のサプライチェーンにおける人権に関する取組状況のアンケート調査」の結果によれば、回答した760社の日本企業のうち、約7割の企業が人権方針を策定し、また、5割を超える企業が人権DDを実際に実施しているとされている。
日本政府においては、2020年に「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」を公表しているが、そのフォローアップの一環として実施された上記のアンケート調査では、企業による人権尊重に係る取組みの促進に関して政府によるイニシアチブを期待する声が寄せられ、また、政府によるガイドラインの策定等についても強い要望も示された。そうした状況も踏まえ、「ビジネスと人権に関する指導原則」等の国際スタンダードを踏まえた企業による人権尊重の取組みについて、日本で事業活動を行う企業の実態に即して、具体的かつ分かりやすく解説し、そうした取組みを促進することを目的として策定されたのが、人権DDガイドラインである(1.1)。
人権DDガイドラインの冒頭では、企業において人権尊重の取組みを進める意義について述べられているが(1.2)、その中では、人権に対する負の影響に対処することを通じて、持続可能な経済・社会の実現に寄与することにとどまらず、その結果として、企業が直面する様々な経営リスクを抑制することに繋がることが指摘されている。例えば、人権侵害を理由とした製品・サービスの不買運動や取引先からの取引停止、投資先としての評価の降格等の様々なリスクが抑制され得ることや、欧米を中心に人権尊重に向けた各種の法規制が強化されている中で、そうした法規制への対応強化や、グローバル・ビジネスにおける予見可能性の向上にも繋がることが示されている。
また、企業として人権尊重の取組みを進めていく結果として、企業経営の視点からプラスの影響を享受することが可能になることも指摘されている。すなわち、人権尊重の取組みを実施し適切に開示していくことで、企業のブランドイメージの向上や投資先としての評価の向上、取引先との関係向上、優秀な人材の獲得・定着等を通じて、国内外における競争力や企業価値の向上が期待できること等が示されている。
人権尊重に向けた取組みは、サステナビリティ・ガバナンスの一環としても重要性を増している。2021年に改訂されたコーポレートガバナンス・コードでは、上場企業において、中長期的な企業価値の向上の観点から、自社のサステナビリティをめぐる取組みについて基本的な方針を策定し、情報開示を含めた取組みを進めていくことが求められているが、重要なサステナビリティ課題の例の一つとして、人権の尊重が挙げられている。また、2022年7月に改訂されたコーポレート・ガバナンス・システムに関する実務指針(CGSガイドライン)においても、企業におけるサステナビリティへの対応強化に向けて、特に人権の尊重に向けた取組みを進めていく際には、策定後の人権DDガイドラインの活用が推奨される旨の記載が盛り込まれた。企業においては、上記の人権尊重の取組みを進める意義を踏まえ、中長期的な企業価値の向上の観点からも、取組みを強化していくことを検討していく必要がある。
人権DDガイドラインでは、「ビジネスと人権に関する指導原則」等の国際スタンダードを踏まえ、企業においてその人権尊重責任を果たすための具体的なアクションとして、①人権方針の策定(人権尊重責任に関するコミットメントの表明)、②人権DDの実施(人権への負の影響の特定・評価、防止・軽減、取組みの実効性の評価、説明・情報開示)、③自社が人権への負の影響を引き起こし、または助長している場合における救済等、さらには、④それらの取組み全体を通じたステークホルダーとの継続的な対話が求められている(2.1、下記図表1参照)。
人権DDガイドラインの3.以降では、それぞれの取組みについてのガイドラインが示されているが、以下では、人権DDの実施等に関する人権DDガイドラインの概要を紹介する。その上で、下記5において、それらの取組み全体の指針となる人権方針の策定に向けた検討事項について、解説することとしたい。
人権DDの実施にあたっては、まずは、企業が関与している、または関与し得る人権への負の影響を特定し、評価することが必要となる(4.1)。人権DDガイドラインにおいては、そうした負の影響の特定・評価に向けたプロセスが示されており(4.1.1)、具体的には、リスクが重大な事業領域の特定、負の影響の発生過程の特定、負の影響と企業の関わりの評価、優先順位付けの各プロセスと、それぞれを実施する際の考え方等が示されている。
この点について、人権の状況は常に変化するため、そうした人権への影響評価は、定期的に繰り返し、かつ、徐々に掘り下げながら行うべきであるとされる(4.1.2.1)。具体的には、例えば、新たな事業活動を行おうとし、または新たな取引関係に入ろうとする場合や、事業環境に変化が生じていたり予見されたりする場合には、個別に非定期の影響評価を実施すべきであり、また、一回的な取引に係るリスク等を把握するために行われるものであるという意味で位置付けは異なるものの、M&Aを行う際にも、そうした影響評価を実施すべきであるとされている。加えて、特定・評価された人権への負の影響の全てについて直ちに対処することが困難である場合の優先順位付けについて、人権への負の影響の深刻度が高いものから対応することが求められ、同等に深刻度の高いものが複数存在する場合には、蓋然性の高いものから対応することが合理的であるという考え方等も示されている(4.1.3)。
その上で、企業においては、企業活動によって人権への負の影響を引き起こしたり(cause)、直接・間接に助長したり(contribute)することを回避し、負の影響を防止・軽減することが求められ、また、それらに該当しない場合であっても、取引関係によって企業の事業、製品またはサービスに直接関連する(directly linked)人権への負の影響については、防止・軽減に努めることが求められるものとされている(4.2)。人権DDガイドラインにおいては、それぞれの類型ごとに検討すべき措置の種類等が示されているほか(4.2.1)、例えば、取引停止の措置については、負の影響それ自体を解消するものではなく、むしろ人権への負の影響がさらに深刻になる可能性もあるため、最後の手段として検討され、適切と考えられる場合に限って実施されるべきであるといった考え方等が示されている(4.2.1.3)。
加えて、企業においては、関連する自社の取組みが、人権への負の影響の特定・評価や防止・軽減等に効果的に対応するものであったかを評価し、その結果に基づいて継続的な改善を進める必要があるとされている(4.3)。そうした実効性評価にあたっての具体的な方法については、各企業において状況に応じて選択されるべきものであるが、そうした評価を行うための情報収集方法の例として、自社従業員やサプライヤー等へのヒアリング、質問票の活用、自社・サプライヤー等の工場等を含む現場への訪問、監査や第三者による調査等が挙げられている(4.3.1)。
企業においては、自社が人権尊重の責任を果たしていることを説明することが求められる(4.4)。人権尊重の取組みについて情報を開示していくことは、仮に人権侵害の存在が発見された場合であっても企業価値を減殺するものではなく、むしろ改善意欲があり透明性の高い企業として企業価値の向上に寄与するものであり、企業による積極的な取組みが期待されるとされている。
説明・情報開示の方法については、想定する受け手が入手しやすい方法によって行うことが求められ、例えば、情報を一般に公開する際には、統合報告書等の中で開示する例があるが、そうした情報提供は1年に1回以上であることが望ましいとされている(4.4.2)。
上記3で述べたサステナビリティ・ガバナンスの一環としても、人権尊重の取組みに関連する情報開示を充実させていくことは重要な課題である。2022年6月、金融審議会「ディスクロージャーワーキング・グループ(令和3年度)」による報告書が公表されたが、その中では、有価証券報告書に新たにサステナビリティ情報に関する記載欄を設けてサステナビリティ情報の開示を求めていく方針等が示されており、早ければ2023年3月期の有価証券報告書から開示が求められていくことが想定される。同報告書においては、人権尊重に関する取組みを含め、企業において重要と考えるサステナビリティへの取組みを、「ガバナンス」、「戦略」、「リスク管理」、「指標と目標」の枠組みで開示することを求める方針が示されている。企業においては、こうしたサステナビリティ情報開示を巡る動向も踏まえ、自社の人権尊重の取組みについて情報開示を進め、機関投資家を含むステークホルダーからの評価・信頼を得ながら、そうしたステークホルダーとの対話を通じて更なる取組みの充実に繋げていくことが考えられる。
企業においては、企業活動によって人権への負の影響を引き起こし、または助長していることが明らかになった場合には、救済を実施し、または救済の実施に協力することが求められ、他方、自社の事業・製品・サービスが負の影響と直接関連しているのみの場合には、負の影響を引き起こし、または助長した他企業に働きかけることによって、その負の影響を防止・軽減するよう努めるべきであるとされている(5.)。救済の例としては、謝罪、原状回復、金銭的・非金銭的な補償、再発防止プロセスの構築・表明、サプライヤー等に対する再発防止の要請等が挙げられているが(5.)、サプライヤー等に対する影響力の行使にあたっては、独占禁止法や下請法等の競争法に抵触することがないよう留意する必要があるとされている(2.1.3)。
また、救済のための仕組みとして、企業とそのステークホルダーに関わる苦情や紛争に取り組む一連の仕組みである苦情処理メカニズムを確立するか、または業界団体等が設置する苦情処理メカニズムに参加することを通じて、救済を可能にするべきであり、そうした苦情処理メカニズムは、8つの要件(正当性、利用可能性、予測可能性、公平性、透明性、権利適合性、持続的な学習源、および対話に基づくこと)を満たすものでなければならないとされている(5.1)。
人権方針は、企業がその人権尊重責任を果たすというコミットメント(約束)を、内外のステークホルダーに向けて示すものである(2.1.1)。人権尊重を含むサステナビリティに関する取組みに際しては、まずは取組方針を策定し、公表することが重要になる。機関投資家を含むステークホルダーからは、取組方針の策定は関連する具体的な取組みの土台となるものと捉えられており、取組方針が明確に策定・公表されていない場合には、取組み自体が行われていないか、あるいは真剣に取り組んでいないのではないかという疑念を生じさせてしまうことになる。
人権DDガイドラインでは、下記図表2の5つの要件を満たす人権方針を策定し、表明すべきであるとされている(3.)。
図表2 人権方針が満たすべき5つの要件
① | 企業のトップを含む経営陣で承認されていること |
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② | 企業内外の専門的な情報・知見を参照した上で作成されていること |
③ | 従業員、取引先および企業の事業、製品またはサービスに直接関わる他の関係者に対する人権尊重への企業の期待が明記されていること |
④ | 一般に公開されており、全ての従業員、取引先および他の関係者にむけて社内外にわたり周知されていること |
⑤ | 企業全体に人権方針を定着させるために必要な事業方針および手続に人権方針が反映されていること |
人権尊重の取組みは、採用、調達、製造、販売等を含む企業活動全般において実施されるべきものであるところ、人権DDガイドラインでは、人権方針が満たすべき5つの要件のうち、特に経営陣の承認を経た企業によるコミットメントであることが(上記①)、人権方針をそうした全社的な関与を実現するための明瞭かつ包括的な方針とする観点で、極めて重要であるとされている(2.2.1、3.)。
また、人権方針は、人権を尊重するための取組み全体について企業としての基本的な考え方を示すものであるところ、コーポレートガバナンス・コード等を踏まえたサステナビリティ戦略や、企業としての経営理念等とも密接に関わるものである(3.1参照)。人権方針を策定する際には、戦略的な観点から特定された自社のサステナビリティ重要課題(マテリアリティ)や経営理念等との関係性についても検討し、その位置付けを明確化することが望ましい。そうすることで、人権方針と自社のサステナビリティ戦略、経営理念等との一貫性が担保され、その実効性を確保することに繋げることができると考えられる。また、複数のグループ会社を有する企業である場合には、コミットメントの対象にはそうしたグループ会社全体を含むことが求められているため(1.3)、人権方針においては、その対象範囲を明確に示すことも重要になる。
さらに、企業ごとに事業の種類や規模等は様々であるところ、負の影響が生じ得る人権の種類や、想定される負の影響の深刻度等も各企業によって異なってくることにも留意が必要である。人権方針の策定にあたっては、まずはそうした自社が影響を与える可能性のある人権を把握する必要があり、こうした検討に際しては、関連する社内の各部門(営業、人事、法務・コンプライアンス、調達、製造、経営企画、研究開発等)から知見を収集することが必要になる。また、その際には、必要に応じて専門家の助言等を得ながら(上記②)、自社の属する業界や調達する原料・調達国の事情等に精通したステークホルダー(労働組合、NGO、業界団体等)との対話・協議を行い、得られた知見を人権方針に反映していくことも推奨されている(3.1)。上記4で紹介したとおり、人権方針の策定後には、継続的に人権DDを実施していく必要があり、関連する行動指針や調達方針等にもそうしたプロセスを反映していく(上記⑤)ことが求められているところ(3.2)、人権方針を策定する段階から上記のような検討を進めておき、特に自社が影響を与える可能性が高いと考えられる重要な人権課題をある程度特定しておくことは、有意義であると考えられる。実際に、先進的に取組みを進めている企業の人権方針では、重点的に取り組む重要人権課題が個別に挙げられているケースもある。
もっとも、人権方針は企業としてのコミットメント(約束)を示すものであるところ、策定の段階で実質的な人権DDを実施することが不可欠というわけではなく、自社の実情と乖離したものとならない程度に自社が影響を与える可能性のある人権を把握しておく必要はあると考えられるものの、そうした分析や検討を完全にやりきっておくことまでは求められていない(人権DDガイドライン別紙Q&A No.5参照)。人権方針を策定した後、その内容を社内に周知したり、実際に人権DDを実施したりしていく中で発見される具体的な課題等もあると考えられ、そうしたものを踏まえて、必要に応じて人権方針を改定していくことも考えられる(3.2)。また、苦情処理メカニズムの整備など、その他にも検討・準備に一定程度時間を要するものもあり、人権方針の策定段階では、「今後に必要な体制を整備していく」といった内容にとどめることも否定されるものではないと考えられる。人権尊重に関する取組みは継続的なプロセスであり(2.1.2参照)、取組みを進める中で改善していくことを前提に、まずは企業としてのコミットメントを明確に示していくという姿勢が重要である。
加えて、人権方針においては、従業員、取引先および企業の事業、製品またはサービスに直接関わる他の関係者に対する人権尊重への期待を明記することが求められている(上記③)。こうした内容を含む人権方針を策定・公開し、従業員、取引先および他の関係者に対して周知することで(上記④)、より実効的に人権に対する負の影響を防止・軽減し、また必要に応じて救済を提供することができるようになると考えられる。取引先への期待を明記することは、取引先との間の契約において人権尊重に関する取組みを求める条項を規定する等の対応をとるための契機にもなる。
人権DDガイドラインの総論部分で述べられているとおり、いかなる企業においても、人権
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