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予備的訴因を追加請求した検察官 老人ホーム職員の過失は何か?

老人ホームのおやつ提供で過失責任を問われた看護職員(8)

出河 雅彦

 長野県安曇野市にある特別養護老人ホーム「あずみの里」で、利用者におやつのドーナツを提供し、のどに詰まらせて窒息死させたとして、ホームの職員である准看護師が業務上過失致死の罪で起訴された事件を検証する本シリーズの第8回は、初公判から1年5カ月後に検察側が行った、主張の一部変更請求と、それをめぐる検察、弁護双方の攻防について紹介する。

特別養護老人ホーム「あずみの里」
 前回述べたように、死亡した女性(以下、Kさんと言う)に対する注意義務を怠ったとして起訴された准看護師(以下、Yさんと言う)の弁護側は初公判から11カ月後の2016年3月14日に開かれた第4回公判で冒頭陳述を行い、Yさんの無罪を主張した。この日の公判で検察側は、第3回公判で裁判所から釈明を命じられていた、Yさんの注意義務に関する6項目について、現段階で釈明の必要はないと述べた。検察側は釈明が不要な理由として、冒頭陳述を行う以上、弁護側も争点が明確になったことを認めているはずであるとの主張を展開したが、弁護側は「争点が明確になったとは考えていない」と反論した。

 第4回公判の後、Yさんの公判を担当してきた裁判官が全員交代し、野沢晃一裁判長ら3人の裁判官が新たに担当することになった。2016年7月6日の第5回公判では、裁判官交代に伴う更新手続きとして、改めて弁護側が冒頭陳述を行い、検察側は裁判所から命じられていた6項目について釈明を行った。その中で検察側は、①YさんがKさんと同じ程度に食事中の動静を注視しなければならなかったのはKさんと同じテーブルでおやつを食べていた利用者に限られる、②Kさんに対するYさんの注意義務は、YさんがKさんと同じテーブルに着座したときから発生したということでよい、などと答えた。

 こう釈明した検察側はその2カ月後の9月16日、自らが犯罪事実として主張する「訴因」の一部変更と追加を裁判所に請求した。このうち一部変更請求は、下記のとおり、起訴状に記載された公訴事実の下線部を、その後のカッコ内の文言に変更するというものだった(死亡した女性利用者の名前は「K」とした。元号表記の後の西暦と下線は筆者による)。

 被告人は、長野県安曇野市豊科高家5285番地11所在の社会福祉法人協立福祉会特別養護老人ホームあずみの里に准看護師として勤務し、同施設の利用者に対する看護及び介護業務に従事していたものであるが、平成25年(2013年)12月12日午後3時20分頃、前記あずみの里1階食堂において、同施設の利用者であるK(当時85歳)が間食を食べるに当たり、同人が食事中に食物を口腔内に詰め込む等の特癖を有し、食物を誤嚥(口腔内若しくは気管内異物により窒息)するおそれがあり、かつ、当時、同食堂において利用者に対する食事の介助を行う職員が被告人及び同施設介護職員1名のみで、同介護職員は利用者に提供する飲み物の準備中であったため、前記Kの食事中の動静を注視することは困難であったのであるから、同人が間食のドーナツを口腔内に詰め込んで誤嚥(詰め込むなどして窒息)することがないように被告人自ら前記Kの食事中の動静を注視して、食物誤嚥による窒息等の事故(食物による窒息事故)を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、他の利用者への食事の介助に気を取られ、前記Kの食事中の動静を注視しないまま同人を放置した過失により、同人に前記ドーナツを誤嚥させて、同人を窒息による心肺停止状態に陥らせ(同人にドーナツを摂取させ、口腔内若しくは気管内異物による窒息に起因する心肺停止状態に陥らせ)、よって、平成26年(2014年)1月16日午後8時18分頃、同県松本市巾上9番26号社会医療法人中信勤労者医療協会松本協立病院において、前記心肺停止に起因する低酸素脳症(低酸素脳症等)により同人を死亡させたものである。

長野地検松本支部
 一部変更請求で検察側は、「誤嚥」という言葉を起訴状から除き、死因を「低酸素脳症等」に変更しようとしたことがわかる。弁護側は第4回公判で行った冒頭陳述において、「『誤嚥』とは、喉頭の奥にある声門を越えた気管内に、食物などの異物を誤って入れてしまうことである」と指摘した。そのうえで弁護側は、Kさんに異変が起きた後、救命措置に当たったYさんらがKさんの舌の上からドーナツのかけらや破片を取り出したが、それはいずれも口腔内からであって、喉頭や気管内からではない、したがって誤嚥を認めうる客観的証拠はない、と主張していた。

 では、検察側の主張の追加はどんな内容だったのだろうか。

 もともと検察側が主張していたのは、Kさんの食事中の動静を注視して食物による窒息事故を未然に防ぐ業務上の注意義務を怠ったというYさんの過失(=注視義務違反)だったが、新たに別な主張(予備的訴因)を追加することを裁判所に請求したのである。2016年9月16日付で検察側が請求した予備的訴因は以下のとおりである(死亡した女性利用者の名前は「K」とした。元号表記の後の西暦と下線は筆者による)。

 被告人は、長野県安曇野市豊科高家5285番地11所在の社会福祉法人協立福祉会特別養護老人ホームあずみの里に准看護師として勤務し、同施設の利用者に対する看護及び介護業務に従事していたものであるが、平成25年(2013年)12月12日午後3時20分頃、前記あずみの里1階食堂において、同施設の利用者に間食を提供するに当たり、間食を含む同施設の入所者の食事形態については身体機能や臨床症状等を勘案して決められ、決められた形態と異なる食事を入所者に提供して摂取させれば、これを摂取した入所者に窒息事故等を引き起こすおそれがあったのであるから、各入所者に提供すべき間食の形態を確認した上、これに応じた形態の間食を入所者に配膳して提供し、窒息等の事故を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、きざみトロミ形態の間食であるゼリーを提供することとされていたK(当時85歳)に対し、同人に提供すべき間食の形態を確認しないまま、漫然とドーナツを配膳して提供した過失により、同人にドーナツを摂取させ、口腔内若しくは気管内異物による窒息に起因する心肺停止状態に陥らせ、よって、平成26年(2014年)1月16日午後8時18分頃、同県松本市巾上9番26号社会医療法人中信勤労者医療協会松本協立病院において、前記心肺停止に起因する低酸素脳症等により、同人を死亡させたものである。

 下線部に記されたように、検察側がYさんの過失として新たに追加した主張は、おやつの形態変更確認義務違反とも言うべきものである。追加主張なので、Yさんに注視義務違反があったとする、もともとの主張を取り下げたわけではない。主張の追加は、注視義務違反という主張が裁判所に認められない可能性が高くなったので、その場合に備えたものであると弁護側は受け止めた。なぜ、注視義務違反という主張が認められる可能性が低いのか、弁護団はその理由を次のように分析した。

 検察官は訴因変更請求をした時点において、Yさんに注視義務が発生するのはYさんがKさんのいるテーブルに着席した時点以降であるとし、注視義務の対象者はKさんと同じテーブルで食事をしていた利用者に限定されると釈明するに至った。そして、注視義務の具体的内容としては、①Kさんが食物を口に入れるのを阻止する行為、②Kさんが食物を口に詰め込んだ場合にそれを取り除く行為、③Kさんが食物をのどに詰まらせた場合にそれを取り出す行為、などが想定されるとした。しかし、①~③のうち、まず②と③の注視義務は成り立ちにくい。なぜなら、②に関しては、YさんはKさんのいるテーブルに着席した後、食事介助が必要な男性利用者が誤嚥しないようにゼリーを一口ずつ食べさせていたことが証拠上明らかなので、仮にYさんの着席後にKさんがドーナツを口に入れたとしても、Yさんがそれを認識することは困難な状況にあったので、Kさんが口に入れたドーナツをYさんが取り除く行為に出ることは期待可能性が乏しい。また、Yさんら施設職員がKさんの異変に気づいてから懸命な救命措置を講じたことは証拠上明らかであるから、注意義務を尽くしていたと言えるので、③の注視義務違反もない。

 残る①について検察官は、YさんがKさんのいるテーブルに着席した時点以降に、Kさんが食物を口に入れるのを阻止する義務があることを立証しなければいけないが、Kさんがいつの時点でドーナツを口に入れたのかについては証拠が存在しないので、Yさんがテーブルに着席する前にKさんがドーナツを口に入れた可能性を排除できない。それが真実である場合には、Yさんはテーブルへの着席後にはもはや食物を口に入れるのを阻止することはできないのであるから、ドーナツを口に入れないよう阻止する義務は認められない。したがって、①についても注視義務違反が認められないことになる――。

 起訴から1年9カ月、初公判から1年5カ月が経過し、遅ればせながら、Yさんの注視義務について裁判所から釈明を命じられた事項に検察側が回答したことで争点が絞られ、これから証人尋問に入っていくという段階になって、突然、検察側が持ち出した追加主張に弁護側は強く反発した。

 検察側が主張の追加請求をしてから2カ月後、弁護側は中島嘉尚主任弁護人名の「検察官の予備的訴因追加請求に対する意見」(2016年11月4日付)を裁判所に出した。

 全文18ページに及ぶこの意見書で弁護側は、前述したような分析に基づき、検察側のもともとの主張である注視義務違反が認められる可能性が低いことを指摘した。また、食事の変更決定に反する食事を提供することに窒息事故の危険があるという検察側の新たな主張については、あずみの里での食事形態の決定が必ずしも窒息事故の危険性のみを判断要素としておらず、Kさんのおやつの変更も消化不良を起こさないようにするためであったことを指摘し、「決められた形態と異なる食事が提供されたからといって、直ちに窒息事故の危険が高まるわけではない」と主張した。

 そして、「必要性も合理性も乏しい訴因変更請求」であるとして、次のように、検察側を厳しく批判した。

 検察官は、弁護人が注意義務についての釈明を度々求めていたにもかかわらず、具体的事実について釈明の必要はないとして、満足な回答をしてこなかった。そのため、検察官は、予備的訴因に変更するかどうか検討する機会が十分にあったにもかかわらず、最初の求釈明から1年以上もの間、そして期間だけでなく手続も濃密なものであり、機会は十二分にあったにもかかわらず、具体的検討を怠っていたのである。そして、弁護人の冒頭陳述を経た後、裁判所の釈明命令に回答した直後に、検察官は、この度の訴因変更請求をしたのである。こうした一連の経過をみると、そもそも有罪立証が可能であるかを精査せずに公訴の提起をした疑いが濃厚であり、公判が進むにつれて事実が解明されて何らかの注意義務違反が認められるだろうというような安易で無責任な検察官の態度が透けてみえる。そして、弁護人の冒頭陳述を経て、検察官が、当初訴因の立証の困難さを認識したことは想像に難くない。このような探索的な訴訟追行は、争点を明確にして充実した迅速審理を目指す刑訴法のもとでは許されないはずである。これは、規範的構成要件である過失犯の場合であっても同様である。
 しかも、今度は、なぜYさんが責任を問われなければならないのか、すこぶる疑問のある訴因を検察官は予備的に追加しようとしている。これは、国民の目からみて、極めて奇異な印象を与える訴訟追行である。刑事司法への信頼を揺るがしかねない事態である。
 そもそも、検察官は、起訴権限を独占する公益の代表者として、また、刑事司法の専門家として、国民から信頼される訴訟追行が求められる。検察官が起訴権限を独占していることは、検察官が考える以上に重くかつ厳しい内実を有している。弁護人は、刑事裁判を通じて被告人とともに歩む機会が多く、つぶさに被告人らの生きた現実を目の当たりにし、自らを処する糧としている。本件においても、善良な市民として、また、勤勉な看護師として心を込めて職務に専心してきた被告人の人生は、刑事訴追で激変する。無実を明らかにし、無罪の判決を得ることが出来てもその影響、負担は限りなく大きい。しかも、本件は介護を巡る社会状況を一変させ、将来にわたってわが国の介護を左右しかねない重大な問題を含んでいる。被告人の職場であるあずみの里も重大な影響を受け、それは全国の介護にも及ぶものである。被告人、そして弁護側が死力を尽くして争点にそって集中的に資料、情報を収集し、無実を明らかにしてきたこの期に及んで、再び新たな負担を求めるなどとても許されないことを肝に銘ずべきであろう。
 さらに言えば、公正・公平であるべき検察官としては、捜査および公判請求の杜撰さに気づいたときには、公訴を取り消す決断をするのが本来あるべき姿である。ところが、検察官は、当初訴因について、これを撤回しないばかりか、当初訴因では単なる事情として扱っていた行為について、予備的訴因変更という形で、なおも公判の継続を図ろうとしているのである。一度公判請求したものは、検察庁の面子にかけて撤回はできないということであろうか。これまでの経過および予備的訴因の内容を見る限り、当初訴因および予備的訴因は、およそ検察官自身においても、確実に有罪立証をなしうるとの確信のもとに行っているものとは到底思えない。
 以上から、検察官の訴因変更請求は、著しく不合理であるというべきである。

 これに対し検察側は、もともとの訴因(注視義務違反)が認められない可能性が極めて高い状況にあり、それゆえに検察官が予備的訴因を追加

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