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文部科学省で過ごした日々
~官僚から弁護士になっていま思うこと~

山田 智希

山田 智希(やまだ・ともき)
 2017年3月、東京大学法学部卒。2017年4~ 11月、文部科学省勤務。2018年12月、司法修習(71期)を経て弁護士登録(第二東京弁護士会)。当事務所入所。

 人には誰しも、原点に返りたいと思った時に、ふと行きたくなる場所があるものと思う。

 皇居の桜田門から南に延びる桜田通りと、新橋から西に延びて赤坂へ抜ける外堀通り。その両者が交わる虎ノ門交差点が、筆者にとってのその場所である。

 交差点の北側を見上げると、そこには、チョコレート色をした歴史を感じさせる煉瓦造りの建物と、その後ろに真新しい高層ビルが立っている。この半ば不釣り合いな組み合わせは、きっと写真で見れば誰しも見覚えがあると思う。ここは、日本の教育・科学・文化・スポーツ行政を司る文部科学省である。ちなみに、後ろのビルに部署の大半が入り、煉瓦造りの方に省の外局である文化庁が入っているので、2つセットというわけである。煉瓦造りの方は、さすがは文化庁、旧文部省建物として登録有形文化財に指定されている。

 2017年の春。筆者の社会人としてのキャリアは、この場所からスタートした。

 教育行政に携わり日本の未来を創ることができる、唯一の場所。そう信じていた筆者にとって、文部科学省は大学時代から意中の就職先だった。大学を出て飛び込んだ憧れの職場は、しかし、当時、天下りのあっせん騒動で省全体が揺れに揺れていた。入省式には多くの報道機関が詰めかけていたのを鮮明に覚えている。

 筆者が虎ノ門で過ごした時間は決して長くない。しかし、そこで過ごした濃密な時間は、筆者の血となり肉となり、間違いなく弁護士としてのいまにつながっている。

新人官僚の学びと試練

文部科学省の入る中央合同庁舎7号館=2017年3月30日午後6時17分、東京・霞が関、飯塚晋一撮影
 新人職員たちは、入省式もそこそこに辞令を受け取り、早々に配属先へ散っていく。筆者のそれには、「生涯学習推進課」という部署が記されていた。なるほど、生涯学習の推進か─もちろん、これを読まれている方々と同じく、その時の筆者にも、そこが一体何をしている部署なのか皆目見当がつかなかった。同課の所掌業務を定める文部科学省組織令第29条をお開きいただく…必要はもちろんないが、ふたを開けてみれば、かつて大検といわれた高卒認定試験や、「専門学校」と称されることの多い専修学校(学校教育法第124条)、いわゆる認可校といわれるインターナショナルスクール等が含まれる各種学校(学校教育法第134条第1項)、さらには放送大学に関する業務等、いわゆる学校の「外」での学びの広い範囲をカバーしている部署だった。

 筆者は、この推進課で、幸運にも、新たに設置されたばかりの係の立ち上げに関わることができた。そこは、障害者の学校卒業後の学びの機会を広げ生涯学習を推進するという使命を帯びた、当時の幹部肝いりの部署だった。障害者の学びは、それまで、特別支援学校等の学校の中での教育政策は進められていたが、障害者の生涯学習を直接担当する部署はなかった。そこにメスを入れるべく新設された部署に、筆者は配属されたのである。さながら、新規開店を支えるオープニングスタッフというわけだ。

 通常の部署であれば、毎年行っている事業について次年度の運営体制や必要な予算等を検討し、従前どおりかそれ以上の予算の獲得を目指すのが、1年のうちの主な業務となる。各省の各係が、それぞれ全力を尽くしてそのように頑張ることで、政府として多様な利害を調整し適切な予算配分を実現することになるのだ。しかし、筆者の部署の場合、事業を一から練るところから始めなければならない。私はおろか、上司たちもその分野についてはもちろん全くの素人である。多くの論文を読み、草の根の活動についてリサーチし、時に大学のキャンパスに足を運び有識者にインタビューを行いながら、障害者の学びにいま何が必要なのか、国として何をすべきなのかを考える。そうしてようやく事業のパッケージが固まると、関心のありそうな議員をリストに並べ、アポをとっては、議員会館に赴いて事業を売り込んでいく。あるいは、様々な媒体で発信を行い、啓発イベントも企画し、社会的な関心を高めていく。こうした地道な積み重ねを経て、財務省の担当者に我々の事業がいかに重要な意義を持つかを納得させることで、初めて予算の獲得というゴールを果たすことができるのである。

 すべてが新鮮だった。国の政策がどのように作られ、限られた国家予算がどのように配分されていくのか。部署の立ち上げに立ち会ってその一連の流れを目にできたことは大きな学びであった。学びは多かったが、しかし、社会人一年目の私にとっては試練の連続でもあった。上司はとても厳しい人だった。教育熱心な方だとは聞いていたが、毎日毎日やることなすこと叱られては、課の先輩に「あれだけ叱られながらそこの席に毎日座ってられるのは、お前は鋼のハートを持っていると思う」などと慰められていた。いずれも筆者の力不足ゆえであるから、仕方のないこととはいえ、当時は毎朝虎ノ門に向かう足が本当に重かった。また、これはどの省にもいえることだが、世間で言われるとおり、拘束時間が長い日もあった。夜中の2時から数時間かけて上司に詰められながら書類を作っていったこともあるし、自分の部署に関わる国会質問が通告されれば、夜を徹して答弁を練り上げ、所定の部数を印刷し資料とあわせて朝までにセットすることになる。そうして総力戦で準備した答弁が、国会運営の時間の都合で結局省略され、霞が関用語でいえば「空振り」に終わることもざらにあった。センセイによっては30分の質問時間で100問の質問を事前通告してくるのだから、空振りどころかバッターが何人いたって足りないわと、ある先輩がつぶやいていたが、その言葉には、そこはかとない徒労感がにじみ出ていた。ちなみに、某省の同期は1日に200問当てられたことがあると自慢していたから、筆者はまだましな方だったらしい。

 ただ、それは筆者だけではなかった。同期の誰もが、描いていた理想と現実のギャップに苦しんでいた。夜な夜な閉まりかけの食堂で顔を合わせては、その日あった出来事や上司の愚痴をさらけ出し、「まぁ、とりあえずこの後もあと少し頑張ろう」と互いの背中を見届け合う日々。そうした同期たちとは、時に、理想を忘れまいと、各々が思う国の将来を語り合うことも多くあった。これは本当に不思議に思われるかもしれないが、酒が進めば進むほど、素が出れば出るほど、国をどうしたいか、文部科学行政をどうしたいかを議論しだすのが、筆者の知る同期たちの姿である。官僚を経験して一番良かったことは何かと聞かれれば、間違いなく、そうした心から尊敬すべき同期たちを生涯の友人として持てたことであると断言できる。

残留か退職か

 大学での法律の勉強に面白さを感じていた筆者は、入省後も法律の勉強を続け、司法試験を受験することにした。とはいえ、働きながらの受験は勉強時間の確保もままならなかった。直前期には、虎ノ門ヒルズの前を民法の問題集を解きながら毎日歩いて通勤した。受験前日も、試験の2日目と3日目の間に設定された1日のインターバルも、ただひたすら課の残務に追われていた気がする。当然、受験しての手応えも皆無だった。合格発表の日も結果を見る気が湧かなかったが、手応えは皆無と伝えていたはずの親族から「勿体ぶらずに早く結果を教えよ」とメールで指示を受け、仕事を終えてようやく法務省のHPを開いたのは、日付も変わった深夜のことだった。しかし、思いがけずそこに自分の番号を見つけてからの数時間、筆者は「退職」と「残留」のはざまで大きく揺れ動いたことを、いまでもよく覚えている。

 最初は「残留」に大きく傾いた。あと数年残留すれば、係長に昇進して大きな裁量を持って国家行政に携わる機会を得られる。弁護士への転身はその後でも遅くない。しかし、当時の仕事に覚えていた違和感―それはたとえば、官僚特有の先例主義だったり、政策論議より国会や国会議員対応が優先されそこに時間を費やされる空虚感だったりと、挙げようと思えばきりがないのだが、とても一言ではまとめられない―は、「残留」のメリットをどれだけ並べ立てても、最後まで決して席を譲ろうとはしなかった。そして、実際に官僚として働いたからこそ、筆者には、人に尽くす仕事は何も国家公務員に限るものではなく、国家公務員というのは一つのアプローチにすぎないのだという考えが少しずつ芽生えていた。これでよかったのかと迷いながら働き続けるくらいなら、いっそ、弁護士の仕事のフィールドの広さに賭けてみてもいいのではないか―「よし。」と気持ちが固まった時には、既に空は明るくなっていた。

 退職の意向を告げた上司からは、当然、新人の採用にはいろいろなコストがかかっていることや、課の業務にも大きな支障が出ることを懇々と説明され、「それをすべて分かって、辞めたいと言っているのか」と聞かれた。「おっしゃるとおりです。申し訳ありません。」と絞り出すのがやっとだった。退職日も近くなったある日の課の懇親会で、そんな上司たちから「新しい道でも頑張って。応援している。」と言われた時には、いよいよ本当に申し訳なくなった。退職してもう何年も経つが、いつか当時の上司たちに会う日が来るならば、あの時の不義理を改めて詫び、感謝の気持ちを伝えたいと思っている。

先例の扱いに違い

 弁護士になって、弁護士の仕事が官僚の仕事とこれほどまでに違うものかと驚かされた。

 それは、たとえば「先例」の扱い方一つをとってもよく分かる。官僚がある答弁を作成する場合、常に最も意識されるのは、その内容がいかに過去の答弁と整合しているかである。基本的にはその過程で「先例」自体への批判的検討が加えられることはなく、「先例」に基づかない部分については、なぜ「先例」に基づかないのかが問われ、類似の「先例」がなくても、可能な限り、少しでも関係しそうな過去の答弁を根拠とすることが求められる。他方、弁護士も、たとえば契約書を作成する場合に、特に複雑なものになればなるほど、類似案件の「先例」をベースにドラフトすることは相応にある。しかし、そこで「先例」を使うのは、作業の効率化や典型的な論点の検討漏れを防ぐためであり、むしろ、案件の特性に応じて「先例」をリバイズすることにこそ我々の価値があると捉えられる。「先例を鵜呑みにするな」というのは常に先輩弁護士から指導される点であるし、先例のない全く新しい契約を作成する必要に迫られる場面も日常的に出くわし、そうした局面でこそ、この仕事の面白さを感じることができる。あるいは、これは省や部署によるのかもしれないが、官僚時代には組織の中で年次相応の発言権しか持たない空気を感じていたが、弁護士の世界では、1年目であろうが関係なく自分の考えをぶつけることを求められ、先輩弁護士に議論を挑むほど歓迎されるのである。新人弁護士時代は、年次にかかわらず一人のプロフェッショナルとして扱われることに、しばしば新鮮な気持ちといささかの緊張を覚えたものである。

 しかし、そうした大きな相違にもかかわらず、官僚時代の経験は、弁護士のいまの職務に大いに生きていると感じる。特に、クライアントの企業に対して行政との折衝についてアドバイスする場面では、やはり実際に行政官として仕事をしいろいろな行政官と会ってきたからこそ、行政側の行動原理や思考パターンについて、漠然とではあるが、つかむことのできるケースも相応にある。また、行政側の実務を知りたい時には、省の複雑怪奇な組織図とにらめっこするよりも、当時の人脈をたどって担当者に行きつく方が断然早い。ただ何より筆者が感じるのは、社会人1年目に、行政官として、社会人としてある種の挫折に近い経験を得たことが、いま弁護士として時に感じることのあるとてつもないプレッシャーやしんどさを乗り越える原動力となっていることである。社会人として生きること、人と共に働き人のために尽くすことがいかに大変かということは、最初から弁護士になっていたらどこまで気付くことができただろうと思うことがある。

 また、特に最近、我々のような企業法務の事務所でも、学校関係の案件を取り扱う事例が増えてきているが、そうした案件では、官僚時代に得た知識がそのまま仕事に生きることも多い。法令に関する知識はもちろんのこと、教育業界が今後どこへ向かっていくのか、今後国は教育に関してどういう方向性を打ち出していくのかといった論点に関して当時の業務を通じてジェネラルな知見を持っていることで、クライアントの担当者の話の理解も早くなり、場合によっては法的論点の検討の一助になったりもする。まだまだ教育分野が企業法務の中でメジャーな領域であるとまではいえないが、今後、最新技術と教育が融合するEdTech、学校・教育関連M&A、学校法人等による資金調達手段の多様化に伴う新たなファイナンス手法の開拓等、教育をとりまく環境の変化に伴い、企業法務のノウハウを活用できる領域も間違いなく拡大するはずだ。そんな時に、当時の経験を生かし、行政実務や感覚も踏まえた実践的なアドバイスを行える弁護士としてクライアントの役に立つことを通じて、教育に携わる方々や教育を受ける人たちに貢献できるのであれば、少しは古巣への恩返しになるのかもしれない。

再び虎ノ門にて

 虎ノ門のもう一つの顔、それは、良心的な価格で酒や肴を提供する飲み屋街としての顔である。文科省をはじめ近隣の省庁の多くの職員は、そんな飲み屋街のお得意様というわけである。

 先日、久々に当時の同期数人と虎ノ門の小さな飲み屋で酒を酌み交わした。筆者の退職時に「俺も転職しようかな」と冗談めかしていたはずの同期たちも早6年目。あと数年もすれば課長補佐といわれる幹部職員の仲間入りである。

 聞けば、筆者が経験できなかった係長としての仕事は、忙しくもやり甲斐があって充実しているのだという。やはり山道と同じく、最初の坂を登りきれば違う景色が見えてくるということか。他方、部下のマネジメントや今後のキャリアの築き方等、持っている悩みは、仕事は違えど驚くほど共通している。

 酒もそれなりに進んだ頃、同期たちに、「どう?そろそろ転職しない?外の世界も楽しいぞ。」と冗談を言ってみた。言った直後に、ちょっと意地の悪い質問だったかなと、少し後悔した。

 しかし、同期の一人は、少しだけ考えてから、こう言った。

 「いや、いいかな。なんだかんだ、いまの仕事楽しいから。そっちこそ戻ってきたら?」

 えぇ?まぁ、仮に自分が望んだとしても、貴省の人事課が許さないだろうな、と笑い飛ばしながら、あの時自分がもし違う決断をしていたら、今ごろ彼と同じことを言っていたのだろうかと、ふっと、考えても仕方のない問いが頭に浮かんだ。これが、俗にいう「年を取る」ということなのだろうか。

 小窓からわずかに見える、チョコレート色の建物とその後ろの高層ビルは、夜でも至るところであかりが灯っていて、あの当時から少しも変わっていないように見えた。