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法廷で2人の医師の意見が対立 窒息なのか脳梗塞なのか

老人ホームのおやつ提供で過失責任を問われた看護職員(11)

出河 雅彦

 長野県安曇野市にある特別養護老人ホーム「あずみの里」で、利用者におやつのドーナツを提供し、のどに詰まらせて窒息死させたとして、ホームの職員である准看護師が業務上過失致死の罪で起訴された事件を検証する本シリーズの第11回では、弁護側の依頼で鑑定意見書を作成した医師の法廷証言を紹介する。

長野地裁松本支部
 前回は、おやつの最中に突然意識を失った利用者の女性(以下、Kさんと言う)の死因などについて検察側の依頼で鑑定意見書を作成した埼玉医科大学の根本学医師(同大国際医療センター救命救急センター長)の法廷証言を紹介した。根本医師は検察官から提供されたKさんのカルテなどをもとに鑑定を行い、法廷ではKさんの心肺停止の原因について「窒息以外に見いだせない」旨の証言をした。

 今回紹介するのは、根本医師の証言から約3カ月後に開かれた第18回公判(2018年6月25日)で、Kさんが窒息を起こした可能性を否定した福村直毅医師の証言である。

 福村医師は、摂食嚥下障害のリハビリテーションを専門とする医師で、長野県飯田市の健和会病院に勤務している。摂食嚥下障害は、食べ物を口から取り込んで胃に送り込むまでの一連の動きのどこかに問題があって、食べ物をうまく食べることができない障害のことである。福村医師は、業務上過失致死の罪で起訴された准看護師(以下、Yさんと言う)の弁護側の依頼で二つの鑑定書を作成した。一つは、Yさんの公判が始まってから約10カ月後の2016年2月15日付で、もう一つは、自身が証言する約1カ月前の2018年5月24日付のものである。後者は第15回公判(2018年3月12日)における根本医師の証言を踏まえた内容になっている。

 福村医師は山形大学医学部の出身で、卒後、同大学脳神経外科での研修や複数の病院でのリハビリテーション専門研修を受けた。山形県内のリハビリテーション病院の勤務を経て、Yさんの刑事裁判が始まった2015年に健和会病院の総合リハビリテーションセンター長に就任した。証言した当時、年間約1500人の摂食嚥下障害患者の診察を行っていた。

 福村医師は経歴や専門分野に関する質問に答えた後、「Kさんにドーナツによる窒息が生じたか」という弁護人の問いに対し、「窒息は生じ得ないと結論しました」と証言した。その結論に至った理由について福村医師は、動画も含めて計102枚のスライドを使いながら説明した。

 まず窒息の定義や、口の中で咀嚼した食べ物が気管内に流入(誤嚥)しないよう食道に押し出す嚥下の仕組みなどについて説明した福村医師は、摂食嚥下障害の原因や診断について次のように証言した。

 嚥下障害とは、口腔内の水分、食塊を下咽頭、食道を経て胃へ送り込む一連の嚥下運動の障害を言います。嚥下動作の準備や知覚及び運動神経の働きの障害も含めて、摂食嚥下障害と言います。摂食嚥下障害の症状や原因はさまざまになります。嚥下障害のうち、客観的な機能障害については、造影検査や内視鏡検査、あるいは生理機能検査などで障害の有無や程度を客観的に評価します。いずれにせよ、嚥下障害は経験を積んだ咽喉の専門医師が評価すべきものです。

 この後、弁護人はKさんに窒息の原因となる摂食嚥下障害があった否か尋ねた。その質問に対し、福村医師は「誤嚥や食物による窒息の原因となる摂食嚥下障害があったと認め得る根拠はない」との判断を示し、その理由を以下のように述べた(尋問調書の実名部分は「Kさん」とした。スライド記載内容を誤って述べたことが弁護人の指摘で判明した部分は訂正した証言に従って修正した)。

 口の中に食物を詰め込んでしまう特癖というのは、気道における窒息とは関係がありません。口の中に食物を詰め込んでも、鼻腔が通じていれば窒息は生じません。口の中に食物を詰め込んだとしても、その全量を1度に嚥下しようとすることは、嚥下障害がなければ生じません。摂食嚥下障害のない方は、口の中の食物を咽頭を通過して嚥下し得る量の食塊に分けて、順に咽頭に送るからです。嚥下できない量の食塊を咽頭に送ってしまうこと、あるいは咽頭に送られた食塊を嚥下できず、咽頭に食塊がとどまってしまうことというのは、摂食嚥下障害の一つではありますが、そのような症状があれば、日常の食事中にむせ、誤嚥、呼吸困難などの症状が表れていたと考えます。Kさんにはこのような摂食嚥下障害があると診断されたことはありませんし、そのような障害を原因とする症状も見られていませんでした。(略)Kさんには、適量の食塊に分けられない場合には飲み込もうとせずに、口腔内にとどめ置くという正常な機能が観察されております。Kさんは、過去に口にためてしまって食べられなくなったことがある。これは、咽頭に送り込めないままに口にためる状態と解釈されます。つまり、送り込みに必要なだけ咀嚼できないうちには、次々と口腔内に食物を投入してしまっても、口腔内知覚によって咽頭への送り込みが規制されていたと考えます。送り込むことなく口にためているということになります。同様に、破断されないドーナツは表面的な硬さがあるため、咽頭への送り込みが規制され、むしろ口腔内にとどめるものと考えられます。実際、大きなドーナツの塊は口腔内から発見されています。Kさんは、嚥下にふさわしい状態になっていないドーナツを咽頭に送り込む可能性は、極めて低いと考えます。咀嚼していないドーナツを咽頭に送り込んでしまう可能性はないと思います。

 この後、弁護人は窒息の原因となり得る異物の特徴や、Kさんがおやつに食べたドーナツの物性、日本の窒息診断などについて教えてほしい、と福村医師に問いかけた。

 福村医師は窒息の原因となる異物の必要条件として以下の三つを挙げた。

  1. 気道のある断面を充満させる量あるいは大きさ
  2. 気道断面の起伏に沿って変形する能力、または気道断面を覆ってしまうような形
  3. 口腔、咽頭、喉頭の運動のストレスを受けても閉塞を維持するだけの性質

 これらの条件を満たす代表例として福村医師が挙げたのは餅だった。餅はかみ切りにくく、大きな塊のまま咽頭に流入する可能性がある点で1の条件を満たし、やわらかく、ある程度変形しやすいため、咽頭にとどまると咽頭内腔を充満するようにぴったりと変形し得るということで2の条件を満たす。さらに、温かい餅は付着性があり、大きな塊になると咽頭の粘膜に張り付いてとどまりやすくなることがある。温度が変化してくると硬さが増し、気道の複雑な形に沿ったままで変形しにくくなると、せきなどで排出されにくくなる。こうした性質から3の条件を満たすという。

 そのうえで福村医師は、Kさんが食べたドーナツは「窒息を生じさせ得る異物とは言いがたい」と述べた。その理由として、①前記1の条件(気道の断面を充満させる量、大きさ)は喉頭や声門、気管であれば満たすが、咽頭や口腔では不可能である、②前記2の条件(変形する能力)については、ドーナツは一塊のままではほぼ変形せず、非常に崩れやすく、一度崩れた破片は唾液などの水分があってもまとまりにくいので、気道断面の起伏に沿い、すき間なく閉塞するようには変形しない、③ドーナツは付着性、粘着性、弾性が低いため、むせやせき込みなど異物を排除することができる運動によって簡単に崩れて移動してしまう、ことを挙げた。Kさんにむせやせき込みができないほどの体力の低下が見られないことも指摘した。

 福村医師は続いて、Kさんが食べたのと同じドーナツの硬さ、凝集性(崩れないで一塊になっていられるかどうかという性質)、付着性(張りついて動かないかどうかという性質)を嚥下困難者用食品の試験方法を用いて測定した結果を紹介した。

 それによると、硬さは、咀嚼力が衰えた患者の咀嚼訓練に使われる「赤ちゃんせんべい」「たまごぼーろ」「かっぱえびせん」よりもやわらかいことがわかり、福村医師は「本件ドーナツはKさんに咀嚼可能な物性であったことが証明されました」と述べた。また、凝集性は低く、一度崩れた場合に一塊になりにくいと述べた。さらに、付着性も低いため、気道に付着しにくいことがわかったという。福村医師はこうしたドーナツの特性を踏まえ、次のように結論づけた。

 本件ドーナツの物性からも、気道の閉塞は生じないと結論します。本件ドーナツの凝集性は低く、崩れたドーナツの破片で気道を閉塞させるには相当量を必要とします。相当量が気道内にあった場合には、気管内にも多量の破片が迷入します。本件で気管内に破片はなく、気道にも破片はなかったので、ドーナツの破片では閉塞しない、できないということが分かります。変形能も低く、閉塞できないし、閉塞を長時間維持することもできません。もろくて凝集性が低く、閉塞を長時間維持できず、流れ落ちてしまいます。牛乳と一緒に摂取し、泥状になって咽頭に送られると一層、凝集性、付着性、弾性がなく、まとまりにくく、崩れやすく、流れやすくなることが分かりました。このようなドーナツで閉塞状態を生じさせることは、気管や気管支に多量の泥状のドーナツが詰まった、とどまった場合以外には不可能と言うべきと考えます。

 この後、福村医師は世界保健機関(WHO)が公表しているデータベースから2016年のデータを抽出して作った「窒息死亡数の国際比較」と題するグラフを示しながら説明した。それは各国の最新報告に基づき、「食物による窒息死」の総件数に占める各国の割合を円グラフにしたもので、日本が全世界の33%を占めている実態を示していた。福村医師は「人口では2%にすぎない日本が、全世界の33%の窒息死を占めているという異常事態が分かります」と述べた。

 続いて福村医師は、経済協力開発機構(OECD)加盟27カ国の「気道閉塞を生じた食物の誤嚥による死亡率」のグラフを示した。これは、人口10万人当たり、気道閉塞を生じた食物誤嚥で何人死亡しているかを示した棒グラフだった。日本の死亡率は3.7人で、フランスに次いで2位だった。このデータについて福村医師は次のような解釈を示した。

 日本が食生活で近いアメリカは0.3程度、人種的に近いと思われる韓国は0.6程度と、日本に比べるとかなり低い数値になっております。(略)日本の場合、ヨーロッパに比べると米飯食が多く、米飯よりもパンのほうが窒息しやすいと報告があるにもかかわらず、食物誤嚥による窒息死亡率を比べると、日本はアメリカの約10倍と、主食の窒息のしやすさに比べて逆転しています。そして、韓国の約5倍です。日本だけが抜きん出て食物誤嚥による窒息が多い理由が、食生活の要因や人種的な要因が主体とは考えにくいと思います。大きな要因として考えられるのは、食物誤嚥による窒息に診断基準がなく、現場の医師の主観に委ねられていることではないかと思います。

 福村医師は、ある状態を窒息だと診断しやすい背景にある「誤解」について自身の考えを述べた。最初は「のどに食物が詰まった」という状態と「窒息」との違いについてである。

 喉に詰まるという表現がありますが、これと窒息の区別が必要だと考えています。多めの食塊を飲み込もうとして、飲み込みづらかった場合に、喉に詰まったという表現が用いられることがありますが、窒息が生じたこととは厳密に区別しなければなりません。異物による窒息とは、気道のいずれかの場所において、異物によりすき間なく閉塞されたときにのみ生じると考えます。食物が食道に滞留したとき、食道部分に苦しさを感じ、水などで流し込もうとすることがありますが、これは気道で生じている閉塞ではありませんので、窒息とは関係がありません。また、咽頭に食物があって、嚥下しにくい状態であったとしても、気道が閉塞されていなければ窒息ではありません。

 次に、「むせ」と「窒息」の区別の必要性について述べた。

 食物を誤嚥して、むせがあったときに、窒息したという表現が用いられることがあります。しかしながら、窒息の有無とは厳密に区別されねばなりません。むせは異物を誤嚥、気管に入ってしまった、そういったときに起きる反射運動です。ごくわずかの量の食物や水分の誤嚥でも、むせは生じます。また、むせているというときは、(略)空気が通っていますので、窒息はしていない状態になります。激しく咳込んだとしても、呼吸はできているので、それは窒息したのではありません。このように現場では、慣用表現としてのむせ、窒息と、医学表現としてのむせ、窒息が混同されています。

 この後、福村医師は鼻腔、口腔から肺胞に至る、気道を構成する各部位の特徴や、窒息するための条件について説明し、Kさんについてはいずれの場所においてもドーナツによる窒息が生じたことはありえないと証言した。そうした結論に至った理由について弁護人から質問された福村医師は、「Kさんが窒息時に見られる行動を全く取っていないということが、これは臨床医としてはあり得ないと考える一番の根拠になってもおかしくないと思います」と答えた。

 「窒息時に見られる行動」の一つとして挙げたのは、むせやせき込みである。福村医師は、前回紹介した埼玉医科大学の根本学教授の証言に言及しながら次のように述べた。

 食物が喉頭内、声門付近に入ると、喉頭や声門が閉じて、食物の気管への侵入を防ぎ、咳嗽反射によって本人の意思にかかわらず激しく咳込みます。根本証人は、ドーナツが声門に陥入したと言いますので、もしそうなのであれば、嚥下能力に問題がなく、むせができていたという証言もありますので、こういったKさんがむせる運動をしなかったとは考えにくい。しかし、むせや咳込みは全くなかったということなので、声門付近にドーナツは進入していない証拠になります。

 「窒息時に見られる行動」に見られるもう一つの行動として挙げたのは、窒息サインである。福村医師は次のように述べた。

 窒息サインとは、窒息が生じたことを他人に知らせるため、自分の喉を親指と人差し指でつまむこと、窒息した者に一般的に見られる行動とされています。Kさんはそのような行動を取っておりません。窒息サインは認められていませんでした。(略)そのほかにも、むせたり、もがいたり、声を出そうとしたり、隣に座ったYさんを叩いて知らせたりなどといった危機を脱するための反射的な、あるいは意図的な動作が全くなかったと考えられます。(略)窒息であれば、意識があって動ける時間が普通、1分以上あり、Kさんは歩けるし、絵も描ける能力があるのですから、手で隣のYさんに知らせたり、もがいたりすることで音を出して、周りの人が気がつくということは容易に考えられるところです。周囲の者に何も知らせないまま意識を失っていて、窒息を原因とする意識消失とは矛盾しています。異常を周囲に知らせる機会がなく、意識消失に至っていると考えるのが自然です。

 窒息サインについては、埼玉医科大学国際医療センターの根本医師が同センターの救命救急センターに搬送され、「窒息」と診断された86症例(以下、「根本医師の86症例」と言う)を調べたところ、周囲に人がいたことが判明した54例のうち窒息サインが明らかになったのは2例だったと証言したことを前回紹介した。この根本医師の証言について福村医師は「学術報告として致命的な欠陥が複数存在していて、信じる根拠は限りなく乏しい」と批判した。福村医師がその根拠として挙げたのは、次の点である。

  1. 周囲に人がいた54症例のうち、①意識消失まで患者の変化に気がつかなかった、②チアノーゼ出現まで患者の変化に気がつかなかった、③窒息に関する情報がない、が計18症例あったとのことだが、「チアノーゼ出現まで患者の変化に気がつかなかった」はチアノーゼの出現が分かっていたのだから、窒息が周囲にまったく判明しなかったという事例には当たらない。「窒息に関する情報がない」は、情報がありながらカルテなどに記載されていなかった場合が含まれている可能性があるので、窒息が周囲にまったく判明しなかったという事例には当たらない。
  2. 上記18症例のうち、②と③の症例数が分からない。
  3. 根本医師は救急隊の記録、搬送された病院での診療録をもとに調査したとしているが、それらの記録は窒息時に近くにいた者が窒息サインなどの有無を意識して、窒息の状態を記録していたものではなく、その上、救急隊による伝聞である。
  4. 根本証人が検討した各症例の患者の嚥下障害、身体障害、認知症の程度、近くにいた者の状況や距離、窒息が生じたと判断した経緯及び根拠がすべて不明になっている。
  5. 根本証人が窒息として扱った症例に窒息以外のものが混在している可能性について吟味されていない。

 さらに福村医師は「根本医師の86症例」には臨床研究として以下の三つの学術的欠陥があると指摘した。

  1. デザインの欠陥
    「窒息」や「窒息サイン」の定義がなく、初めから窒息と考えた人たちを集めていて、追試ができない状況になっている。
  2. データ取得の欠陥
    「窒息サインがないこと」を証明するためには、患者の全過程について漏れなく観察し、すべて記録しなければならないが、実際に情報収集されたカルテはこのような目的のために作られたものではなく、欠損値が多数含まれていると考えられる。
  3. 論理の欠陥
    「窒息サインがない症例を我々は窒息と判断した」を「一般に窒息とは窒息サインがない症例だ」と誤認している。

 連載第10回では、背部叩打法により、「口腔から気管内までのいずれかの箇所を塞栓していたドーナツが口腔内に戻ることはあるのか」と検察官に問われ、「はい」と答えた根本医師の証言を紹介した。これに対し弁護人が、背中を強くたたいて胸腔を変形させて圧迫し、内圧を高めて異物を排除しようという背部叩打法は、むせとかせきに比べて圧が弱いことを理由に、「喉頭部分にあった泥状のドーナツが口の中、つまり舌根沈下の可能性もある狭いところを通って口まで出てくるということは、すごく考えにくいことではないですか」と質問したのに対し、根本医師は「可能性としては低いかもしれませんが、取れる可能性があるという前提でAHA(※筆者注=アメリカ心臓協会)は強く推奨してるわけです」と答えた。この点について弁護人から尋ねられた福村医師は次のように述べて、根本医師とは反対に、背部叩打法によってドーナツ片が口の中に戻る可能性を否定した。

 胸腔は肋骨で覆われていて、背部を叩いてもわずかに変形させるにとどまり、横隔膜を押し上げるハイムリッヒ法などに比べて、排気される空気量は少なく、胸腔内圧の変化も少ないと考えられています。口腔内から発見されたドーナツは、前述のように声門を完全に閉塞せず、すき間から空気が漏れてしまうので、ドーナツを声門から口腔内に排出させるほどには気管の内圧は高まりません。これは、空気鉄砲と同じ原理で、すき間のある弾というのは力が伝わらないのですね。咳が異物を排出する空気圧を持つのは、咳の直前に1度声門が閉じ、気管内の空気圧が高まるからです。(略)YさんはKさんを左腕に抱きかかえて、Kさんの背部を叩いたが、このときのKさんの姿勢は椅子に座ったままの状態であり、頭部を低くした事実はなく、高い位置に保たれていたのですから、異物を空気圧で除くには重力に逆らって口腔内まで持ち上げるほどの空気圧と空気量が必要です。しかし、それほどの高い空気圧が生じることは、前述のとおり、すき間が空いていて空気が漏れることなどから、あり得ません。仮にすき間がなかったとしても、背部を叩いた程度では空気圧と空気量が足りず、声門から口腔へやわらかいドーナツ片を移動させることはできません。さらに、もしドーナツ片が声門を閉塞していて、ドーナツ片が空気圧により声門から上部に大きく飛び出したと仮定しても、前記Kさんの姿勢では、ドーナツ片は上咽頭(※筆者注=気道の一部で、鼻の奥に位置する)や鼻咽腔(原文ママ。「鼻腔」の誤記と思われる)の方向へ向かうことになります。あるいは、口蓋垂(こうがいすい。※筆者注=口の奥の垂れ下がっている乳頭状の突起)にぶつかってしまって、口腔内へは出ていきません。また、意識消失時は軟口蓋、上顎ですね、が口腔を覆っていて、ドーナツ片が軟口蓋と舌のごく狭いすき間を通り抜けて排出される可能性はありません。(略)異常がない状態から30秒程度のうちに発見され、背部を叩いたのであれば、呼吸中枢が低酸素状態により障害を受ける前ですから、その時点で背部叩打法により塞栓物質が除かれて、窒息状態が解除されたならば、自発呼吸が再開するはずです。しかしながら、Yさんが食堂においてKさんの背部を叩いた時点では、Kさんの自発呼吸は再開しませんでした。居室において、細川看護師長や救急隊員によってKさんの呼吸停止は確認されています。Kさんの呼吸は、異変発生からおよそ4時間以上が経過した午後7時40分頃になって、弱い自発呼吸が時折見られるようになったにすぎないんです。口腔内のドーナツ片は、背部叩打法による声門から移動したものではなく、単にKさんが意識を失ったときに口腔内にあったものと考えるほかありません。(略)

 Kさんの窒息の可能性を否定した福村医師は、Kさんが心肺停止に陥った原因について、「脳梗塞あるいは致死性不整脈、または心筋梗塞などの急性心疾患により生じたものと考えるのが適当と言えます」と証言し、特に脳梗塞について詳しくその理由を述べた。

 福村医師はまず、Kさんの既往症である心臓の病気(左心室肥大と心臓肥大)によって血栓ができやすくなるので、脳梗塞の危険因子になり得ると指摘した後、Kさんの死後に松本協立病院で取られた頭部のCT写真をスライドで示しながら、説明していった。示されたのは、画面上の上を顔の側、下を後頭部の側にして、水平に切られたCT写真である。

 福村医師はその写真の真ん中あたりに蝶が羽を広げたように左右対称で黒くなっている部分を指しながら、「脳底動脈の閉塞症、特に脳底動脈先端部症候群と言われる脳梗塞のパターンになります」と述べた。脳底動脈は脳幹や小脳、後頭葉に血液を運ぶ動脈である。その動脈が左右2本に分かれて後頭葉に向かう分かれ目を脳底動脈先端部と言う。脳底動脈先端部から分かれた細い血管が詰まり、その血管が血液を運んでいるところが脳梗塞になるものを脳底動脈先端部症候群もしくは脳底動脈先端症候群と言っている。

 福村医師はこの脳梗塞について、目の麻痺や意識障害、記憶障害などを伴い、予後不良で死亡率が40%である、と説明した。そして、心臓などでできた血栓がはがれて移動し、脳の動脈を詰らせることで起こる脳梗塞(=脳塞栓症)の場合、時に血栓が自然に溶解して崩れ、閉塞部分の血流が再開通するが、細い血管を詰らせることがあると述べた。そのうえで、こうした脳梗塞からどのように意識消失、呼吸停止、心拍停止に至った可能性があるか、Kさんのように発症時に呼吸中枢が抑制され、かつ弱い自発呼吸が再開する場合の経過としてどのような推定が可能であるか、についておおむね次のように説明した。

  1. 脳底動脈が血栓により一時的に詰まった。
  2. 意識中枢の機能障害により、意識を消失した。
  3. 呼吸中枢の機能障害により、呼吸停止した。呼吸停止により低酸素状態になり、その後心拍も停止した。
  4. 血栓が崩れて流れていって、その先のより細い血管を詰らせ、脳底動脈先端部症候群となり、中脳・両側視床の脳梗塞となった。
  5. 延髄については、血流が再開し、その部分には脳梗塞は生じなかった。

 前回紹介した根本医師は、福村医師の証言に先立ってYさんの公判に検察側の証人として出廷した際、福村医師が鑑定書で上記のような経過推定を述べていることに関連して検察官からの質問に次のように答えていた。

 検察官 福村医師は、Kさんが脳梗塞によって心肺停止した可能性として、脳底動脈が血栓により梗塞し心肺停止となったものの、血栓がその後崩れて塞栓がなくなったことによって自発呼吸が再開したと、こういう意見を述べられてますね。

 根本医師 はい。

 検察官 このような機序なんですけど、これは実際の臨床の場でもあり得るものなんでしょうか。

 根本医師 恐らく一過性の虚血発作が呼吸停止の原因だというふうに考えられたと思うんですけれども、このように突然呼吸が停止するような状況下において、血栓が都合よくすぐに溶けて流れて血流が再開するという考えに至るのは、相当な無理があるというふうに判断をしております。

 福村医師はこの根本氏の証言について、「明らかに誤認」と述べた。その根拠として、2つの報告を上げた。一つは、41例中18例(44%)に再開通がみられた、もう一つは139例中23例(16.5%)に再開通がみられたという報告だった。これらのデータと、脳塞栓症がすべての脳梗塞の約30%を占めていることを基に、福村医師はすべての脳梗塞の「5から13%程度」が再開通する脳塞栓症と推定したうえで、次のように述べた。

 「日本の年間脳梗塞発症率、発症者数は20万人程度おりますので、日本全体で言うと、年間1万人から2万5000人程度が再開通する脳塞栓症と推定されます。食物誤嚥による窒息の件数は、死亡者が年間約5000人、搬送された患者の半数以上が亡くなっているとする報告が多いことから、窒息件数は多く見積もっても年間1万人程度と考えられます。そうしますと、食物誤嚥による窒息件数が約1万に対し、再開通する脳塞栓症というのは

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