老人ホームのおやつ提供で過失責任を問われた看護職員(19)
2023年04月17日
長野県安曇野市にある特別養護老人ホーム「あずみの里」で、利用者におやつのドーナツを提供し、のどに詰まらせて窒息死させたとして、ホームの職員である准看護師が業務上過失致死の罪で起訴された事件を振り返ってきた筆者は、死因究明の重要性を改めて認識するとともに、刑事裁判を検証する必要性を感じた。本シリーズでは、あずみの里事件の捜査や公判に対する弁護側の疑問を何度か紹介してきたが、筆者自身が取材を通して感じたこの事件の捜査と公判の問題点、無罪確定事件の検証について捜査当局や裁判官に質問してみた。その取材過程と結果を2回に分けて報告したい。最初は警察と検察に対する取材について述べる。
しかし、東京高裁は弁護側が証拠請求した意見書のほとんどを却下し、1回の審理で公判を結審させた。弁護側の二度にわたる弁論再開申し立てにも応じなかった。2020年7月28日、東京高裁は一審判決を破棄し、Yさんには提供すべきおやつの形態を確認する注意義務があったとは言えないという理由で無罪を言い渡した。だが、大きな争点だった死因については認定せず、ドーナツをのどに詰まらせたことによる窒息(=事故死)なのか、脳梗塞(=病死)なのかを曖昧にしたままだった。
公判の間も「あずみの里」で働き続けてきたYさんは、無罪が確定してから約1年後の2021年7月に出版された記録集『逆転無罪-特養あずみの里刑事裁判の6年7カ月』(特養あずみの里業務上過失致死事件裁判で無罪を勝ち取る会発行)への寄稿で、仕事を失うのではないかと不安を抱えていたことや、「被告人」と称されるたびにいたたまれない気持ちになっていたことなどを振り返りながら、支援してくれた人たちへの感謝の言葉を述べた。
この記録集が出版される直前、Yさんは筆者の取材に応じた。裁判でKさんの死因が大きな争点になったことや、Kさんの解剖が行われていなかったことをどう受け止めているか尋ねると、Yさんは次のように答えた。
解剖して死因を詳しく調べなくても起訴にもっていける、そんな理不尽なことがまかり通るのだということを自分の裁判を通して知りました。そういうことが正されていかないと、自分のような辛い思いをする人がまた出るのではないかと心配しています。警察、検察は同じ過ちを繰り返さないようにしてほしいです。
本シリーズの第1回、第4回で紹介したように、パロマ社製ガス湯沸かし器の一酸化炭素中毒事故などをきっかけに、2012年6月、「死因究明等の推進に関する法律」(死因究明等推進法)と「警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律」(死因・身元調査法)が成立した。死因・身元調査法が制定されたのは、死因を究明するための解剖の重要性が認識された結果であり、「事件性なし」と判断されて司法解剖を行わない死体についても死因を調べるために警察署長の権限で解剖(調査法解剖)を行うことができるようになった。検視などでいったんは「事件性なし」と判断して調査法解剖を実施し、その後事件による死亡の疑いが出てきて司法解剖に切り替えられることもある。長野県警は死因・身元調査法が施行されてから9カ月後の2014年1月に亡くなったKさんの遺体の解剖を行わなかった。Kさんの死亡前から捜査を始めていたにもかかわらず、何を根拠に「解剖は不要」と判断したのだろうか。筆者は2021年8月、長野県警に対し書面で取材を申し入れた。
この取材依頼に対し、長野県警刑事部捜査第一課検視官室は2021年9月9日付の文書で「お尋ねについては、個別の事件に関する事柄であり、回答は差し控えさせていただきます」と回答した。
筆者は長野県警への取材申し込みと同時に、長野地方検察庁の古谷伸彦検事正(当時)にも取材を申し入れた。
取材依頼文に記した質問の概要は以下のとおりである。
長野地検検事正に対する取材依頼で筆者がとくに知りたかったのは、「捜査・公判活動の問題点」を検証したか否か、という点である。最高検察庁は近年、冤罪事件の捜査の問題点を自ら検証し、その結果を公表するようになっている。「いわゆる氷見事件及び志布志事件における捜査・公判活動の問題点等について」(2007年8月)、「いわゆる足利事件における捜査・公判活動の問題点等について」(2010年4月)、「いわゆる厚労省元局長無罪事件における捜査・公判活動の問題点等について」(同年12月)がそれに当たる(注1)。
組織内部での検証には自ずと限界があるが、過去に起きた数多くの冤罪事件からわかるように、誤って行使された場合には個人の生活と人権に取り返しのつかない打撃を与える強大な権限を持つ検察庁が、自らの過ちについて検証を行うことは重要なことであり、筆者としてはこのような取り組みは前向きに評価すべきであると考える。
長野地検検事正が取材に応じなかったので、無罪が確定した事件について検察庁がどのように検証をしているかを知りたいと考え、林眞琴検事総長(当時)に取材を申し込むことにした。
「検察の使命を全うするためには、職員一人一人が、常に検察の理念に立ち返り、検察権の行使が国民の信頼という基盤に支えられていることを意識しつつ、公正誠実さ、あるいはフェアネスといった点を重視した適正な検察権の行使に努めていかなければならないと思っております」
これを読んだ筆者は、林氏への取材依頼文に「高齢者介護はこの国に住むすべての人にとって避けては通れない課題です。その高齢者介護の現場は、人材難や低賃金に苦しみながらも、介護事業者や介護従事者の懸命の努力で支えられています。そうした介護事業者や介護従事者、ひいては介護サービスを利用する高齢者に深刻な影響を与えた『あずみの里事件』で、検察庁の主張は退けられました。この際、捜査と公判の過程を検証し、その結果を社会に向かって説明し、国民が今回の事件に対して抱いている疑問や不信に答えれば、『検察権の行使』の『基盤』であると林様がおっしゃる『国民の信頼』はさらに高まると思うのですが、いかがでしょうか」と記したうえで、以下の3点を尋ねた。
この取材依頼に対し、最高検察庁から2021年10月14日付で以下のような文書回答があった。
御指摘いただいているように、「職員一人一人が、常に検察の理念に立ち返り、検察権の行使が国民の信頼という基盤に支えられていることを意識しつつ、公正誠実さ、あるいはフェアネスといった点を重視した適正な検察権の行使に努めていかなければならない」という点は、検察活動の基本であるものと認識しております。また、「国民の信頼」という観点において、国民に対する説明は重要であると思っております。
さて、今般の書面においては、特定の事件の捜査・公判活動に関する疑問を示していただいております。しかしながら、具体的な事件に関する検察官の活動に関する事項、あるいは、証拠関係にわたる事柄については、事件関係者の名誉・プライバシーや今後の捜査・公判への支障等の観点から、基本的にお答えを差し控えざるを得ないことを御理解いただきたく存じます。
その上で、御質問にありました点につき言及しますと、検察庁においては、一般に、無罪判決があった場合は、当該事件における捜査・公判の問題点に関する検討を行うなどしており、必要に応じ、問題意識を共有するとともに、反省すべきところがある場合は反省し、その後の捜査・公判の教訓としております。
そうした検討や問題意識の共有は、事案の内容・性質に応じて様々な方法で行われますが、検察内部での検討状況については、当該事件の関係者のプライバシーや具体的な捜査手法等にも関わるものですので、基本的に公表することを予定しておらず、事案に応じて適切に対処しているものです。
終わりに、検察が国民の信頼という基盤に支えられる上で、どのような姿勢や感覚が必要かということについて、前向きに御指摘いただいた諸点につきましては、真摯に受け止めさせていただきます。
「無罪判決があった場合は、当該事件における捜査・公判の問題点に関する検討を行」い、「反省すべきところがある場合は反省し、その後の捜査・公判の教訓として」いるとする一方で、「検察内部での検討状況については、当該事件の関係者のプライバシーや具体的な捜査手法等にも関わる」から、「基本的に公表することを予定して」いない、という回答を読んで、以下のような疑問が浮かんだ。
氷見事件、志布志事件、足利事件、厚労省元局長無罪事件の捜査・公判の問題点の検証結果を公表したのはなぜなのか?
検証する無罪事件の選定、検証の実施方法、検証結果の公表範囲などについて、最高検が基準を作成しているのではないか?
こうした疑問を確かめるため、最高検からの回答が届いてからほどなく、筆者は情報公開法に基づき、再審を含めて刑事裁判で無罪判決が確定し、検察庁として捜査・公判の問題点等について検証を行う際の対象事件の選定、検証の方法、検証結果の組織内での共有、検証結果の公表などについて定めた規程を記した文書などを開示するよう、2021年10月に最高検に請求した。
開示請求文書には、あずみの里事件のほか、「福島県立大野病院事件」(2006年に業務上過失致死罪と医師法違反で起訴された医師に対し福島地裁が2008年に無罪を言い渡した判決が確定)、「湖東記念病院事件」(入院患者の人工呼吸器を外したとして殺人罪で有罪判決を受け服役した滋賀県内の病院の元看護助手の再審請求が認められ、2020年の大津地裁の再審無罪判決が確定)、「布川事件」(1967年に茨城県で発生した強盗殺人事件で服役した2人の再審請求が認められ、2011年に水戸地裁土浦支部が言い渡した再審無罪判決が確定)、「東住吉事件」(1995年に大阪市東住吉区で放火により娘を殺害したとして殺人罪などで有罪判決を受け服役した母親と内縁の夫の再審請求が認められ、2016年に大阪地裁が言い渡した再審無罪判決が確定)の計五つの無罪確定事件について検察庁が捜査・公判について検証した結果をまとめた文書や、検証の実施を決定するまでの庁内での検討や法務省との協議の過程、検証方法、検証担当者の人数・所属部局名・役職について記した文書と関連の決裁文書を含めた。
このうち、湖東記念病院事件、布川事件、東住吉事件はいずれも、いったん確定した有罪判決によって長期間服役した冤罪被害者が再審を求め、最終的に無罪を勝ち取った事件であり、冤罪の再発防止の観点から検証が不可欠な事件といえる。産婦人科医が逮捕された福島県立大野病院事件は全国の医師を震撼させ、医療事故調査制度の創設に向けた議論にも大きな影響を与えたことで知られる。事件の当事者に限らず、同様の職責を担う全国の専門職に広く衝撃を与えたという点で、あずみの里事件と共通点がある。筆者は、このような社会的広がりをもった事件で自らの主張が認められなかった場合、検察には過ちの原因を検証し、社会に対し説明責任を果たす義務
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