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(1) 第二の人生が暗転? 内容証明郵便が届いた夏の日

 

滝沢 隆一郎

 ■幸せな転職

 田中明夫(仮名)は、幸せな転職をした。

 電気製品用の希少金属(レアメタル)や鉱物由来素材を取り扱う商社の営業本部長を長く務め、売上げ拡大と会社の発展に貢献してきた自負がある。

滝沢 隆一郎(たきざわ・りゅういちろう)
 1966年生まれ。弁護士。架空の保険会社を舞台にした小説『内部告発者』で2004年に第1回ダイヤモンド経済小説大賞(現・城山三郎経済小説大賞)を受賞。「滝沢隆一郎」はその際のペンネーム。弁護士としては、商取引、営業秘密保護、リスクマネジメントなどに詳しい。また、脚本協力・法律監修で約40作品のテレビドラマ制作等に関与している。

 54歳。まだ定年を考える歳ではなかったが、昨年、会社の社長が創業者オーナーから、自分より15歳若いジュニアに交代した。

 若社長に気を使って身を退くなどという大層なものではなかったが、二代目が打ち出す新しい営業方針は、これまでの自分のやり方を否定されている気もした。

 この会社では、自分の役割は終わったのかなという寂しさとともに、もうひと花、咲かせられるという自信もあった。

 田中は、元の会社、井上金属総合商事(仮名)を退職した。功労分を上積みした十分な金額の退職金も受領した。

 たまたま、前から声をかけてくれていたナノメタリクス(仮名)という新進の同業他社があり、インセンティブ(業績対応賞与)付きの好待遇で入社した。

 以前からの得意先にも転職のあいさつに顔を出し、その中の何社かは、新規の取引を申し出てくれた。長年の信用に基づく幅広い人脈と豊かな業界経験が、田中の財産だった。

 インセンティブだなんて、一流のプロ野球選手みたいで格好いいじゃないか。田中は思った。俺は運がいい。いや、運も実力のうちだ。

 順調にスタートした田中の第二の人生は、サラリーマンであれば誰にでもありうる普通の転職のはずであった。

 ■内容証明郵便

 夏のある日、午前中の会議を終えた田中の携帯電話に、自宅にいる妻から、佐藤法律事務所という弁護士の内容証明郵便が送られてきたと連絡があった。

 田中には思い当たるトラブルはない。それでも、弁護士からの内容証明郵便と聞けば心穏やかではない。妻に知られて困ることが書いていないか一瞬とまどったが、今すぐ知りたい気持ちが優先し、妻に封筒を開けさせ、中身を読ませた。

 通知書と題された文書は、元の勤務先である井上金属総合商事の代理人弁護士から送られたものだった。

 それによれば、田中は、退職につき嘘の説明をし、会社の営業秘密である営業資料や顧客名簿を無断で持ち出した上、退職後2年間同業種に関与しない旨の誓約書に違反し競業会社に就職して、井上金属総合商事の有力顧客を不正に横取りしていると指摘されていた。

 さらに、違反の事実を認め、直ちに退職金を全額返還すること、誠意ある対応をしなければ、現在の勤務先であるナノメタリクスに対しても通知書を出し、損害賠償請求訴訟を起こすという。

 ■営業秘密

 田中には、営業秘密の持ち出しなど身に覚えのないことだった。

 確かに、社長には、「しばらくは田舎でのんびりします」と説明したが、ナノメタリクスに転職すると言うと角が立つと思って、本当のことを言えなかっただけだ。

 会社に顧客名簿などなく、自分がもらった名刺をパソコンに打ち込み、以前の資料を自分で作り直したものを使っている。

 ただし、気がかりなことを思い出した。

 営業本部長に昇進する際に、退職後も会社の企業秘密を漏洩しない、退職後2年間、同業種には関与しないなどと書かれた会社が作成した誓約書にサインしていたのだった。

 そのころ、田中は、インターネットで探した弁護士に法律相談をした。担当の若い弁護士は、「こんな誓約書は、法的に無効で意味がないから、昇進したいなら黙ってサインしても問題ないですよ」とのアドバイスだった。田中は、そんなものかなと思って、誓約書を提出し、そのまますっかり忘れていた。

 田中は、どうしたらよいか判断に迷った。今の会社に言うべきだが、どういう反応をされるだろうか不安だ。

 元の会社の信頼できる部下に内密に電話したところ、二代目社長は、感情的に怒っており、過剰経費でも、部下へのパワハラ・セクハラ、何でもいいから、田中の過去の不正を見つけ出すように指示があったという。

「田中本部長と連絡を取っているってわかったら、こっちにも飛び火しますんで、切りますよ。元の会社に後ろ足で砂をかけて、裏切ったんだから、早く社長に謝る方がいいですよ」

 ■裁判例  フォセコジャパン事件

 このような幹部社員の退職や独立をめぐるトラブルは、サラリーマンや会社経営者にとって他人事ではなく、結構身近に起きることである。

 田中明夫が、その後どうなったのかは次回にゆずり、ここでは、従業員の退職後の競業避止義務に関し、基本的な裁判例とされるフォセコジャパン事件を紹介する。これは、40年も前の仮処分事件の判決である(奈良地方裁判所昭和45年10月23日・判例時報624号78頁)。

 (事案の概要)
 債権者(仮処分の申立人)は、金属鋳造用資材の製造販売会社であり、債務者(仮処分の相手方)は、研究部で重要技術に関与していた元社員である。
 元社員は、在職中及び退職後の秘密保持義務と退職後2年間は競業関係にある会社に関与しない旨を約束する特約を締結し、機密保持手当を受け取っていた。
 ところが、彼らは退社後、競業会社の取締役に就任し、同種商品を元の会社の得意先に製造販売した。そこで、会社は、彼らに対し、競業行為の差し止めを請求する仮処分を申し立てた。

 (裁判所の判断)
 裁判所は、債権者の請求を認め、債務者らに資材の製造販売業務への従事を禁止した。
 その理由として、以下のことを述べる(要約及び番号は筆者)。

(1)競業禁止の特約は、経済的弱者である従業員から生計の道を奪い、職業選択の自由(憲法第22条)を制限し、競争を制限して不当な独占を生じるおそれがあるから、合理的な事情が存在しないときは、公序良俗に反し無効(民法第90条)である。

(2)しかし、その従業員のみが有する特別な知識は会社にとって一種の客観的財産であり、営業上の秘密として保護されるべき法益であり、そのために一定の範囲において、競業を禁止する特約を結ぶことは十分合理性がある。
 このような営業上の秘密としては、顧客等の人的関係、製品製造上の材料・製法等の技術的秘密が考えられ、営業上の秘密を知りうる立場にある者に秘密保持義務を負わせ、これを実質的に担保するために退職後における一定期間、競業避止義務を負わせることは適法・有効と解する。

(3)制限の合理的範囲を確定するにあたっては、制限の期間、場所的範囲、制限の対象となる職種の範囲、代償の有無等について、会社の利益、従業員の不利益、社会的利害の観点から慎重に検討すべきである。

(4)本件契約は、制限期間は2年間と比較的短期間であり、制限の対象職種は会社の営業目的である金属鋳造資材の製造販売と競業関係にある企業というのであって、化学金属工業の特殊な分野であることは制限の対象は比較的狭いこと、場所的には無制限であるが、営業秘密が技術的秘密である以上、やむをえないこと、退職後の制限に対する代償は支給されていないが、在職中、機密保持手当が支給されており、本件契約の競業制限は合理的な範囲を超えておらず、無効ということはできない。

 ■次回に向けて

 「当然だ」、「厳しいな」

 あなたは、この判断を、どのように思っただろうか。

 この裁判例の基本的な判断枠組は

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