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(2) 営業秘密と男性用かつら顧客名簿事件

滝沢 隆一郎

 前回は、転職したサラリーマンが競業避止誓約書に基づいて、元の会社から通知を受けたケースに関し、フォセコジャパン事件判決(奈良地裁昭和45年10月23日)の判断枠組を紹介した。

滝沢 隆一郎(たきざわ・りゅういちろう)
 1966年生まれ。弁護士。架空の保険会社を舞台にした小説『内部告発者』で2004年に第1回ダイヤモンド経済小説大賞(現・城山三郎経済小説大賞)を受賞。「滝沢隆一郎」はその際のペンネーム。弁護士としては、商取引、営業秘密保護、リスクマネジメントなどに詳しい。また、脚本協力・法律監修で約40作品のテレビドラマ制作等に関与している。
 詳細は前回の解説を見ていただくとして、そのような契約(競業避止誓約)は、従業員の職業選択の自由等を根拠に原則無効としつつ、(1)顧客等の人的関係、製品製造上の技術的秘密など特別な営業秘密について、(2)これを知りうる立場にある者に対し、(3)制限の期間、(4)場所的範囲、(5)制限の対象となる職種、(6)代償の有無等によっては、合理的範囲内として有効とする旨判示した。

 以下、営業秘密を中心に検討することにする。

 ■営業上の秘密とは何か

 退職者の競業を禁止する実質的な根拠は、会社の財産と言える営業上の秘密の保持にある。

 それでは、どのようなものが営業上の秘密にあたるのだろうか。

 上記裁判例では、「顧客等の人的関係、製品製造上の材料、製法等に関する技術的秘密等が考えられ、企業の性質により重点の置かれ方が異なるが、現代社会のように高度に工業化した社会においては、技術的秘密の財産的価値は極めて大きいものがあり従って保護の必要性も大きいと考えられる」とされている。

 技術的進歩については、特許権・実用新案権・著作権等の知的財産権として保護されるが、実際には、その周辺に、特許権等の権利保護要件は認められないものの、さまざまな技術的秘密・ノウハウなどが存在しており、このような技術的秘密の開発・改良にも企業は大きな努力と費用を払い、企業の重要な財産を構成しているということである。

 これらの技術的秘密・ノウハウの具体例として、特殊技術の設計図、新薬製造承認申請用資料、化粧品会社における成分配合表などが考えられる。

 これに対し、裁判例のいう「顧客等の人的関係」では、顧客名簿・取引先情報がある。あるいは、公表されていない仕入価格・割引率も顧客関係の秘密情報に含めてよいだろう。

 なお、「顧客情報」と言っても、営業社員自身が自分用に作成した「名刺ファイル帳」や「顧客管理ノート」は、会社財産にはあたらないとされることが多いだろう。

 ■顧客名簿の重要性

 顧客名簿について、現在であれば会社コンピュータ内のデータ、少し前までは1冊のファイルになった顧客台帳などが対象となり、退職予定社員による複製(コピー)や持ち出しと退職後の営業行為への転用が問題となることが多い。

 まったく畑の異なる分野へ再就職する人も少なくないが、退職社員にとって、それまでの経験や知識が生かせる同業または関連業種への転職の方が現実的である場合が多い。

 そのような退職社員のうち営業職にとっては、未知の取引先の開拓とともに、前の勤務先時代の取引先や知人に対し、営業訪問をするのは自然な成り行きである。

 また、実際には、営業職を採用した会社の側でも、前職時代の取引先から仕事を取ってくることを期待している場合が多い。

 他方、営業社員に退職された会社にとっては、そのような元社員が、自社の取引先に営業活動をかけるのは、心情的にも営業的にも大問題である。

 何しろ、退職社員は、元の卸売価格等を熟知しているのであるから、それよりも少しだけ安い価格を提示することができる。

 取扱品目が代替性のない商品である場合や企業間の結びつきが強固で密接な場合である場合を除いて、取引先としても、少しでも有利な条件(値段)で取引したいと考えているはずである。

 ■男性用かつら顧客名簿事件

 企業活動において、売上げの源となる顧客名簿がいかに重要かを知ることができる裁判例に、「男性用かつら顧客名簿事件」と呼ばれているものがある(大阪地方裁判所平成8年4月16日判決、裁判所ウェブサイトの当該裁判例にリンク)。

 (事案の概要)
 原告は、大阪府等において、男性用かつらの販売を業とする会社であり、被告は、同社に8年、支店長等として在職し、退職後は大阪市内で男性用かつらの製造・販売業を行っている者である。
 原告は、被告が原告の顧客名簿を窃取し、これを利用して営業活動を行ったとして、不正競争防止法違反(営業秘密の不正取得)に基づき、営業行為の差止め(禁止)及び被告の利益と同額の損害賠償請求を申し立てた。

 (裁判所の判断)
 裁判所は、以下のとおり、顧客名簿の重要性を述べ、原告の請求を認めて、被告に対し、顧客名簿を使用した営業行為の禁止と損害賠償を命じた(要約及び番号は筆者)。

(1) 原告は、長年にわたり、新規の顧客に関する名簿を作成し、氏名、年齢、電話番号、住所、来店の経緯、かつらの価格、顧客の頭髪の状況等を市販の大学ノートに記載している。


(2) 表紙にマル秘の印を押し、支店のカウンター内側の顧客からは見えない場所に保管していた。


(3) 本件のような男性用かつらの販売業は、頭髪が薄くなった男性を対象とするものであり、自らがかつらを必要とすることは恥ずかしくて他人に知られたくないと考えるのが通常であるという性質上、例えば路上等公衆の面前で直接頭髪の薄い男性に声をかけて購入の勧誘をしたりすることは困難であり、理容業、美容業といった業種に比べ顧客の獲得が困難である。

 したがって、顧客獲得のためには、新聞、テレビ等を通じて効果的な宣伝広告を行い、これに接した顧客の方から自発的に申込みをしてくるのを待つ以外にないことから、これに多大な宣伝広告費用を必要とする。原告も、長年にわたり各スポーツ新聞に対し、1ヶ月約200万円、総売上高の約30%にあたる宣伝広告を行ってきた。

 また、かつらを販売した後も、定期的な調髪等の手入れの外、かつらの買替えといった同一顧客による需要も少なくなく、原告にとって相当大きな収益源となっている。


(4) 以上の事実をみれば、男性用かつらの販売業においては、原告顧客名簿は、多額の宣伝広告費用を支出してようやく獲得した顧客が多人数記載され、各顧客の頭髪の状況等も記載されているものであり、原告が同業他社と競争していく上で、多大の財産的価値を有する有用な営業上の情報であることは明らかである。


 このあと、判決は、不正競争防止法上の営業秘密要件をみたすこと、被告による営業の態様、損害(被告の利益)の算定とつづくが省略する。

 ■営業秘密は、文系より理系の方が有利?

 この裁判例の指摘をお読みになって、どのような感想を持たれただろうか。

 たかが顧客名簿と言うことはできない。1冊の顧客名簿は、その企業の長年の努力と成功の歴史でもある。

 上記の男性用かつら事件のように、業種によっては、特に重要性の高い顧客名簿も存在する。

 ところが、実務的な私見を述べると、裁判所は、特殊な製造技術や高度な設計図などの秘密保護は厚いが、顧客情報については、保護が一段低い印象がある。

 比喩的に言えば「理系情報」は、「文系情報」よりも、裁判上、秘密として保護されやすいと言えそうである。

 その背景には、「理系情報」の方が秘密性が高いというだけでなく、秘密の開発・改良に大きな努力と費用をかけていることを重視している面があるように思う。

 もっとも、最近の「理系情報」は、設備的にも、費用的にも、少数の社員が退職後に使用できる事業規模でなくなっているのに対し、顧客名簿を利用した既存顧客の奪い合いは、終身雇用制崩壊後の独立・起業ブームもあって、裁判所でも、結構、頻繁に見られるようである。

 ■不正競争防止法上の「秘密」との関係

 ひと昔前までは、顧客名簿などの会社情報(営業秘密)の持ち出し行為を直接取り締まる法規範が乏しく、コピーをした会社の紙を不正に持ち出した点に窃盗罪を適用するなどして対応していた。

 しかし、営業秘密保護の要請の高まりを受けて、平成2年以降、不正競争防止法が数回にわたり改正され、営業秘密の不正取得を正面から禁止するようになった。

 このため、「営業秘密」とは何かという定義規定が必要となり、同法第2条第6項は、「秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいう」と定めている。

 そこでは、(1)非公知性(秘密性)、(2)管理性、(3)有用性という3つの要件をみたす必要があると理解されている。

 ところが、実は、顧客名簿というのは、営業業務に使用するという本来的な必要上、社内の営業社員であれば、いつでも誰でも見て、業務に使用できるものであって、厳重に管理され、特別な役職者のみがアクセスできるのでは意味がないことになる。

 不正競争防止法、特に管理性要件を厳格に適用すると、通常の顧客名簿は

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