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(中) 独禁法、米国の圧力と国内産業政策の妥協の歴史

 ■占領軍の圧力との拮抗の中で独禁法は成立した

諸石光熙弁護士諸石 光熙(もろいし・みつひろ)
 弁護士法人大江橋法律事務所 弁護士。1959年に司法試験合格、60年に東京大学法学部を卒業。同年住友化学入社。80年に弁護士登録。同社法務部部長、取締役、常務取締役を経て、98年同社代表取締役専務。2004年から07年まで同社特別顧問。2005年から大江橋法律事務所所属。立命館大学法学部客員教授、公益財団法人公正取引協会評議員、財団法人矯正協会評議員。著書に『危機管理役員手控帖』(日本監査役協会)。
 独占禁止法は、新憲法施行直前の昭和22年3月31日に成立した。新憲法施行までにどうしても間に合わさねばならない国家制度の基本法中の基本法である国会法がまだ成立していなかった時期である。独禁法が如何に占領軍に重要視され、その強烈な圧力のもとで制定されたかがうかがい知れよう。

 占領軍総司令部(GHQ)は、終戦の翌月の昭和20年9月に財閥解体を指示し、その後の経済民主化政策の恒久化措置として独禁法の制定を指示した。

 GHQの指示は、独禁法違反には厳重な刑事罰と、米国独自の損害賠償制度である三倍賠償を科すこととし、司法次官と補佐官二人からなる「三人委員会」が調査・起訴の任に当たり、特別裁判所である「反トラスト裁判所」が判決を下すことを内容とするものであり、米本国の状況をそっくりそのまま日本に持ち込もうとするものであった。

 これに対して日本政府側は、疲弊した経済の実情に照らして、厳罰主義を掲げる独禁法の導入に強く反対し、GHQ内の勢力争いを利用して、日本政府寄りであった民政局の支援のもとに、対案として、内閣に設置する委員会が告発を行った者を刑事罰の対象とする(専属告発権)との発想を打ち出し、そのままの内容で独禁法が成立した。

 ■産業政策の競争政策への優越と「独禁法の冬の時代」

 占領政策によって戦時体制下の統制経済は廃止され、建前は自由経済になった。しかし、戦後の混乱を乗り切り、経済復興を果たすためには統制経済が不可避であり、実態としてはカルテル的統制色が色濃く残った。

 さらに朝鮮戦争後の特需ブームの反動不況脱出・産業構造改善のために、輸出入取引法をはじめとしてカルテルを公認する多数の独禁法適用除外法が制定され、また産業ごとの近代化・構造改善のために、それぞれの事業法によって独禁法の適用除外カルテルが認められた。加えて独禁法自体の中でも昭和28年の改正によって企業結合の制限が緩和され、再販売価格維持契約・不況カルテル・合理化カルテルが広く一般的に認められるにいたった。

 このように日本では、独禁法は制定されたものの、戦後の復興と朝鮮戦争後の不況脱出のために「産業政策」が「競争政策」に優越する状況が継続し、独禁法の除外規定が多用されるばかりでなく、さらにその枠の中に収まりきれない違法な闇カルテルが多数存在した。刑事告発の実例は皆無であり、違反を認定された場合でも、原状回復を命じられるだけでそれ以上の不利益はなく、違反者は何ら痛痒を感じない状況であった。

 このような合法・違法のカルテルにおいて、主要な役割を担ったのが戦前の統制団体の歴史を引きずり、監督官庁の強い影響力下にある各業種の業界団体・工業会であった。また経営者・営業部門幹部の多くは、戦前のカルテル統制の中でキャリアを積んできた人たちであり、もともとカルテルに対する罪悪感はほとんど無かった。違法なカルテルと合法的なカルテルとの差は、たまたまカルテルを容認する立法がなされている業種に属しているかどうかの違いであり、周囲のどの企業も多かれ少なかれカルテル行為を行っており、闇米の取り締まりのように、建前としては違法であっても、捕まれば不運というだけのことで、社会的・倫理的に恥ずべき犯罪行為であるとの認識はほとんどないのが実情であった。

 公取委の独禁法運用自体も消極的であり、公取委自身が昭和32年の年次報告で、「日本の産業中、カルテルのない業種はほとんど数えるに足りない」と公式に告白するような状態が続いた。これを歴史的には「独禁法の冬の時代」と呼んでいる。

 このような強い統制色と弱い独禁法のもとで、日本経済は「横並びの設備投資」と「景気後退局面における一時的なカルテルによる操業規制」によって急速に生産能力を拡大し、やがて高度成長を謳歌するに至ったのである。

 ■石油ショックと消費者保護法としての独禁法の復権

 その後、昭和48年の石油ショックを契機として、本来は経済法である独禁法が消費者保護法として脚光を浴びるに至った。石油ショックによる狂乱物価に対する庶民の深刻な恨みが、軒並みに起こった企業の製品値上げに対して燃え上がった。その矛先が石油産業に向けられ、そのハイライトが公取委による石油闇カルテルの刑事告発であった。しかし、かえって独禁法のエンフォースを刑事罰でおこなうことの難しさが再認識される結果となった。また石油会社を相手取って、消費者団体が損害賠償訴訟を提起する動きが起こったが、これも結局あのような異常な状況の中で闇カルテルがなかった場合に値上げが起こらなかったかどうかについての立証ができなかったということで、原告敗訴の結果となり、独禁法違反行為に対して米国流に大衆訴訟(クラスアクション)を起こすという動きも出鼻をくじかれて、その後は全く姿を消してしまった。

 そのような中で昭和52年に刑事罰とは別の制度として課徴金が導入された。これは憲法の二重処罰禁止とのつじつまを合わせるために、「違反のやり得を防ぎ、違反行為による不当利得を剥奪する制度」ということで制裁としての性格を否定し、課徴金額も対象売上高の2%という控え目な数字でスタートすることになった。

 ■経済の成熟と米国の圧力のもとでの独禁法強化

公正取引委員会の刑事告発を受けて企業の事務所に捜索に入る検察の係官公正取引委員会の刑事告発を受けて企業の事務所に捜索に入る検察の係官
 1990年代にはいって日米構造協議において、米国から日本市場開放のために独禁法の強化を執拗に迫られ、これに渋々対応する形で課徴金の引き上げや告発方針の強化が図られるなど、次第に独禁法違反行為に対する制裁が強化されてきた。

 まず、平成3年には課徴金の算定率を製造業の大企業の場合6%に引き上げた。

 さらに日本経済の成熟・消費者の世論の昂揚・米国の圧力のもとで、本格的な独禁法の改正が俎上に上ってきた。

 紆余曲折のすえ平成17年に独禁法の大改正が成立した。改正の主な内容は、課徴金を製造業・大企業の場合10%、再犯企業は15%に引き上げ、違反行為の自主申告に対して課徴金減免(リーニエンシー)制度の導入、審判制度を事後審査型審判に変えたことである。

 課徴金引き上げに際して、課徴金の性格が不当利得の剥奪ではもはや説明がつかないことから、行政制裁(違反行為を防止するという行政目的を達成するための金銭的不利益)と趣旨を変更し、また罰金との調整規定を新設した。

 この改正を契機として、日本企業の独禁法に対する取り組みは劇的に変化した。課徴金の引き上げ、自主申告制度の採用による被摘発リスクの高まりが、カルテル・談合に対する世論の厳しい批判とあいまって、企業における内部統制システムの一環としての独禁法遵守体制の急速な整備、さらには平成18年のスーパーゼネコン各社による談合システム排除宣言といった、大きな時代の流れの変化として結実したのである。

 その後、平成21年には、前回改正で積み残されたいくつかの問題点に関して、独禁法改正が行われた。その後の動向としては、平成22年3月に、審判制度を廃止してその機能を東京地裁の専属管轄に移管することを内容とする独禁法改正案が国会に提出され、現在も国会の審議を待つ状態になっている。

 ■つぎはぎ、歪んだ二階建て

 このように、日本の独禁法の歴史は、その制定の最初の段階から、これに強い影響を与えようとする米国と、これに抵抗して、憲法をはじめとする既存の法律制度との整合性を保ちながら日本独自の変形を施そうとする日本側との拮抗関係の歴史でもあった。

 その結果、日本の独禁法は、妥協の産物となり、法制度としては理論的な一貫性を欠いていることから、継ぎはぎの歪んだ二階建て構造と酷評されることもある。また世界標準である米国型とも、欧州型とも異なっており、他国に類例を見ない制度の組み合わせであり、外国から見ると判りにくい構造になっているとも言われている。経済活動のグローバル化に伴って、日本企業が外国の独禁法違反で摘発される事例が増えるのと同様に、外国企業の日本での活動が日本の独禁法違反として公取委の手で摘発されるケースが増えてくることが予想されるが、その際に、日本独禁法があまりに世界標準から乖離していると新たな国際摩擦の原因ともなりかねない。

 そこで、次回は、日本の独禁法が抱える制度上の根本的な問題点、その構造の特殊性のいくつかを明らかにし、今後の道筋について考えてみたい。(次回につづく

 ▽独禁法の現在・過去・未来(上) 最近の独禁法違反事件の特徴と独禁法遵守への企業の姿勢の変化

 

 諸石 光熙(もろいし・みつひろ)
 弁護士法人大江橋法律事務所 弁護士。1959年

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