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断罪された特捜検察の捜査、検察は「失敗の検証」を急げ

村山 治

 大阪地裁は2010年9月10日、郵便割引制度をめぐる偽の証明書発行事件で虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた村木厚子元厚生労働省雇用均等・児童家庭局長に対し、無罪を言い渡した。判決で明確になったのは、「特捜検察」に対する裁判所の驚くほど冷めた視線だった。検察は、立証の柱となる検事調書について「適正手続きの面でも内容面でも水準以上」と自信を持って証拠採用を求めたが、裁判所は「誘導の疑いがある」などとしてばっさり切り捨てた。検察部内からは判決への不満も聞こえるが、今回はいさぎよく、控訴を見送り「失敗の検証」に専念することを提案する。判決は特捜検察の捜査のあり方を根本から見直せ、とのサインだと思うからだ。

  ▽敬称・呼称は略しました。

  ▽この記事は2010年9月14日の朝日新聞オピニオン面に掲載された原稿に大幅に加筆したものです。


 ●郵便割引制度を悪用した事件が発端

村山 治(むらやま・おさむ)村山 治(むらやま・おさむ) 朝日新聞編集委員。徳島県出身。1973年早稲田大学政経学部卒業後、毎日新聞社入社。大阪、東京社会部を経て91年、朝日新聞社入社。金丸脱税事件(93年)、ゼネコン事件(93,94年)、大蔵汚職事件(98年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(2004年)などバブル崩壊以降の政界事件、大型経済事件の報道にかかわった。著書に「特捜検察vs.金融権力」(朝日新聞社)、「市場検察」(文藝春秋)、共著「ルポ内部告発」(朝日新書)。
 そもそもの発端は、障害者団体向けの郵便割引制度が企業のダイレクトメール(DM)広告の発送に悪用された事件だった。通常1通120円を8円で送れる低料第3種郵便物制度を悪用し、通信販売業者ら広告主や大手広告代理店の広告会社、ブローカーらがボロ儲けしていたのを2008年秋、朝日新聞がスクープした。

 それを受けて大阪地検特捜部が捜査に乗り出し、郵便事業会社(JP日本郵便)幹部や厚生労働省局長まで計20人が摘発された。捜査対象となった大手企業などが免れた郵送料は2004年以降で総額約220億円に上った。特捜検察が障害者福祉事業の陰ではびこる複雑な利権にメスを入れたことは評価されていい。

 この捜査の過程で特捜部が押収した一枚の紙が村木事件の扉を開く。DM不正事件で摘発されたブローカーグループに対し、障害者団体としての実体があるとする厚労省の虚偽の証明書が犯罪の小道具として使われていたのだ。厚労省障害保健福祉部の「企画課長」が作成名義人となっていた。当時の課長が村木だった。

 ●捜査

 特捜部は、2009年5月26日、直接、ニセの証明書を作成した企画課係長、上村勉=同罪で公判中=と証明書を使った自称・障害者団体「凛(りん)の会」元幹部の河野克史=同罪で懲役1年6カ月執行猶予3年の判決を受け控訴中=を逮捕。

 特捜部の取り調べに対し、上村は、企画課長だった村木から厚労省の内線電話を通じて作成するよう指示された、との供述調書に署名した。すでに、別の郵便不正事件で逮捕されていた「凛の会」元会長の倉沢邦夫=一審・同罪は無罪、検察側控訴=も、作成の約4カ月前の04年2月にかつて私設秘書を務めた民主党衆院議員の石井一と面会し、証明書発行への口添えを頼んだうえ、村木から証明書を直接受領した、との供述調書に署名。村木の当時の上司の障害保健福祉部長、塩田幸雄も、在宅調べで、「議員に頼まれ、村木元局長に指示した」との供述調書に署名した。

 このため、特捜部は、村木がニセの証明書の作成に関与した疑いが濃厚とみて2009年7月、村木を逮捕し、虚偽有印公文書作成・同行使罪で起訴した。

 起訴状では、村木は企画課長だった04年6月初め、倉沢から要求され、「凛の会」に障害者団体の実態がないと知りながら上村に5月28日付の偽の証明書を作らせ、河野らが6月10日、割引適用を受けるため郵便窓口に提出した――とされた。上村は同5月中旬、証明書発行手続きが進んでいるよう装うため、うその決裁文書も作ったとして、別の虚偽有印公文書作成・同行使の罪でも起訴された。

 ●公判闘争

 村木は捜査、公判を通じ、一貫して容疑を否定した。検察は、捜査段階で村木の関与を認めた塩田や上村らの供述調書を立証の柱にし、公判での立証に自信を持っていた。「供述がきれいにそろった筋のいい事件」(最高検首脳)と余裕しゃくしゃくだった。

 2010年2月に関係者の公判証言が始まって状況が一変した。最初に登場した塩田が、石井の口添えや村木への指示を認めた捜査段階の供述内容を「事実ではない」と覆したのだ。

 塩田は、捜査当時は事件への石井の関与が報道され、自分が厚労省の政治案件、国会対策を一手に引き受けていたこと、石井と親しかったことなどから、自分が石井から電話を受けたと思いこんで供述した、と述べ、捜査供述を全面否定した。以降、堰を切ったように厚労省関係者は捜査段階の供述を公判で翻していった。

 上村も「証明書の発行は凛の会側から直接催促されたもの」「予算の仕事に集中したく、早く消し去りたい案件だった」などと証言。「検事に『自分の判断でやった』と言っても調書に書いてくれなかった」「調書はでっち上げ」と訴え、涙を流した。

 これに対し、検察側は6人の検事・副検事を証人出廷させ、取り調べに暴行や脅迫などの違法行為はなく、検事調書は相手の意思通りに作成されたと説明。上村らの供述調書計43通を証拠採用するよう地裁に求めた。

 ●「想定内」のはずが…

 村木の事件への関与を捜査段階で認めていた厚労省関係者が、雪崩を打って否定に回っても、捜査に携わった検察幹部らは、「想定内。勝算はある」と強気の姿勢を崩さなかった。特捜事件では、関係者が公判で捜査供述を否定することが珍しくないからだ。むしろ、そこからが「勝負」になることが多いといってよい。

 検察は、被疑者や参考人を取り調べた内容をもとに検事が供述調書(検事調書)を作成し、読み聞かせた上で本人に署名をさせる。公判で関係者が捜査段階の供述内容を否定した場合、検察は、刑事訴訟法321条第1項2号にもとづき関係者の検事調書を証拠請求し、裁判所がどちらの言い分が正しいか判断する仕組みになっている。

 刑訴法321条1項は「被告人以外の者が作成した供述書又はその者の供述を録取した書面で供述者の署名若しくは押印のあるものは、次に掲げる場合に限り、これを証拠とすることができる」とし、2号で「検察官の面前における供述を録取した書面(検事調書)については、その供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明若しくは国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき、又は公判準備若しくは公判期日において前の供述と相反するか若しくは実質的に異った供述をしたとき。但し、公判準備又は公判期日における供述よりも前の供述を信用すべき特別の情況の存するときに限る」と定めている。

 要は、本来、裁判では、裁判官の前で行う公判証言の方が、検察が取り調べた内容をもとに作成する検事調書より証拠価値が高いが、公判証言より検事調書の方が信用すべき特別の事情(特信性)がある場合は、検事調書を証拠採用できるというものだ。

 従来は、調書作成過程での暴行や明らかなでっち上げでもない限り、裁判所は特捜検察の作成した検事調書に軍配が上げることが多かった。

 村木事件について、検察部内では、関係者供述の多くは「在宅調べで自然の流れの中で出た。信用性は十分認められる」(検察幹部)と判断していた。それゆえ、検事調書を裁判所が採用し、公判証言を排除してくれる可能性は十分にある――と考えたのだ。

 ●裁判所は事件の骨格部分の検事調書を排除

 しかし、ちょうど上村逮捕の1年後の2010年5月26日の第20回公判で、大阪地裁刑事12部は43通のうち上村の全15通、倉沢の全6通など計34通について「特信性があるとみることはできない」として証拠採用しないことを決めた。ここで、裁判の帰趨は決まった。

 80ページに及ぶ大阪地裁の証拠決定書は、検察側が請求した検事調書について、関係者に対する検事の取り調べ状況、公判供述の状況などを詳細に検討。横田信之裁判長は「調書は検事の誘導で作られた」「関係者の供述を合わせる検察の姿勢がうかがえる」などと捜査を批判した。

 立証の骨格部分の証拠を失った検察は、裁判所が採用した関係者の検事調書をもとに6月23日の論告求刑公判で、証拠採用された塩田の調書や、石井に厚労省への証明書発行の口添えを頼んだと村木の公判で認めた倉沢邦夫証言などを根拠に「厚労省は証明書発行を『議員案件』として組織的に対応し、塩田が村木に発行の便宜を図るよう指示した」と指摘し、懲役1年6カ月を求刑した。

 これに対し、弁護側は最終弁論で、検察の捜査について、強圧的な取り調べや強い誘導で検察のストーリーに沿う供述調書を作成し、著しく正義に反する――などと指摘。「結論ありきの強引な捜査だった」として無罪を主張した。

 ●判決

 2010年9月10日午後2時、大阪地裁刑事12部で開かれた判決公判で、横田裁判長は、村木に「無罪」を言い渡した。

 判決の骨子は、(1)「凜の会」は障害者団体としての実体がなく、郵便料金を不正に免れることを目的としていた(2)村木が「凛の会」に公的証明書を発行した事実はない(3)上村は本件公的証明書を発行し、その後河野らが郵便局で使った(4)上村が村木の指示により証明書を作成した事実は認められず、村木が上村、倉沢、河野と、虚偽の公的証明書を作成し、「凛の会」側に交付するとの共謀があったと認定することはできない――とした。

 判決理由の中で、横田裁判長は、検事調書について「人間の供述というものが、認識、記憶、表現の3段階で誤りが混入する可能性があり、また、供述内容の具体性、迫真性というものは後で作り出すことも可能である以上、客観的な証拠による裏付けのない供述については、供述自体の信用性判断は慎重になされるべきであり、各々の供述に、いろいろな評価や見方を踏まえても、客観的証拠、あるいは証拠上、明らかに認められる事実に照らして不合理な点がある場合には、いかに供述内容に具体的、迫真性があるようにみえ、各々の供述が符合していても、その信用性を大きく低下するといわざるを得ない」と述べた。

 検察のストーリーに沿う検事調書がいくらきれいにそろっていても、客観的事実と合致しなければ、ボツにする――という裁判所の姿勢を示したものだ。当たり前といえば当たり前だが、関係者を「割る」(自白を得る)ことに血道を上げ、裏付け捜査が不十分だった検察捜査に対し、重い警鐘を鳴らした。

 ●裁判所の検事調書排除の理由

 裁判所は、検察が描いた事件の構図を全否定した。検察にとっては「完敗」だった。この結果は、5月26日に裁判所が、検察が証拠申請した上村らの検事調書を不採用と決定した時点ですでに予測されていたことだった。

 ここで、その証拠決定書の中の、最も重要な上村捜査供述に対する判断部分を紹介しておく。大阪地裁が上村の捜査供述をどういう論理で排除したかがよくわかるからだ。判断の前提になる事実関係の整理がちょっと長くなるが、おつきあい願いたい。

 ◆当事者の主張と対立ポイント

 上村の公判証言(第8、10回公判)と検事調書の内容は大きく食い違っていた。

 検察側は、「上村は、公判で、村木や厚労省関係者、石井への配慮などで真実を供述することが困難だったのに対し、捜査段階では、真摯に供述できる状況にあった。公判証言の内容はあいまいで、不自然、不合理なのに対し、検事調書の内容は、具体的、自然かつ合理的だ。村木が逮捕されたことを知った後もほぼ一貫して同一の内容を供述しており、他の証拠とも整合する」として検事調書の「特信性」を主張した。

 これに対し、弁護側は「上村の捜査供述は、検事の黙示的な利益誘導、威迫、暗示などによって検事のストーリーを押しつけたものだ。公判で上村には、村木をかばい、厚労省の組織、職員に対する配慮する動機はなかった。内容面からも上村の検事調書は不自然、不合理な内容だ」として「特信性はない」と主張した。

 ◆上村逮捕前後の捜査

 上村や検察側の公判証言などによると、担当検事は、2009年5月26日に上村をまず任意で取り調べた。上村は、「本件の稟議書と公的証明書は私が独断で作成した。私は公的証明書を『凛の会』に手渡した。前任係長からの引き継ぎはなかった」と供述し、他の関係者の関与を否定した。

 さらに、「本件以後に、厚労大臣印を使って、独断で書面を出したことがある」などと供述。担当検事は調書を作成した。

 同日、上村は、稟議書に関する虚偽有印公文書作成、行使の容疑で逮捕された。上村宅に対する捜索で、上村が所持していたフロッピーディスク、本件の公的証明書のコピーが発見され、差し押さえられた。

 同月27日から30日まで、担当検事は、連日、上村を取り調べたが、事実関係についての供述調書を作成しなかった。

 その間、検事は上村に対し、上村宅から押収したフロッピーの公的証明書のデータの最終更新日が2004年6月1日になっていることを示し、バックデートしているのではないか、と追求した。また、検事は、上村の前に紙を置いて、「石井→塩田→村木→元係長→上村→村木→塩田→石井」との図を書き、関係者の供述の概要を話した。

 ◆5月31日付検事調書―「多数決で決めた」?

 上村が、決裁を経ることなく証明書を作成するよう村木の指示を受け、証明書を作成し、村木が「凛の会」の関係者にそれを渡した、という内容の上村の供述調書は、2009年5月31日に初めて作成された。裁判所は、この作成に至る経緯を詳細に検討する。

 公判で、上村を取り調べた検事は「5月30日の取り調べで、前係長の供述調書の上村に対する引き継ぎの部分を朗読したところ、上村は『ちくしょう』と叫んで泣き出したので、上村に『今回の事件でおそらく懲戒免職処分になるでしょう。組織というものを守っても仕方のないことだし、これからの自分の人生を考えましょう。ですから話してくれませんか』などと言ったところ、上村は、村木の指示で公的証明書を発行したことなどを話すに至り、翌31日も前日の供述は間違いないというので、検事調書を作成した」と証言した。

 これに対し、上村は、公判で次のように述べた。

 「5月28日から30日にかけて、証明書を渡した日付は、証明書の作成日付である2004年5月28日当日だと思っていたが、検事から、同年6月1日の書き換えデータがあるので同年5月28日ではないという証拠を見せられ、記憶にないがバックデートを認めた」

 そして、報道で有名になった検事の「多数決」発言に触れる。

 「検事から、『証明書が村木から倉沢に渡されたことについて、上村さんの記憶があやふやであるなら、関係者の意見を総合するのが一番合理的じゃないか。言わば、多数決のようなものだから、私に任せてくれ』などと言われた。検事が『石井→tel16.2.25塩田→村木→元係長→上村→村木→塩田→tel石井』というような図を書き、関係者の供述を述べたことなどから、記憶になかったが、誘導され、『そういうことがあったかもしれない』と述べた」

 「また、5月31日には、検事から証明書の日付をバックデートしていたのを忘れていたことを突きつけられ、『人間の記憶なんてあいまいなもんだね』などと言われ、返す言葉がなかった。しかし、検事が作成した調書は、検事の作文で、私は、村木から証明書を作成するように指示があったこと、村木に証明書を渡したことについて、検事に調書の訂正を求めたが、訂正されなかった」

 検事は、公判で「多数決で決めるという話をしたことはない」と主張したが、「一般論として、上村から、事実認定の問題として、裁判官が3人いてどうやって決めるんですか、というような話はあり、私は、裁判官だって3人いれば、意見が割れるときがある。多数決ということもあるんじゃないの、というような話はしたことはあったので、多数決という文言は出た」とも証言。結局、調べの中で「多数決」という言葉を発したこと自体は認めた。

 ◆「多数決」調書に対する裁判所の判断

 これらを受けて裁判所は、証拠決定の理由の中で、以下のように事実関係を整理し、評価を加える。

 「上村は、取り調べの当初、本件について事故の単独犯行であると供述し、本件に関する被告人からの指示や被告人に公的証明書を渡したことは否定していた。その時点から検事は、厚労省の組織や被告人を含めた当時の上司をかばっているのだろうと考えていたと供述しており、この点から見ても、検事が、その時点ですでに収集されていた証拠やすでに作成されていた他の関係者の供述内容から、本件が被告人の関与した者であるとのストーリーを描いて取り調べに臨んでいたことが認められる」

 「検事自身、上村が本件指示、交付を否定しているのに対し、河野の供述や、その時点で供述調書が作成されていた多数の関係者の供述を当てて上村を取り調べたことは認めており、その中で、上村の供述のように多数決という会話が成されることは、その経緯等に照らして不自然不合理ではない」

 「上村の被疑者ノートの5月29日欄には『不明なら、関係者の意見を総合するのが合理的ではないか。いわば、多数決のようなもの』、『私に任せてもらえないか』との記載があり、その次に、『私としてはその多数決になってもよいと思っている。しかし、裁判で村木本人が出てきて否認された場合、最終的に偽証罪に問われるのか心配だ』との記載があり、これは、上村の公判供述に符合する」

 上村は、弁護士が差し入れた「被疑者ノート」に日々の取り調べの内容を記録していた。この被疑者ノートについては、検察側がチェックすることはできない仕組みで、裁判所はこの被疑者ノートを重視した。

 検察側は公判で、上村の被疑者ノートについて、「上村は、(1)後に行われる被告人の裁判や今後の自分の人生設計を考えて、検察官側からチェックされることのない被疑者ノートに、後日に備え、厚労省に対する弁明の趣旨で、検察官の作成した供述調書は自己の本意でなかった旨などを書きつづることも十分あり得るし、(2)その記載については、文章の記載状況からして、後から書き加えたり、訂正したりしたと認められる不自然な記載が複数存在することなどから、信用できない」と主張したが、裁判所は次のように判断する。

 「(2)については、被疑者ノートに照らすと、上村が保釈された後に新たに書き加えられたものとはみられない。また、(1)についても、初めて身柄拘束された上村がそのようなことまで考えて、記載をするか疑問がある上、記載当時、上村は懲戒免職を覚悟していたのであるから、厚労省に対する弁明の趣旨で、検事の作成した供述調書は自己の本意でなかった旨等を身柄拘束中から書きつづるというのも容易に首肯できるものではない」

 「検事は、『多数決』という言葉を検事が発したこと自体は認める。この話題は、検事の供述では裁判官の事実認定に関するものとはいうものの、上村がなぜ裁判官の事実認定方法について検事に聞いたのか経緯が不明であり、上村が供述するような場面であった可能性は否定できない」

 「以上の諸点に照らすと、上村の『検事が取り調べで、上村さんの記憶があやふやであるなら、関係者の意見を総合するのが一番合理的じゃないか。いわば、多数決のようなものだから、と述べた』との公判供述は否定できない。そして、それを前提にすると検事が『私に任せてくれ』といったことも否定できず、検事が基本的に想定していた内容の検察官調書を作成した疑いは排斥できない」

 「さらに、上村は『私が、村木から証明書を作成するよう指示があったということと、村木に証明書を渡したということは、検事に訂正を求めたが、訂正されなかった』と公判で供述し、被疑者ノートの5月31日の欄にも上記2点について訂正を申し入れたのに訂正に応じてくれなかったとの記載があることなどに照らすと、この点に関する上村の供述は否定できない」

 ◆検事調書に対する「断罪」

 このような検討を経て、裁判所は5月31日付検事調書を証拠として採用しない結論に至る。

 「他の者の供述や証拠を前提に矛盾等を指摘すること自体は、取り調べにおいて禁止されるものでも、不当とされるものでもない。しかし、『記憶があやふやであるなら、関係者の意見を総合するのが一番合理的じゃないか。言わば、多数決のようなものだから、私に任せてくれ』などと言って取り調べ、検察官が想定する内容の供述調書を作成し、署名を求めることは相当なものとはみられない」

 「上村は、検事が言うようなこと(村木の指示など)があったかもしれないと発言したことがあったのは認める旨供述する。しかし、前記の通り、上村は、最終的に、村木の指示などが記載された供述調書に対して、その訂正を求めたにもかかわらず、検事はそれに応じなかった疑いが残るものである。結局、調書には上村の意思に反する内容が記載されたことになる」

 ●裁判所が変わった、という検事の嘆き

 上村に対する検事の取り調べには、かつて特捜事件の取り調べで問題になった暴力やあからさまな脅しすかしなどはなかった。上村は、検察のストーリーを当初は否定したが、検事が他の関係者の供述をもとに、ストーリーへの同意を求めると、最終的には検事の言うまま調書に署名している。

 従来なら、そういう調書作成の経緯を検察側が説明すると、裁判所は、疑問を呈しつつも、最終的には検察側の主張を受け入れることも少なくなかった。そのため、検察では、上村調書について「通常のやり方で作成された。無理なく説得し、自然に供述を引き出した水準以上の調書」(検察幹部)と考えていた。

 それに対し、裁判所は、表現こそ厳しくないものの、上村調書について「検事側のストーリーに合わせた、意思に反する調書」と認定し、証拠価値がない、と断定したのである。

 検察幹部は「5年前なら、ゆうゆう、有罪をもらえた調書。裁判所が変わってしまった」と嘆いた。

 しかし、村木公判では、裁判所の検察に対する心証が一変する決定的なことがあった。

 ●裁判所の心証害した捜査メモの廃棄

 公判で、村木の元部下らを取り調べた際に検事らがとった捜査メモが廃棄されていたことが発覚したのだ。

 別のある事件で、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は2007年12月25日、警察官の備忘録(メモ)は「捜査関係の公文書にあたり、証拠開示の対象になる」との初判断を示した。最高裁は08年6月25日と9月30日にも、同様の判断を示していた。

 弁護側はメモ廃棄について「不適正な取り調べを行い、その痕跡が明らかになるのを恐れたからだ。取り調べを担当した検事は最高裁決定を知りながら、弁護人の証拠開示請求の前に、取り調べメモをすべて廃棄した。このようなことが偶然起こるとは信じがたい。廃棄は組織的に実施されたと考えるのが当然で、捜査は著しく正義に反する」などと主張した。

 証人として出廷した特捜部の検事や副検事らは「必要なことは調書にした。メモは不要だからすべて破棄した」と説明したが、尋問した裁判官は「残した方がよかったのではないか」と詰め寄った。

 裁判官が気色ばんだのは、村木事件の捜査の前に、取り調べメモの法廷への開示に積極的な最高裁決定が3件も続き、法曹関係者の間に浸透しているのに、大阪地検はその趣旨を無視した、と受け止めたことがあったとみられる。

 刑事裁判の当事者主義の原則に則って、検察側の証拠はすべて弁護側に開示されるべきだとする声は以前から根強い。国民参加の裁判員裁判時代を迎え、その主張は一層、力を持ちつつある。

 検察幹部は、取り調べメモについて次のようにいう。

 「最高裁の本音は、取り調べの可視化容認だ。しかし、全面可視化に反対を表明している検察と真っ向対決することになるから、表立ってはいわない。すぐ可視化が難しいというなら、せめて手持ちのメモは出せ、ということなのだろう」

 「検察側の取り調べ証拠は検事調書がすべて。捜査メモを出し始めたらきりがない。紆余曲折する捜査の過程で作った個人的覚書のようなものまで法廷に出すようになると、事実とは無関係の不要な争いが起き、混乱するだけだ」

 とはいえ、捜査メモを廃棄した検察の行動に対し、検事調書の作成過程の不透明さを問題にしている弁護側だけでなく、多くの国民が不審に感じたことは疑いなかった。

 ●大阪地裁の証拠決定での捜査メモ廃棄の評価

 大阪地裁は、村木事件の証拠決定の理由の中で「取り調べのメモは、取り調べ時の状況を認定するについての有用な資料とみられる」と指摘した。

 そして、村木事件との関係では「取り調べメモの廃棄、取り調べの録音、録画を行わないこと自体が、取調官による不適正な取り調べを推認させるとの事情になるとはみられず、有用な資料が存しないということにより、取調官と取り調べを受けた者の各供述が齟齬し他に判断に有用な資料、事情等が存しない場合に、取り調べを受けた者の取り調べに関する供述が排斥できない場合があるいうのにとどまるものと解される」とした。

 要は、メモの廃棄そのものが違法行為とはいえず、上村のように、被疑者の捜査供述と公判での証言が食い違い、被疑者側が「被疑者ノート」など公判証言を支える補強証拠を出してきた場合、検察側は、検事調書だけでなくそれを補強する捜査メモを出さないと、被疑者ノートの方を信用しますよ、検察側は損をするが、それでもいいんですね、ということだった。

 検察幹部は「検事がそろって捜査メモを廃棄したのが村木事件で大きく裁判官の心証を害したことは間違いない」とみている。

 ●最高裁決定への検察の対応――捜査メモ管理通知

 話は脇にそれるが、取り調べメモを「公文書にあたる」として証拠開示の対象範囲に含めた最高裁の判断を受け、最高検は08年7月9日と10月21日に、刑事部長名で全国の高検と地検に通知を出していた。

 7月通知は、他人に見せることを想定していない個人メモを除き、検事や事務官が作成する取り調べメモについて、主任検事に対し「供述調書や捜査報告書に具体的に記載されていない被疑者らの言動を記載し、取り調べ状況を判断をする上で必要と認められるものは、事件記録とは分けて公判検事に引き継ぎ、必要と認める間、適正に保管する」――ことを求めていた。

 10月通知は、9月30日の最高裁決定が、従来、検察が証拠開示対象外と考えた個人メモについても開示対象となる、と踏み込んだ判断をしたために出された。

 法廷で取り調べ状況についての争いになった時、「公正に判断するのに資すると認められる取り調べメモは、個人的メモを含めた取り調べメモ全般を公判検事に引き継ぎ、7月通知にもとづき保管する」としていた。

 外形的にいうと、大阪地検は捜査メモの扱いで、これらの通知に違反した疑いがあるともみられるが、「最高検通知は、個人メモの扱いは検事の判断に委ねることを大前提としたもので、大阪地検の検事らが何らかの処分対象になることはない」(法務省幹部)としている。

 大阪地検では、この通知が出るかなり前から、捜査メモを廃棄する慣例があったとされる。

 ●供述重視の日本の刑事裁判と特捜検察

 日本の刑事裁判では供述証拠が重視されてきた。特捜検察の捜査もそれを前提に供述を得る捜査に力を入れてきた。特に、その傾向を決定的にしたのが、元首相の田中角栄を受託収賄罪などで摘発したロッキード事件だった。

 米国から提供された捜査・調査資料をもとにストーリーを描き、関係者の供述を精緻に組み合わせて一、二審の有罪判決を勝ち取った。特捜検察の金字塔とされ、特捜検察は「最強の捜査機関」とのブランドを与えられた。

 ロッキード事件のころまでは、国民全体の「お上意識」もまだ濃厚だった。聴取に対し、素直に供述する関係者も多かったとされる。しかし、お上意識は次第に薄れ、80年代半ばからは、特捜検察が捜査対象にする大企業の経営者、従業員がすんなり自白することは、まずなくなった。

 供述が得られなければ、構造的な組織犯罪の摘発は困難になる。慢性的情報不足の中で、性急に手柄を求めると、プロセスを外しがちになる。公判でそれが問題になり、国民の不信を招く。検察に対する国民の信頼はさらに低下し、協力を得られない、という悪循環がずっと続き、いまにいたっているといってよい。

 そういう中でも、裁判所は、暴力や脅迫など明白な違法取り調べでもない限り検事調書を信頼し、検察側に軍配を上げ続けた。それが、特捜検察を支えてきた。背景には、同じ官僚法曹である検察に対する裁判所の根強い信頼感があったとみられる。

 ●蜜月の構造を壊した裁判員裁判

 その「蜜月の構造」が壊れたきっかけは、司法制度改革、特に、国民参加の裁判員裁判の導入だった。

 検察と被告側の主張を公平に聞き判決を下すことを義務づけられている裁判所は、訴訟指揮に対する国民の目を強く意識するようになった。      

「刑事裁判の活性化」をうたい文句に、以前より積極的に法廷での指揮に取り組むようになったと法務省幹部はいう。

 「検察寄り」と見られるのは裁判所にとって存在意義を問われることだ。特捜検察への「甘さ」を指摘されることに、従来以上に神経質になってもおかしくない。

 その結果、検察側の証拠に対する裁判所の見方は、以前よりも厳しくなったのではないか。同じ証拠でも、スタンスが変わると、評価そのものも変わる。それが象徴的に表れたのが村木無罪判決だったのではないか。

 しかし、これは決して悪いことではない。むしろこれまで裁判所が特捜検察に甘すぎたと考えるべきなのだ。

 無罪判決は特捜検察の捜査のあり方を根本から見直せ、とのサインである。

 ●捜査管理の甘さも

 一方、村木事件では、民主党国会議員、石

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