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笠間検事総長が取り調べ全面可視化の条件に言及「捜査の武器が付与されるのであれば」

 大阪地検特捜部の不祥事で退任した前任者の後を引き継いで昨年暮れに検事総長に就任した笠間治雄氏が2011年2月28日、日本記者クラブ(東京都千代田区)で行った講演で、取り調べの全面可視化(録音録画)について「その弊害が除去される、あるいは、取り調べに頼らなくてもいいような捜査の武器が付与されるのであれば、まだ考えようがあるのだろう」と述べた。最高検がすでに打ち出している「一部可視化」を前提とした発言ではあるが、条件付きで全面可視化を容認するとも受けとれるものだ。また、特捜部の捜査については「冷静な第三者」によるチェックが必要だとの考えから、特捜部から起訴の権限を奪い、起訴と捜査を分離する策を内部で議論していることを明らかにした。


 ■信頼回復のための2つの方向性

 本日は日本記者クラブにお招きいただきました。このようにお話させていただく機会を得ましたことを大変うれしく思います。きょうは、特にこれについて話せというようなオーダーはまったくなかったのですが、昨年、大阪地検特捜部において証拠隠滅事件をはじめ、いろいろありまして、各界のみなさんから検察が批判をうけております。こういうご時世なのでありまして、それに対する反省、あるいは今後の再発防止策をどんなふうに進めていくかのお話をするのが適切と考えます。

 検察が今、どういうような立場に置かれているかということですが、非常に批判にさらされている。ただ検察が何のために存在しているかということですが、治安を維持するための国家機関として国民のみなさんの平穏な生活を守るために働かなくちゃいけない。本来ならば、脇目もふらず、本来業務に邁進したいのですが、国民のみなさんの支え、信頼の関係が崩れてしまってはできない。(たとえば、ある人を事情聴取したいときに)「ちょっと来てください」(と呼び出しても、)「うるさい、(検察庁に)行くことないよ」(と出頭を拒否される)。こういうようなことでは、まったく仕事が進まないわけで、何はさておき、信頼の回復が必要ということです。

 それで、厚生労働省の局長の無罪事件、それにまつわるいろいろな一連の出来事がございましたが、それから一体何を反省してどのように信頼回復をやっていくということですが、私が勝手に考えていることですが、大きく分けて2つの方向性があるのかなと。1つは当然のことながら、不適正な、妥当じゃないと言われるような捜査を二度としないようにしていくと。いわば、多少は言葉が乱暴だが「捜査の暴走を防ぐ」、これが一つの方向性かなと。もう一つは、暴走を防ぐことばかりでは、結局、害は与えないかもしれないが、益もない。もう一つの方向性はやはり、「真相の解明をやりそこないました」なんてことのないように、捜査力をアップして、捜査をしたときに「真相の解明ができます」という力をつけさせるのがもうひとつの方向かなと。この両面から考えないとまずいのではないかと考えております。

 ■「捜査の暴走」を防ぐための方法

 まず「捜査の暴走をさせない」という点について、どういうような方策があるんだということを聞かれるわけですが、それについてはいくつかあります。まず一つは捜査を適正なものに保つということが必要だと思います。これは2月23日に発表させていただいた「特捜部捜査の一部録音録画」がそれに当たると思います。もう一つは、適正な捜査も大事ですが、処分(起訴・不起訴の処分)の段階でよく処分をチェックすることも必要だろうと。本当に起訴していいのかどうかのチェック。それからもう一つは、これも後で触れますが、人事の在り方、これも考える必要があります。それから、もう一つは教育の問題です。そもそも検事にはどういうことが大事なのかと教育していかないと暴走が始まります。

 それについて、付言して申し上げたいのですが、まず最初の捜査の適正の問題。これについては23日に特捜部(の取り調べ)の一部録音録画を打ち出した。これは特捜部が捜査をする全部について録音録画する、いわゆる「全面可視化」ではありません。繰り返しになるが、被疑者についてやると。ということは参考人についてはやらないわけです。身柄事件(容疑者を逮捕して取り調べる事件)についてやる。ということは在宅(逮捕せずに任意で取り調べる事件)についてはやらないというわけです。それから、何のために録音録画したデータを使うのかということですが、これは任意性、信用性を立証するために使っていくと。結局のところ、立証責任を有する検察官の判断と責任において録音録画をやります。

 ■取り調べの「全面可視化」がもたらす弊害

 これに対しては、いろんなところから批判を受けておりまして、なぜ全部やらないのか、何か不都合なのかと言われます。この全面録音録画をやらないのは、何か隠したいことがあって一部にしたというのでは決してありません。一部でも録音録画すると、不適切な捜査、取り調べは必ず根絶できると。それはどういうことかと言いますと、かりに一部の録音録画であっても、録画を始めた以上、検察官が勝手に録画を止めることはしない。要するに「何か言いたいことがあるか、あったら言って下さい」と言って、「いいよ、もう止めていい」というようなところで止めるということであって、何か不都合な取り調べがあれば、そこでさっそく言われてしまう。逆に言うと、そういう取り調べはできない、こういうことになると思うわけです。

 それから、全部録音録画すると何か不都合なのかということですが、多少不都合がないわけではない。それは説得の過程というようなものを録音録画するという話ですと、たとえば「しゃべろうかな、どうしようかなと迷っているんです。ちょっと、さわりをしゃべってみましょうか。だけど調書を取らないでくださいよ。まず私の言うことを聞いてくれませんか」と。要するに、大幅にしゃべろうかどうしようか迷っている人がいるとします。そういう人に「そんなこと言ってないで、しゃべってくださいよ」と言っているときに、「いや、調書はだめだけど、ちょっと小出しにするよ。さわりを言うよ」と言ったときに、「はい、録画」と言ったら、これは調書を取るのとまったく同じですね。「カメラ出すのだったらオレはしゃべらないよ」と必ずなると。そういうわけで説得過程を全部オープンにするのは難しいだろうというのが一つある。

 もうひとつは、その説得過程というわけではなく、単独犯ではない共犯事件、――共犯事件は横に広がるのと上下に広がるのと両方ありますが――、たとえば共犯者が5人捕まったとします。検察に出頭するときに「絶対にみんなしゃべらないようにしよう。しゃべったら後でひどいよ」とみんなで出てきたと。ところが一部の人はしゃべってもいい(と考えた)とします。だけどトップバッターとしてしゃべれば、あとでどうなるかわからない。そう考えた場合に、全部録画されたら誰がトップで口火切ったかわかってしまうわけです。まして、これが上下の関係になったらどうでしょうか。課長が5人捕まりました。実は指揮したのは副社長だとします。副社長のことは絶対言わないようにしようと出頭した。ところがしゃべっちゃおうかなと思う。だけども最初にしゃべったことがばれると、さすがにまずいというときに録音録画はまずいだろうと思うんですね。

 そんなの「机上の空論でしょう」と思われるかもしれない。しかし実際に、私なんかもある程度の人数、上下にまたがった人が犯罪を犯し、取り調べをしておりました時に何を言われたかと言いますと「私がしゃべったということは、絶対に弁護人にも他の被疑者にも上層部にも言わないでください。言わないと約束するなら今私はここでしゃべりますよ」ということが結構あるんですね。それで、「おう、言わないよ」と。「じゃあ、しゃべりましょう」となる。それで調書を取ろうとする。そうするとどうなるか。「まずいですよ。きょう調書取られたら、私がトップバッターだって、調書開示されたらわかっちゃうでしょ。検事、頼むから調書は他の人がしゃべってからにしてちょうだいよ」ということが現実にある。これが本当にフェアなのかどうかはわかりませんけども、場合によれば、たしかにこの人が最初にしゃべったということがばれたらいじめられる、という場合には「はあ、はあ、じゃあ調書は後にしようか」ということはよくある。こういうテクニックは全面可視化のもとでは絶対にできなくなるだろうと。そうしたら組織的犯罪の場合、なかなか難しいなというふうに思っているということです。

 決して訳がなくて全面可視化を嫌がったわけではないということをご理解いただきたいと思います。

 ■捜査の縦と横からのチェックのための新しい役職の設立

 次の話にいきますと「処分に対するチェックの強化」という問題になるんですが、昨年最高検が検証報告のなかで検事長指揮事件を作るということを打ち出しています。それは、特捜部がやる事件について、起訴する、不起訴にするということを決めるときに検事長の指揮を受けなくちゃいけないということです。「そんなの意味があるの?」というふうに疑問に思われるかもしれません。「今までも決裁をやっていたんでしょう、どこが違うんだい?」と思うかもしれませんが、多少違うのは、高検、最高検に「特別捜査係検事」を置くことにいたしました。この検事長指揮事件というものを制度としてやるよということ。

 それに高検や最高検に特別捜査係検事を設けますというのは、実はきょう、訓令なり、通達なりを全国の高検、地検にまくことになっています。まだまいていないので、実施したことにはなっていないのですが、実施は時間の問題です。本日やる、ということです。たぶん、それにともなって誰かがレクチャーすると思います。いずれにしましても「特別捜査係検事」が何をするかと言いますと、その人には特捜部が捜査で集めた主要な証拠、書証は全部、主要な証拠ブツを見てもらう。必要があれば、特捜部が収集したあらゆる証拠すべてに対して、アクセスできる。持ってこいと。そういう権限を付与したということです。それと供述調書ですね。「わいろをとりました」という調書があがってくる。「本当か?あの人はなかなかしゃべらない人だと聞いている。よく調書を取ったね。君はどういう調べをしたんだい?」と疑問になることありますね。今までだったら決裁だとそこまで踏み込みません。だけど特捜係検事は、直接取調官にどういう調べを行ったのか、自白したというならどんな発問をしてどんな答えだったのかとチェックもできる。また、質問があったら言おうと思っていたのですが、直接、自分がわいろを受け取った人にあたってみましょう、ということをやってもかまわないと。そういうことにしたのです。今までのペーパー上の決裁とは違うと思います。

 ただいろんな意見がありまして、みなさんの中にも、上からの締め付けばかり厳しくしていいのかと疑問持つ人もいると思うのですが、いろいろあってはならないことが起きた後なのでとにかくやってみると。

 それから横からのチェックも場合によっては有効かなということをちょっと考えております。これは昨年の最高検の検証のなかで、捜査の主任検事を補佐する総括補佐検察官を置くということがうたわれていました。たぶんそのときの発想が、横からのチェックというよりも、今回前田検事があんなことをやったのは、あれもこれも全部主任検事がやらなくちゃいかん、証拠ブツの検討もしなくちゃいかん、他の人が取った調書も目を通さないといかん、捜査方針も決めなきゃいかん、ということであまりにも忙しすぎて冷静な判断力をなくしてしまったのではないか。だったら誰かが助けてあげる必要があるという発想でどうも構想されたように見えるのですが、その総括補助する検察官というものに、いわば弁護人と同じような目で、事実認定がおかしいとか、あるいは法解釈がおかしいとか内部でチェックをさせる。この人にも証拠には全部アクセスできなければ言えないわけです。そういうのも置くべきかということも、現在検討中です。それが処分を慎重にするための方策ということですね。

 それから次に慎重な処分をするためのチェックということの、延長線上で、これは最高検が決めたということではなくて、こういう議論もあるということでご紹介しますけども、今、総括補佐検察官を置くという話をしました。それを他部から持ってくるという発想もありうると思うんです。たとえば公判部からそういう検事を持ってきまして、非常に大胆に考えてみれば、例えば、特捜部には起訴権を与えない。それで公判部から来た総括主任検察官が起訴すると。要するに、普段警察の事件を受けたときには警察が送致してきたのを検察官がもう一度別の目で見て、起訴に値するかどうかチェックします。特捜部にはそれがないわけですね。自分が捜査して自分が起訴するわけだから、ある意味ではお手盛りになる。そういうことも問題だと考えたときに、起訴まではさせない、起訴権は別のところに付与するという考えもあるのかなと。これはまだやることにすると宣言する話じゃなく、議論はしている。ただそれについては賛否両論があって、いまだ成案を得るにはいたってない。とくに現場の捜査の検察官は、「せっかくやっても、ひと(他人)が起訴するんですか、それは困る」という、なかなかこだわりのある人もいます。

 ■人事制度の問題とその改善

 それから次に人事の問題。

 あまり私は、「大阪、大阪」と言いたくないんですけども、やはり大阪の人事というのは少し特異なところがあったと思うんです。その大阪人事というのをなくしていく。前から言われていましたが、徹底が少し足りなかったかなと。大阪というのは地理的にまとまっていまして、たとえば大阪に家を造ったとします。大津地検であれ、奈良地検、京都地検、和歌山地検、神戸地検、みんな通えてしまいます。大阪に家を建てると、ずっと一生大阪の管内にいたいと、そうしたら家から通える。そうすると、大阪にいたいという人が出てくる。そうしたら大阪という小さな社会の中でぐるぐる回って、人的関係も濃い。純然たる能力評価とは違う人事も起きる可能性もないわけではない。それから捜査をして報告を求められたときに、「あかんと思います」と言おうと思うんですが、上司が「やれ」ということを期待していると、ちょっと迎合して「やります」と言う、そういうこともあり得るのではと。そういうことで、大阪人事を解消しなくちゃいけないと。

 これも外部の方からよく言われるのですが、成果主義がひどいと。要するに、あの人は特捜部で何とか事件をやったから偉くなるんじゃないかと。はたから見れば、別にいいと思わないよと。私もそう言われてるかもしれませんが。そういうこともあり得るわけですね。極端な成果主義というのは、まじめにやったけれどもたまたま成果が出なかった人はどうしてくれるんだという話なんですね。そういうところもよく吟味する必要があると思います。

 それから、悪い評判がたつ人っていますよね。しかし今までの人事制度で、悪い評判についてこってり人事評価書に記載されて、中央に上がってくるかというと、必ずしもそうではない。要するに生の悪い評判がなかなか引き継がれてこない。したがって、後から問題が起きると「だから『あの人、評判悪い』ってみんな言ってたよね。なんで上層部はあの人をあのポストにつけたのか」となるわけです。そういうことが起きないように、生の情報を拾えるようにするシステムを作らなきゃいけないと考えております。人事の問題は簡単ではないですが、最高検としてはこれを専門にじっくり検討する専従者を置いて、人事を改めようかと。こんなふうに考えています。

 ■検察官の「教育」とその難しさ

 あと教育の問題ですが、これは証拠物を改ざんするという人まで出てくると、そもそも検察官は何のために仕事しているのというところからよく教えないといけないという声が上がってくるわけで、検察官の心得的なところをきちっと作ったほうがいいとか、あるいは決裁する側、指導する側もどういうことを考えていかなきゃいけないということもしっかり作ったほうがいいなとか。いろいろなことが出てきます。それから法務総合研究所というところで、研修しておりますが、そういうところの場でもしっかりやらなくちゃいかんということもあって、そこらへんも検討していこうと思っています。

 ただ、教育は非常に難しいですね。教育したからといっても、自覚のない人にはあまり効果がない。これは教育が大事ということは十分承知しております。ですから効果がないからやりませんということでないのですが、難しいと思うのは、私がこの間2月16日、検事正を集めた全国長官会同で訓示をして、「検事の意図するような調書を取ればいい。取ったらそれで証拠は固まった。万々歳だ」という発想、いわば供述調書至上主義的な発想があればやめてもらいたいと言ったんですね。そのときの自分の頭は「自分はそんなことしてないよ」という頭なんです。ところが、その会同が終わったあと懇談会をやりまして、そのときある特捜部時代の昔の部下に「オレは君たちにこういう内容の調書を取れなんて1回も言ったことなかったよな」と言ったんです。私はひと(他の検事)に対して、「こういう内容の調書を取りなさい」と頭から決めて言うことは絶対にした覚えはないと思っていたんです。それがお酒のせいもあるんでしょうけど、笑ってではあるんですけど「そうでしょうか?」なんて言うんですよね。「『そうでしょうか?』ということは、オレがやったということなの?」と言ったんですが、それに対する直接の答えはなかった。しかし、「そうでしょうか?」という答えが返ってくるということはどういうことかというと、私の不用意な発言、あるいは意識しないようなところで言ったことが、一生懸命やっている現場の人にとってみれば、「さっさとこういう調書とれ」と聞こえたのかもしれません。要するに、もしそうであれば、自分も供述調書至上主義的なことに加担してたということになる。意図はしませんが、自覚はしていない。私が「供述調書至上主義はだめだよ」と仮に教育されたとしたら、「オレはそういうことはやっていない。関係ない」と思ってしまうかもしれない。そういう意味で教育っていうのは難しいなと思うわけです。ですから、机上のペーパーや教育でなく、実際に現場で何かあったときに「いかんよ」とやらないと、本当の教育にならないかもしれない。ただ、そんなことも言っていられないので、ともかくやれることをやっていこうと思っています。

 ■取り調べに伴う検察官の負担と検察審査会との認識の違い

 その次に先ほど言った2つの方向性の一つ。捜査力を向上させていかないといけないということへの対応です。

 前提としてお話したいのは、日本の刑事法制において、捜査を行うときに取り調べの比重は高いんですね。「取り調べをしなくても、客観証拠があればいいんでしょ」ということを言うんですけど、たとえば自分が人を殺したりする。最初から自首するつもりがなければ、凶器を隠すし、死体も隠すということになる。それで捜査官が客観証拠で立証と言っても、そこらへんに死体が転がってたり、凶器が転がってればいいんですけど、そうじゃないこともままある。そういうときは結局のところ、取り調べをして「君やったのかい」「へい、やりました」「じゃあ、凶器はどこ?」「そうか、じゃあ探そう」「死体はどこ?」「じゃあ、掘りに行こうか」となるわけです。そういう意味で取り調べの比重が高いです。

 ところが、その取り調べの真相解明機能はどんどん低下しています。それはなぜでしょうか。

 これは誤解がないように申し上げます。別にこれが悪いということを言っているのではありません。弁護士さんが頻繁に接見に来られるようになりました。接見の時間、回数は過去と比べたら飛躍的に増えています。悪いというふうに言うわけでは決してないけれども、黙秘を慫慂されることが非常に多いです。これは特捜部の事件とは離れるが、強力犯--、人が殺されますけど、そうすると本人が弁護人を頼む前に、弁護人が飛んでくる。「君はしゃべってはいけない。黙秘しろ。最低限、調書に署名したらだめだ」となるわけです。そういうような活動が活発になっていることで、取り調べの真相解明能力が相当下がってきているというのは事実だろうと思います。

 そういう意味で、取り調べ官が肉体的にも精神的にも最近はくたびれているということが言えると思います。

 取り調べの比重が多いというのは、私事で恐縮ですが、私も特捜部の現場に長くおりました。そうすると取り調べの事件が多く、証拠物の検討もします。そうするとどうなるか。相手が言わなければ、ずっと付き合っていることになりますから、結局、土日、祝祭日がないということになりがちなんですね。休めないことがままあった。それで今、子供からどういうことを言われているかといいますと、つい2、3年前ですが、子供から面と向かって、「お父さん。私はお父さんにかわいがられた覚えはないからね」と言われたわけです。たしかにそうだなと思うわけです。そのくらい取り調べというのは捜査官の負担になっていることがあるわけであります。

 肉体も精神もくたびれ気味だと申しましたけれども、もう一つは、これも悪いというのではないですけど、検察審査会が起訴強制の力を持ちました。そうすると、何で起訴強制されるのかまったくわからんのです。検察官が起訴する場合は、当然、法と証拠に基づいて起訴するわけですが、検察審査会の起訴強制というのは、場合によっては「とにかく法廷の土俵に上げた方がいいよね」という判断で上げられてしまう。したがって、どういう取り調べをやったら、検察審査会からアウトを食らうかということがよくわからないという状況下で、どこまでやればいいのかということに悩んで、精神的に少しおかしなくなるといえばオーバーになるが、気にしているところもあります。

 ■捜査力向上のための方策

 少し前置きが長くなりましたが、取り調べの真相解明能力が低下してきたとはいうものの、これは最大限きちっと使っていかなくちゃいけない、しかも適切に。

 そこで現場にこれからますます言わなくちゃいけないなと思うのは、一つは供述調書至上主義の排除。せっかく調べるのに、相手の言うことを虚心坦懐に聞かないで「こうだろ、ああだろ」ということをやっていたのでは、絶対に相手もこちらを信用しないし、本当のことを言ってくれない。時間をかけてやっているのに無駄なことをしているということになる。きちっとした調べを履行するように徹底していかなくちゃいけないと思います。相手の言うことに耳を傾けるということは、非常に力があることです。

 これも、つまらない例で恐縮ですが、昔大きな選挙違反事件の捜査に入ったことがあります。ある人を調べたのですが、最初は別の人が調べていました。それで捜査の指揮官が「君が代わって調べろ」と私に言った。そう言った某地検の次席が「あのやろう、とんでもないやろうだ。何百万も動かしたくせに、『知らない』の一点張りだ。君、聞きだしてくれ」と。私が交代しまして「きょうから代わりました。あなたは自分には覚えがないとおっしゃてるようですね。薄っぺらい記録でざっと見ただけで悪いんだけど、誠に申し訳ないが、私はこの記録を見ただけで事件にあなたが関与したように見える。もし言い分があれば言ってください」と。そうしたら、その方は「私のような罪人に、検事さんは何でそんな親切になさるんですか」と反応された。それでいきなり泣かれましてね。「いや、実は私はやっています」としゃべったということもあるんです。「何で私にしゃべるんなら、前にしゃべらなかったの?」と言ったら、あまり言うと人を特定してまずいのですが、ある教育委員会の人だったのです。前の検事からは「お前が教育に携わってんのか、ばかばかしい。犯罪をやるようなやつが教育に関与しているのか。ところでお前やってんだろ」と言われて、とにかく自分の言い分を聞こうというのではなくて、わーわーと言われて、心がねじ曲がったと。やはり僕らは「まず聞きましょう」という姿勢が必要なんだろうと。そういうことを教えていきたい。

 ただ、こういうことを言うと、最近の若い人は「きれい事でしょ。昔の人だからですよ。今の人はそんなに素直じゃありません。総長は、総長に就任したら急にきれい事ばっかり言うようになりましたね」と言われるのですが、「そうじゃないんだ」と言っても、なかなか信じてもらえない。確かに捜査環境も変わってきたと思います。ですから「供述調書至上主義をやめろ」とばっかり言っていても始まらないと思います。もう一つは録音録画の下で、一体どういうふうに発問したら気持ちよくしゃべってもらうのか。そういうノウハウをどんどん開拓していかなくちゃいけない。そういうことをどんどん進めていかなくてはならないと思っています。要するに捜査の手法として取り調べがあるわけですから、それを十分活用することをもっと考えようと。

 それから二番目はですね、供述調書に過度に依存しない。そういう捜査を工夫しましょうというのが二番目です。それはまあ、いろんなことがあると思います。否認をして、何もしゃべらない人でも起訴しているわけだから、一体それをどうやって起訴できたんだろう。こういうことを工夫したら起訴できたと。今までは「いやあ、苦労しました、ははは」で終わっていたんですけど、これからはそういうことではなく、供述調書にあまり頼らずに、捜査をきちっとできた事例をどんどん最高検に集めさせて、こういう手法にしたらこういうケースで成功したという成功例を集積しなきゃいけないと考えています。

 去年、最高検の検証を行ったときに、氷見事件とか志布志事件とか足利事件を検証した。今回の大阪の件でも検証した。検証は何度もやっているのに、同じことが起こる。そうすると検証をまともに受け止めてやっているのかという「検証の検証」みたいなことを打ち出しています。それもいいかなとは思うのですが「これやったか、あれやったか」という話にもなってきます。ですが、もう少しプラス思考で「成功した例はないか?あったら教えてくれ」というようなことを、「検証の検証」班というのをもし作るのであれば、内容として最高検としてもノウハウを蓄積し、各地高検に伝達していくと。こういうこともやらなくちゃいけないと考えている次第です。

 ちょうど時間になりましたので、この一連の厚生労働省局長さんの無罪事件にからむ反省の対応という話をひとまず終わらせていただきます。

 《記者側との質疑応答》

 ■大阪特捜部の事件「組織の問題ととらえる」

 ――総長がおっしゃいましたように、厚労省の局長さんの無罪事件、その後の大阪地検幹部による証拠隠蔽事件、これの反省とここから何を学んでどこに向かっていくか。その事件を振り返ることでしか、検察の信頼を取り戻す道はないと思っておりまして、それについて総長はかなり踏み込んだご発言をされていたと思います。今のご発言を聞いておりまして、検察の体質、検事個人の問題があると思うのですが、今回の村木さんの事件とその後の問題ですが、検察の組織の問題として深刻に受け止められていると。その比率はどのくらいだと総長の頭ではとらえていますか。

 笠間氏: これは組織の問題としてとらえています。個人の

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