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メキシコ、中国にも追い抜かれた「リオの屈辱」

FATF相互審査: 法令遵守と利便性のはざまで

  ある局面ではアルカイダを相手に、別の局面では北朝鮮を相手に、米国を中心とする国際社会は今、見えない戦いを挑んでいる。そこで武器となるのが金融インテリジェンスと法執行である。日本も逃れられないその戦いの全貌をシリーズで描く。その第3回。 

 

FATF相互審査: 法令遵守と利便性のはざまで

慶応義塾大学院
システムデザイン・マネジメント研究科
教授 保井 俊之

 ■リオの「屈辱」

保井 俊之(やすい・としゆき)
 慶應義塾大学大学院教授。東京都出身。1985年東大卒、旧大蔵省入省。OECD職員、JBIC開発金融研究所主任研究員、金融庁保険課長、同参事官などを経て、2007年に中央大学客員教授。2009年7月より現職。

 「G7では最低の評価か---。メキシコや中国にも抜かれるなんて。」

 2008年10月半ば、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ。南半球はこの季節、夏に向かう。太陽の光が大地に燦々と降りそそぎ、夏を予感した花々がブラジルの肥沃な大地で鮮やかに咲きそろう。しかし、リオで開催された金融活動作業部会(FATF)の総会に出席している日本代表団は、快活な季節とは対照的に、沈痛な雰囲気に包まれていた。

 代表団が暗い表情になったのは、このリオ総会で採択されたFATF対日審査の評価がG7諸国の中で最悪の結果だったからだ。FATFの相互審査は、反資金洗浄に関する「FATF40の勧告」と「テロ資金対策に関する9の特別勧告」をFATF加盟の国・地域がどのくらい遵守しているか、を加盟国・地域がお互いに審査し合う。

 相互審査の結果は、40の勧告と9のテロ特別勧告の計49の勧告について、「遵守」「ほぼ遵守」「部分的遵守」「非遵守」の4段階の評価で示される。この相互審査のプロセスはこれまで3ラウンド実施され、第3ラウンドの相互審査は2011年2月に終了した。

 対日審査については、FATF事務局長リック・マクドネルに率いられた各国混成チームが2008年3月に訪日。チームはFATF事務局職員に加え、ドイツ、米国、カナダ、シンガポール、ニュージーランド、モンゴルなどの専門家から編成されていた。チームは日本政府の各関係省庁や金融機関などと精力的に面談。チームは離日後も書面やメールなどのやりとりで対日審査を続けていた。

 しかし対日審査の評価結果は、日本にとって屈辱的とも言えるものだった。遵守すべき勧告の49項目のうち、肯定的評価を受けたのは23項目(「遵守」4、「ほぼ遵守」19)と、全体の半数以下。G7諸国の中では最低の評価だったばかりか、FATFに2007年に加盟したばかりで、相互審査を同年6月に初めて受けた中国にも劣後する結果となった(中国は「遵守」8、「ほぼ遵守」16)。またFATFリオ総会で日本とともに審査結果を公表されたメキシコにも抜き去られた(メキシコは「遵守」7、「ほぼ遵守」17)。

 「リオの屈辱」……。日本のある金融当局者は対日FATF審査の結果をそう呼ぶ。1988年の国連麻薬新条約の採択及び翌89年のG7アルシュ・サミットでの資金洗浄の犯罪化義務付け合意以来、反資金洗浄やテロ資金供与の抑止についてG7諸国の最先端を常に走ってきたはずの日本。その日本の官民一体となった努力がFATFの対日相互審査では一敗地にまみれたのだ。日本の関係者の受けた衝撃は大きかった。

 では「リオの屈辱」はなぜ起こったのか。歴史のコマを少し前に戻して分析してみよう。

 ■広がったFATF勧告の対象と遅れた法定化

 反資金洗浄への取り組みのための国際的枠組みであるFATFが設立されたのが1989年。そして翌90年には、FATF加盟国・地域が反資金洗浄に向けて採るべき具体的な行動計画である「FATF40の勧告」に合意した。この「FATF40の勧告」の肝は、(1)金融機関などで取引を行う個人・法人の身元を非合法取引との関与がないかどうか確認する「本人確認義務」とその後の「顧客情報管理」、そして、(2)麻薬取引や資金洗浄などの関与が疑われる預金や送金があった場合には当局に「疑わしい取引」として届け出ることを義務とすること、の2点だ。

 さらに2001年9月の米国同時多発テロを受けて合意された「テロ資金対策に関する9つの特別勧告」では、(3)テロ資金供与行為を犯罪とすること、(4)テロに関する「疑わしい取引」を届け出ること、(5)銀行などが電信送金を行う場合に送金メッセージに送金人情報の十分な付記を求める、などの措置が義務付けられた。

 FATFは2003年に「FATF40の勧告」を改訂。「疑わしい取引」の届出制度の適用対象を、これまでの金融機関のみならず、貴金属商や不動産業者などの非金融業者、公認会計士や弁護士などの職業専門家にも広げた。この拡大措置は、9-11テロの実行犯やアルカイダなどが、近代的な銀行システム以外の送金手段、例えば「ハワラ」と呼ばれる南アジア・中近東に土着の送金手段を使ってテロ資金を送金していた強い疑いが認められたことによるものだ。

 FATFという国際的枠組みの中で、反資金洗浄・テロ資金供与抑止を旗印に、本人確認と「疑わしい取引」の届出義務が合意され、義務の対象が金融機関から非金融機関や職業専門家に拡大された。しかしこのことだけで、金融インテリジェンスの態勢が確かなものになるわけではない。合意のあと、FATF加盟各国・地域はその合意を国内法令に規定していかなければならない。実は、FATF対日審査の評価が低かったのは、日本も積極的に合意したはずのこれら措置の国内法令化が遅れているとされたことによるものだった。

 もちろん、日本政府も手をこまねいていたわけではない。2007年には、新たに犯罪収益移転防止法を施行。これまで金融機関の本人確認義務を規定していたいわゆる本人確認法、そして反社会的勢力の犯罪に関する法令である組織的犯罪処罰法を統合・拡大し、本人確認及び取引記録の保存、「疑わしい取引」の届出義務の対象をFATF勧告の2003年改訂に沿う形で拡大した。

 犯罪収益移転防止法の施行と同時に、日本の金融インテリジェンス・ユニット(FIU)もこれまでの金融庁から、警察庁に新たに設けられた犯罪収益移転防止管理官(JAFIC)に移管されることになった。それまでは、金融機関のみが「疑わしい取引」を金融庁に届け出ていた。しかし同法施行後は、金融機関、宝石商、不動産業者などの犯罪収益移転防止法の対象事業者から届出された「疑わしい取引」は、金融庁、経済産業省、国土交通省などの事業所管官庁を通じ、JAFICに集積され、反資金洗浄・テロ資金供与抑止のための法執行活動や国際的情報交換に活用されることになった。

 また日本の金融当局は、反資金洗浄・テロ資金供与抑止に対する金融機関の取り組みを強く求めている。「FATF40の勧告」並びに「テロ資金対策に関する9つの特別勧告」の内容は、金融庁が金融機関を監督する指針にすべて盛り込まれている。仮に金融機関がこれらの監督指針に違反する場合には、違反事案の重大性・悪質性いかんによっては業務停止命令や業務改善命令などの行政処分の対象になり得る。したがって日本の金融機関にとってFATF勧告の遵守は、コンプライアンスに関する最優先事項のひとつになっている。

 日本の金融機関にとっては、バーゼル銀行監督委員会がこの分野での取り組みに近年力を入れていることも注目材料となっている。バーゼル銀行監督委員会は元来、自己資本比率規制など、銀行の健全性維持のための国際的枠組み作りを行う、主要先進10か国会議(G10)の金融当局・中央銀行を中心とする組織だ。しかし1998年のアジア通貨危機の教訓を踏まえ、G7財務相・中央銀行総裁会議が国際通貨基金(IMF)にIMF加盟国の金融セクターの健全性評価を依頼し、さらにその評価基準の作成をIMFがバーゼル委に依頼したことが発端となった。

 バーゼル委は1997年に「実効的な銀行監督のための中核となる諸原則」(いわゆるバーゼル・コア・プリンシプル)、1999年に付属関連文書を作成。IMFはこのバーゼル・コア・プリンシプルに基づき、アジア通貨危機を体験した国々や100兆円にのぼる銀行の不良債権を処理した日本など、130か国を超えるIMF加盟国に金融セクター健全性審査「金融セクター評価プログラム」(FSAP)を実施した。

 テロ抑止に関する国際的な連携強化の動きを受け、バーゼル委は2006年にバーゼル・コア・プリンシプルと付属関連文書を改訂。反資金洗浄・テロ資金供与抑止に取り組む銀行の一元的な態勢づくりを強く求め、顧客の受け入れ方針、コルレス契約、顧客管理方法、公的重要人物(PEPs)の顧客属性に関する上級管理職による意思決定などを規定した。さらに、「疑わしい取引」の検知・届出について、システムやマニュアルを使い、顧客属性に照らした具体的な取引金額・取引形態に注目した検討・判断を銀行が行うことを求めている。金融庁はバーゼル委によるこの改訂を踏まえて同年、金融機関向け監督指針を改訂している。

 FATFの相互審査を1993年と1997年に難なく乗り切った日本。しかし2008年の第3次相互審査では勝手がいささか違っていた。

 反資金洗浄・テロ資金供与抑止に向けての金融機関による顧客情報の取得や内部管理、公的重要人物(PEPs)の顧客情報確認、コルレス先の反資金洗浄・テロ資金供与態勢の確認などが、国内法令として義務付けられていなかったことが大きなマイナス評価となったのだ。日本の場合、これらの内容は前述したように金融庁の監督指針に既にすべて規定されている。しかし、対日審査チームは金融庁の監督指針に法的規範性を認めなかった。あくまでも法令で義務付けることを求めたのである。

 さらに、保険及び証券などの業界では「疑わしい取引」の届出件数が依然として少ないこと、弁護士及び公認会計士が現行法令の規定では、「疑わしい取引」の届出義務履行の対象から実質的に外れていると疑われること、なども対日審査結果では指摘された。

 FATF対日審査の厳しさを象徴するキーワードは、本人確認と顧客管理の「義務の法令化」。銀行などの窓口で顧客から、顧客の国籍や職業などの個人情報や、最終的な送金先が反資金洗浄・テロ資金供与抑止対策にとって高いリスクを持っている者かどうかなどを聞き出し、預金や送金の受け入れの判断や継続的な顧客管理、そして「疑わしい取引」の届出に結び付ける。そのことを、法令上の義務として担保する。現在のように金融庁の監督指針による対応では、銀行などへの強制力が究極的にはないとFATFは判断したわけだ。

 ■各国がいずれも苦労しているFATF審査結果の遵守

 FATF対日審査が求める「義務の法令化」で苦杯をなめた日本だが、日本だけがひとり劣後しているわけではない。2011年3月現在で34加盟国・地域を数えるFATFメンバーが、本人確認と顧客管理の「義務の法令化」では、程度の大小こそあれ、一様に苦労を強いられている。それは、顧客の個人情報という極めてセンシティブな領域に法令が踏み込むことになるからだ。

 例えば、G7諸国の中で、顧客の国籍情報の管理を法令で義務付けているのは、米国とドイツだけ。顧客の職業情報の管理はカナダだけ。法人取引での役員の属性管理は米国とカナダだけ。顧客管理に関する法令上の義務について、顧客管理事項、継続的管理、リスクに応じた顧客管理の3つすべてに落第点をつけられた日本は論外としても、顧客管理に関するFATF勧告の履行は、主要先進国でも苦労続きだ。

 では、FATFの相互審査が厳しい結果に終わった日本は、これからどのような道をたどるのだろうか。

 FATFは第3次相互審査のあとの「フォローアップ手続き」を定めている。その手続きによれば、顧客管理などの重要勧告にバツをつけられた日本は、相互審査の2年後に改善のためにとった新たな措置の報告を求められる。そして審査後3年をメドにフォローアップ手続きの対象から外れるように努力することが期待されている。

 しかし、日本が十分な改善策をとったとFATF全体会合で認められない場合には、(1)通常より短い間隔でフォローアップ報告書をFATFに出すことを求められる、(2)FATF議長から警告の書簡が発出される、(3)FATFから改善を求めるハイレベルの使節団が派遣される、(4)世界の金融機関が特別の注意を払うべき「高リスク国」に指定される、のいずれかの厳しい措置をFATFがとることが想定される。そして究極的には、(5)FATF加盟資格の停止またははく奪という措置も理論上ないわけではない。

 FATF加盟国・地域はフォローアップ手続きでも、一様に苦労を重ねている。第3次相互審査を受けた34国・地域のうち、フォローアップ手続きを終了できたのはFATFの2009-10年次報告書によれば、イタリア、ノルウェー、スイス並びに英国のわずか4か国。2010年6月のFATF会合で、ギリシャはフォローアップの手続き8ラウンド目となり、中国は6ラウンド目、オーストラリアも4ラウンド目に入っている。反資金洗浄・テロ資金供与防止の最先進国と目される米国も3ラウンド目に入って、フォローアップ手続きがまだ終わらない。

 日本政府は現在、FATF審査の結果を受けて、関係する国内法制の強化への取り組みを進めている。2010年2月には、日本の金融インテリジェンスユニットであるJAFICが、学識者の会合である「マネー・ロンダリング対策のための事業者による顧客管理の在り方に関する懇談会」を設置。懇談会は6回の審議を経て、7月に報告書を公表している。そして2011年3月11日には、懇談会報告書や金融機関関係者からのヒアリングなどをもとに、反資金洗浄・テロ資金供与抑止の強化を図るために犯罪収益移転防止法の改正案を閣議決定した。この改正案は今国会への提出が予定されている。

 今回の改正案は、FATF勧告で指摘された顧客管理態勢の強化を図るため、(1)顧客の取引目的、顧客の職業や法人の事業内容の確認、(2)疑わしい取引と思われる場合、または高額の取引の場合の顧客の収入・資産状況の確認、(3)金融機関や不動産業者などの対象事業者に対して、顧客情報のアップデートや職員研修の態勢構築を求める、(4)顧客の虚偽申告や預貯金通帳の不正譲渡などへの罰則強化、などが柱となっている。

 この改正案が国会で可決され、施行されたとしても、FATFのフォローアップ手続きを日本が無事乗り切れるかどうかは予断を許さない。複数の金融機関関係者はそう語る。法令での義務付けをFATFに期待されている顧客の属性管理のうち、国籍や公的重要人物など、最もセンシティブな分野にまだ手がついていないからだ。日本が反資金洗浄・テロ資金供与抑止で「後進国」との国際的レッテルを貼られないよう、政府、金融機関をはじめとする民間事業者、そして金融機関などの顧客である国民が一体となった、さらなる取り組みが求められている。

 ■上がったFATFの要求水準と国民の利便性との衝突

 日本を筆頭にFATF勧告の遵守に苦労を重ねる各国当局。その原因として、ある金融当局者は3つの要因を挙げる。それは、(1)9-11テロ後に上がったFATFの要求水準、(2)FATF事務局の人的構成、(3)FATF勧告遵守と国民の利便性の間にあるトレードオフ、の3つである。

 (1)については、FATF勧告遵守に関するFATF事務局から各国への要求レベルは、9-11テロ後に急激に上がったようだ。前回指摘したように、ブッシュ政権はテロとの戦いを「金融戦争」と呼び、FATFなどの国際的枠組みをテロとの戦いへの最前線に動員していった。また、FATF事務局はパリに本部を構える国際機関の経済協力開発機構(OECD)の一角を間借りしているが、「家主」であるOECDは、自らが近年強力に推進しているコーポレート・ガバナンスの強化及び金融犯罪防止への取り組みと、反資金洗浄・テロ資金供与抑止との関連を強く意識している。

 例えば、OECDのウィズレル財政金融企業局長は、2004年11月にロンドンで開かれた金融犯罪防止関連の国際会議で発言し、資金洗浄、贈賄、金融犯罪、不適切な自己勘定取引、市場操作並びにテロ資金供与などに法人格を持った「ハコ」がどのように不正に使用されているのか調べるプロジェクトをOECDが開始したことを明らかにしている。

 このような国際的な期待と連携への動きを受け、FATF事務局が張り切り、各国への要求水準を上げていったとしても理解できなくもない。9-11テロ後に実施されたFATF各国審査でのコンプライアンスに関する各国への要求水準は急速に高まっている。これが第3次相互審査における各国審査の報告書を読んだ筆者の率直な印象である。どこかの国が抜け穴となり、資金洗浄された非合法取引のおカネやテロ資金が漏れ出すことは何としても防ぐ。そんな決意が行間から読み取れるような各国審査報告書の文章だ。

 (2)のFATF事務局の人的構成については、2種類の専門領域の出身者が並立してFATF事務局にいることが目を引く。その2種類とは、金融規制監督など金融畑の出身者と、司法・警察など法執行畑の出身者だ。例えば、2008年に対日審査チームを率いて来日し、日本にも知己が多いマクドネルFATF事務局長は、オーストラリアの連邦検察官や連邦犯罪庁の捜査調整官を務め、組織犯罪や資金洗浄事件について豊富な捜査経験を持っている。FATF事務当局の法執行畑の人たちは、金融畑の人たちに比べ、FATF勧告の内容が法令として義務付けされているかどうかを重視する傾向があるといわれる。罪刑法定主義の原則を連想するまでもなく、その心情はよく理解できよう。

 (3)のFATF勧告遵守と国民の利便性の間にあるトレードオフについては、FATF勧告遵守への大きな課題を日本へ特に投げかけていることがわかる。本人確認や顧客管理を継続的に行い、疑わしい取引である可能性がより高い金融取引については、より厳しい注意を行うという、いわゆる「リスク・ベース・アプローチ」を採用すること。FATF対日審査が日本に突きつけた課題を忠実に実施しようとすると、金融機関の顧客となる日本の国民のプライバシーの保護や利便性と真っ向から衝突せざるを得ない局面がたびたび発生することが予想されるからだ。

 反資金洗浄・テロ資金供与抑止のコンプライアンスと、国民の金融取引の利便性・プライバシーの保護がぶつかった例のひとつは、2007年1月から実施された10万円以上の現金振込みに関する本人確認を巡るドタバタだ。

 FATFが2001年に合意した「テロ資金対策に関する9つの特別勧告」のうち、「電信送金に関する特別勧告VII」で、金融機関が取り扱う一定額以上の電信送金に関して本人確認の強化を行うことが義務付けられた。その一定額は米国では1,000ドル、ヨーロッパでは1,000ユーロと定められ、それにならう形で日本でも本人確認法の政令改正が行われ、ほぼ同額の10万円以上のATMからの現金振込みには本人確認が必要とされるようになったのである。

 小切手やクレジットカードが発達し、キャッシュレス社会が現実のものとなっている米国や欧州先進国に比べ、日本はみなが現金を大量に持ち歩く「現金社会」と言われる。送金のために多額の現金を銀行や郵便局の窓口、ATMに持参することが多い。

 「子どもの入学金の振込みに、いちいち健康保険証の提示を求めるのか。」「孫の結婚祝いに送金してやろうと、家から現金を窓口に持ち込んだら、あれこれと尋ねられて不愉快だった。」 電信送金に関するFATF政令の施行後、銀行や金融当局の苦情相談窓口には、こうした苦情が相次いだという。しかし、米国や欧州に旅行したり住んだりした経験のある人たちならば、1,000ドルや1,000ユーロという現金を現地で持ち歩くことの、ある意味での「異常さ」がわかるだろう。しかし、日本の治安のよさと金融機関の取引の確実さと迅速さが、多量の現金を持ち込んでも安全かつ迅速に送金してくれる安心感と利便性を、日本では当たり前と感じさせてくれる。

 しかし、そのような利便性はコストなしにはもはや成り立たない、と覚悟すべきなのかもしれない。反資金洗浄とテロ資金供与抑止に向けた国際的な戦いを進めていくにあたって、金融取引の利便性の追求をある程度我慢してもらうことを国民にお願いせざるを得ない局面に来ているといえよう。

 顧客管理の法制強化を打ち出した前述の「マネー・ロンダリング対策のための事業者による顧客管理の在り方に関する懇談会」は、2010年7月に公表した報告書の結論部分で、利便性とFATF勧告遵守のトレードオフの苦悩を率直に打ち明けている。顧客情報の取得・管理などFATF勧告の履行については法令による義務付けが望ましい。しかし、法令での義務付けにあたっては、国民の混乱を招かぬよう、十分な広報・周知が不可欠だ。報告書はそのような「両論併記」になっている。

 日本が反資金洗浄・テロ資金供与抑止の抜け穴となることは、国際的な信認を日本が失うことになるばかりか、日本に対する治安と安全保障の脅威を増大させることにつながりかねない。金融インテリジェンスの大切さ、そして反資金洗浄・テロ資金供与抑止の意義を広く国民に納得してもらえる取り組みが今こそ求められている。

 ■東アジアの「抜け穴」を防ぐために

  視点をもっと高くとり、東アジア全体でFATFベースの反資金洗浄・テロ資金供与抑止への取り組みを考えるとき、懸念材料のひとつが見えてくる。

 それは、台湾とマカオがFATFの正式メンバーではないことだ。台湾とマカオはFATF準加盟メンバーの地域的枠組みのひとつである「資金洗浄に関するアジア太平洋グループ」(APG)のメンバーではあるが、FATF本体には入っていない。APGにはFATF本体の相互審査に似た審査があるが、その審査の質・水準はFATF本体に遠く及ばないと言われているのか実情である。

 この「東アジアのFATFループホール」を衝いたと思われる事件も2007年3月に発覚している。銃弾の製造が可能な精密工作機械を北朝鮮の企業へ不正輸出した容疑で、台湾当局が中国本土と台湾の商社を摘発したのだ。この事件では、不正輸出の代金支払いは、北朝鮮企業から中国企業へ、そして中国企業からマカオの銀行を通じて台湾へ送金することで実行されたと報道されている。同年10月には、同じようなルートでウラン濃縮やプルトニウム抽出に使うのが可能な精密工作機械を不正輸出した容疑で、台北の商社が台湾当局にやはり摘発されている。

 これまでFATFに未加盟あるいはオブザーバーの地位にとどまっていた中国、インド、韓国などは2000年代の後半から、相次いでFATF正式メンバーとなり、FATF勧告の国内法令化など態勢整備の素早さで注目を浴びている。FATF勧告の遵守によるコンプライアンスの態勢を東アジアできっちりと構築するには、国民の理解を得た上で利便性追求の桎梏を超えて日本が義務の法令化に大胆に乗り出すこと、そしてFATF準加盟メンバーにとどまっている台湾とマカオのFATF本体へ加盟が早期になされるよう日本としても努力すること、の2点が鍵となろう。

 

 保井 俊之(やすい・としゆき)
 東京都出身。1985年、東京大学教養学部教養学科(国際関係論)卒業後、旧大蔵省入省。OECD(経済協力開発機構)職員、JBIC(国際協力銀行)開発金融研究所主任研究員、金融庁監督局保険課長、同参事官などを経て、2007年10月に中央大学総合政策学部客員教授。2008年4月より慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM)特別招聘教授。2009年7月より同特別研究教授。
 著書に『中台激震』(単著、中央公論新社、2005年)、『世界経済を読む』(共著、豊田博編、東洋経済新報社、1991年)など。2010年9月に日本コンペティティブ・インテリジェンス学会2010年度論文賞受賞。

  

 ▽参考文献

 ▽FATF (2008

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