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合コンで弁護士に「ご専門は?」 弁護士の専門化は世の流れ

弁護士サービスの専門化について

 

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
弁護士  宮野 勉

宮野 勉(みやの・つとむ)
 1986年3月、東京大学法学部卒業。司法研修所(40期)を経て88年4月に弁護士登録(第一東京弁護士会)。1993年6月、米ハーバード大学法科大学院(LL.M.)修了。米サンフランシスコのBechtel Corporation、米ニューヨークのCravath, Swaine & Moore 法律事務所に勤務した後、94年9月に現事務所に復帰。2005年7月から中央大学法科大学院で教鞭をとる。

 合コンで弁護士に「ご専門は?」

 ロースクール(法科大学院)の教え子で、現在は地方都市で開業している若手の独身男性弁護士が東京に来たので食事をともにした。

 「この前、『合コン』に行ったら、いきなり『ご専門は?』と聞かれて参りました」

 同じ年頃の独身女性たちのグループと独身男性たちのグループが合同でコンパ(飲み会)を開いて知り合う機会を得ようという「合コン」で、初対面の女性が男性弁護士の「専門」を知ろうとしたのだという。

 地方の若手弁護士に対しても「専門は?」という質問がされる状況に驚くとともに、ついにそういう時代になったのだという感慨もあった。

 筆者が弁護士になった頃は「民事」と「刑事」などの、ある弁護士が主に活動する極めて大雑把な「得意分野」は存在したものの、一般的には弁護士はひと通りの業務は何でもできるべし、とされていた。クライアントが「先生は○○はできますか?」と尋ねれば、「勿論できます!」とか「得意です!」と取りあえず元気よく答えておく、というのは仕事のない若手弁護士の典型的な対応だった。「やったことがありません」とか「苦手です」などと言っては仕事にありつけないぞ、と先輩達から叱られたものである。

 医師の場合

 弁護士業界はしばしば医師業界とのアナロジーで語られる。弁護士サービスによる支援を必要としている人々を「権利の病者」という表現で喩える人もいるくらいである。

 仮に、ある村に医師が1人しかいなければ、その医師は患者の症状に応じて「自分は○○科だから」と言って眼前の患者を門前払いをすることは難しいと思われる。その医師の手が回らないところでは古老や呪術師(?)などが「この病気はこのクスリ(?)を飲めば治る」というようなことをアドバイスする場合もあるに違いない。

 しかし、医師が津々浦々に行き渡れば、怪しげな古老や呪術師は次第に相手にされなくなり、患者はともかく医師に診察を求めることになる。また、複数の医師が村に常駐すれば、「腹痛のときはA先生」「頭痛ならB先生」というような区別が生まれる。さらに医師が増えれば各医師が「自分は○○科」という看板を掲げ、その分野以外の患者には「申し訳ないけれど○○先生に行ってください」ということも起きる。無理に不得手な分野の患者を引き受けて医療過誤を起こしたり「藪医者」と言われたりするくらいならば、自分の専門を絞った方がより良い医療サービスを患者に提供でき、患者も助かる。やがて、専門外のことを「断る」ことはむしろ当然で、断らないこと自体が軽率と非難されることになる。

 弁護士の場合

 弁護士も同じことで、一定の地域の弁護士数が対人口比で非常に少なければ、必要に応じて弁護士は多様な事件を扱わなくてはならない。そういう状況では弁護士資格のない者が様々な「事件処理」を弁護士に代わって行う場面も頻繁にあることは想像に難くない。しかし、司法改革によって弁護士人口が増加すれば、無資格者が他人の紛争を処理することなど(いわゆる「非弁活動」)は自ずと影を潜めよう(もっとも、弁護士料が依然として高ければ、低廉な料金で類似サービスを提供する「競争者」は依然として跋扈し続けるだろうが)。

 さらに弁護士が増加すれば、それぞれの弁護士が自分の専門を掲げるようになる。そこであまりに広範な専門を掲げるとその「専門」性について疑いの目を向けられてしまう。医師でも「眼科、肛門科、心臓外科が専門」という看板を出せば患者は戸惑うだろう。必然的に各弁護士の専門領域も次第と狭くならざるを得ない。実際、紛争が年々多様化・複雑化し、また会社法、金融商品取引法などの重要法令の大改正が行なわれると、一人の弁護士が広範囲の法律の最先端をマスターすることは不可能となり、否応なく専門を絞らざるを得なくなる。クライアントも次第に「何でもできる弁護士」イコール「何も(中途半端にしか)できない弁護士」という目で見るようになる。医者と同様、弁護士も専門外の依頼を断らなければ真の専門分野は確立されないのではないか。一昔前のように舞い込む仕事を貪欲に受任していれば容易に取扱分野は拡散してしまう。以前は専門分野を余りに狭くすると、その分野が法令や税制改正などの理由で廃れて、それを専門としていた弁護士も干上がってしまうリスクがあった。近時は日本も弁護士サービスへのニーズが高まるなど市場も成熟してきたため、以前に比して安心して専門を絞りやすい状況になっている。

 ジェネラリストという「専門」家

 誤解してもらっては困るのだが、以上の議論は、ジェネラリストが悪いという趣旨では全くない。「ジェネラリスト」は日常的に発生する案件を効率よく多くのクライアントのために処理し、手に余る複雑案件や大規模案件を正しく見極めて適切な専門家を紹介する役割として位置づけることができる。そのような「ジェネラリスト」の存在は多くのクライアントにとって重要であり、法化社会を支えるインフラとして不可欠である。そういう意味で、上記とは「専門」という用語の使い方が異なるものの「ジェネラリストという専門」もあると考えられる。

 大規模総合病院と大規模法律事務所

 ここ10年くらいで日本にも大規模総合法律事務所が出現した。東京には現在私が所属する事務所を含め弁護士数300名を超える法律事務所が4つ存在するが、これを医師に喩えるならば大規模総合病院にあたるだろう。そこでは専門が細分化された多数の弁護士が大規模・複雑な案件を高度な技術を使って共同作業で分析して解決するという業務形態がとられる。

 そういう事務所でも、顧問先企業の案件などは顧問弁護士が専門分野に拘らず広汎に取り扱うのが一般であった。が、今では顧問弁護士は窓口化し、案件処理は事務所内の専門家の同僚に委嘱するという形に徐々に進化しつつある。「何でも屋」の弁護士にとって、大規模法律事務所は身の置き所に困る場所になりつつあるように思われる。

 「法化社会」へのインフラとしての弁護士業務の多層化 

 気軽に行ける個人医院、ある程度設備の整ったクリニック、いよいよのときの大規模総合病院というようなラインナップが整って初めて、患者の必要性に合致した医療が国民に行き渡るようになる。ならば、弁護士数が十分に増え、個人医院、クリニック、総合病院に対応する弁護士事務所の多層化が進むことも、各クライアントの需要に沿った法律サービスの提供には必須であろう。

 もちろん、それだけで

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