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「福島・中通りで何を経験し、何を考えたか」を伝えたい

荒尾さんはなぜ詩を書いたか?

奥山 俊宏

 福島第一原発がある福島県の「浜通り」から阿武隈山系を間にはさんだ内陸側「中通り」の田園地帯に二本松市の街はある。荒尾駿介さん(69)はそこに家をかまえ、借りた菜園で趣味の畑作に励みながら、引退後の日々を過ごす。放射性物質が流れてきたことが分かった後の3月23日、東京に避難し、1か月ほどを過ごした。暑中見舞いを兼ねて近況を知人に報告しようと文章を書いているうちに、それが初めての詩作へと向かった。

  ▽筆者:奥山俊宏

  ▽関連記事: 「ほんとの空」の下で放射能に不安、詩作「2011年フクシマ」

  ▽荒尾さんが2番目に作った詩: 短詩NO2

  ▽荒尾さんの文章: 2011年8月のフクシマ・二本松

  ▽関連記事: 東京電力本店からの報告

 

荒尾駿介さん
 3月23日、自衛隊の大型ヘリが飛び交い、騒然とする二本松を離れ、息子の呼びかけに応じて東京に避難した。そこで新聞や週刊誌、書籍で「原発の裏側」を読むうちに、荒尾さんなりに「こういうことだったのか」ということがおぼろげに見えてきた。そして、東京電力や政府の対応に憤ると同時に、それまで原発に無関心だった自分自身に対する憤りと反省を感じた。「なんでこんなに無関心だったのか?」と。

 4月17日、二本松に戻った。そのころから、福島県に在住する一庶民として、原発事故の渦中に生きざるを得ない一人の庶民として、どんな状況でどんな気持ちでいるのかを記録し、発信していくべきだと思うようになった。

 昔から、国内外に旅行したときにエッセイ調の「旅日記」を書き下ろし、冊子にまとめて親類や知人に配ることが何度かあった。しかし、今回の場合はそれにとどめるべきではないように感じた。「全然知らない、離れたとこに住んでいる人たちに読んでもらう、あるいは、同じ環境下に住んでいる人たちと気持ちを確かめ合っていく手段として、公にできたらいいのかなぁ」と考えた。

荒尾さんの菜園のすぐそばの高台から見える夕暮れどきの安達太良山
 暑中見舞いを兼ねた近況報告として、友人・知人を読み手に想定して書いた手紙の文面が『2011年8月のフクシマ・二本松』の元になった。「長いものを読んでもらうのも気の毒」「他人に読んでもらいやすいものを」と考え、できるだけ文章を短く削り込み、一つひとつの言葉に力を持たせようと努めた。それが詩になった。「読んだ人が共感できて、話のきっかけになれば、うれしい」と荒尾さんは言う。

 1967年に転勤してきて以来、福島に住むようになった。その後、農協五連の一つ、福島県経済連(現・JA全農福島)に獣医師として勤務し、県内各地の酪農家と付き合った。約20年にわたって、酪農家のための機関誌を隔月で出した。退職して12年目である。