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「京町家」とタックス・プラニング

仲谷 栄一郎

「京町家」とタックス・プラニング

 

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
弁護士 仲谷 栄一郎

仲谷 栄一郎(なかたに・えいいちろう)
 東京大学法学部卒業。一般企業法務、国際取引・国際契約を取り扱い、とくに税法を専門とする。2007~2008年、早稲田大学法学部非常勤講師(国際租税法)。
 主要著書に「租税条約と国内税法の交錯」(第36回日本公認会計士協会学術賞受賞)、「外国企業との取引と税務」、「契約の英語(全2巻)」、「交渉の英語(全3巻)」。

 京町家の間口

 「京町家(きょうまちや)の間口が狭く奥行きが深いのは、江戸時代に間口の幅に応じて税金が課されたからだ」と言われている。

 これは適法な節税策かと問われれば、もちろん適法であろう。それでは、間口は狭いが少し奥に入ると幅が広がる家――上から見ると「凸」型の家――を建てるというタックス・プラニングは認められるか。

 感覚としては、法律が間口のみを基準にしているのであればこのプラニングは認められ、この家に対し広い間口に相当する税金を課すためには、「表口から裏口までの間で幅が最大の部分を基準とする」などの立法措置が必要であると思う。これに対し奉行所(?)は、そういう法律がなくても、凸型の家については広い間口とみなして課税できると主張するかもしれない。

 租税回避行為と租税法律主義

 現代風に言い換えると、税金を軽減しようとする行為であっても法律の規定がない限り課税することはできないという立場と、租税回避行為には法律上の根拠がなくても課税できるという立場のぶつかり合いということになる。

 一般的には、税金は法律に従って課されなければならないという「租税法律主義」(憲法第84条)から前者の立場が正当であると考えられている。最高裁は立場を明らかにしていないが、前者の立場に立つと解釈できる判決が存在するのに対し、後者の立場に立つことを明言した判決はない。

 たとえば、日本とオランダとの間で締結されている租税条約によると、ある契約(商法上の匿名組合)から得られるオランダ法人の所得については日本で課税されない。最高裁は、この規定の適用により日本での課税を免れようという動機に基づいて締結された契約であっても、その契約が実際に存在する以上、オランダ法人の所得については日本で課税されないと判断した。こう単純にまとめてしまうと同義語反復のようであり、「何が問題なのか。当然ではないか」とお感じになるかもしれないが、奉行所……ではなかった、国税当局は「税金を免れるためにあえて仕組んだ取引だからけしからん」と主張したのである。

 これに対し、「けしからん」との国税当局の主張が通り、税金を軽減しようとする試みが認められず課税された事件もある。ただしそのような場合も、最高裁は「租税回避行為だから」という理由ではなく、「租税法律主義」の枠内で事実認定や法解釈を理由として、「けしからん」試みを認めないと判断しているように見受けられる。

 たとえば、関係当事者の間で、ある資産(映画フィルム)を売買した形になっているが、実質的には資産も代金も一回りして元に戻っているとも評価できるような取引につき、最高裁はその資産は「事業の用に供されていないから減価償却資産に該当せず、減価償却は認められない」という技術的な法解釈で、当事者が画策していた税金の軽減(減価償却費を損金算入して課税所得を減らす)を認めなかった。

 このように、税金を軽減しようとする行為が認められるか否かは、何らかの一線で分けられているはずであるが、明確な一線は引けるのだろうか。

 「理論物理学」「将棋」「法律学」の三題噺

 ここで話が飛ぶ。理論物理学や純粋数学においては、通常人の想像や理解を超えた高度で抽象的な議論が展開されているが、優れた理論を形作るには「感性」が必要であり「美しい理論は正しい」とも言われる。

 さらに話が飛ぶ。将棋や碁の高段者が着手を決めるときには、何十手も先を読むのはもちろんのことであるが、ぎりぎりで迷う場合は「感性」を頼りにすると言われる。

 物理学や将棋と言えば、理屈で詰めることによって真実や最善手に到達できると考えられる最右翼の世界である。しかし、そのような世界においてさえも、最後は「感性」が支配するらしい。

 話を少し本筋に戻す。大学の講義で、机上の事例をあれこれと検討した後、教授が「若いころは詰めていろいろと考えましたが、最後は直感なのではないかと思い始めています」とおっしゃったことがある。……それでは、税法の世界ではどうであろう。

 「感性」と言われても……

 税法は条文が緻密で論理的にできており、法律のなかでもとくに不明確な範囲が狭い分野だと言える。しかし、税金を軽減しようとする試みが認められるか否かという問題は、論理で詰めていっても分水嶺を完全に明確にすることはできないのではなかろうか。論理でぎりぎりまで詰めていったその先は、あきらめや開き直りではなく積極的な意味において、やはり「感性」によるしかないように思う。冒頭の凸型の家について「感覚としては」と言ったのは、このような趣旨である。

 これに対し、「感性」などと言っても明確ではなく、しかも人によって異なるとの批判があろう。しかし、感性が研ぎ澄まされてくると、一定の範囲におさまってくるのではないか。

 これまた話が飛ぶ。絵画やワインなど、論理ではなくほとんど感性のみが問題になる分野であっても、評価がばらばらというわけではなく、専門家の評価は一定の範囲におさまっており、多くの人が良いと判断するものは実際に良いものと考えてよいであろう。

 この点、論理が先行する物理学や将棋や税法の世界では、感性に残された余地がより狭いと言えよう。現に、ある節税策が認められるか否かについて税法の専門家の間で議論すると、従前に比べ方向性が一致することが多くなってきたように思える。最高裁の判例やそれをめぐる議論が蓄積してきたため、専門家たちの感性が収束してきているのだろうか。

 というわけで、感性を養うべく、ときには雑踏を飛び出し京町家の町並みを散歩などしに行きたいものである(なお、冒頭の写真は合成)。……が、京町家に間口の幅に応じて税金が課された事実はなかったとのことであり、我が「凸型の京町家」にはお目にかかれそうもない。