2012年03月26日
大学の国際化と異文化コミュニケーションについて思うこと
アンダーソン・毛利・友常法律事務所
弁護士 角田 太郎
大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学(Ritsumeikan Asia Pacific University /APU)をご存知だろうか。APUは2000年に、立命館学園創立100周年を記念して、日本で初の本格的な国際大学として設立された。学生の約半数が留学生であり、現在、約80の国・地域からやってきた留学生と日本人の学生がともに学んでいる。
私自身は立命館ともAPUとも以前は特に関わりはなかったが、縁あって、数年前からAPUで教える機会を頂戴している。今年は、学部生約250名に日本の会社法を英語で講義する機会を得た。弁護士業務の関係では日常的に英語を使用しているため、英語で話をすることにあまり抵抗感はないつもりだったが、90分の講義を一日3コマ、かつ5日間の集中講義として行なうのは、なかなか骨が折れた。この点は学生達も同様で、短期間の集中講義であったため、授業内容を消化するのはかなり大変だったようである。
発言する外国人留学生
今回の講義は、法律のバックグラウンドを特に持たない一般の学生が対象であり、かつ、受講生の7割ぐらいが外国からの留学生(アジアからの留学生が最も多かったが、ヨーロッパやアフリカからの留学生もいた)であったため、細かい法律論よりも、日本の会社法の概略を理解してもらうことに主眼をおいた。株主の有限責任や、会社が法人格を持つことの意味等の基本的な事項について、時間をかけて説明したつもりではあったが、私の力量不足もあり、学生達にとっては、理解するのはなかなか大変だったようだ。
授業はレクチャー形式で行なったが、授業中の発言内容を成績評価において考慮することとしたためか、こちらが話をしている最中にも、積極的に質問をしてくる学生が非常に多かった。ただ、少し残念というか寂しく感じたのは、私が気づいた限りでは、日本人(と思われる)学生からの質問がなかったことだ。(受講生のリストから判断すると、日本人学生も3割程度はいたはずである。)
他方で、韓国、中国、バングラデシュ、スリランカ、フィリピン、マレーシア等の学生達は、非常に積極的に発言していた。もっとも、発言内容には首を傾げたくなるもの(例えば、会社の設立の話をしているときに、「会社の設立とIPOは違うのか」との質問があったり、日本の合同会社の説明をしているときに、「フェイスブック(アメリカの会社である)は合同会社か」との質問があったり等)もいくつかあったし、学生の質問が講義内容から大きく脱線したり、特定の学生が延々と質問を続けたため、他の学生から、質問を適当なところで打ち切るか、質問時間にタイムリミットを決めるなどして、授業のペースが乱れないようにしてほしいと抗議されたり、いろいろと大変ではあった。ただ、外国人留学生の授業に対する積極性を強く感じたことは事実である。もっとも、全ての外国人留学生が熱心に授業を聞いていたわけではなく、また、試験の出来具合にも、学生間で大きな差があった。このあたりの事情は国が変わっても大体同じようである。
東京大学が秋入学への移行を提言したのをきっかけに、大学の国際化についての議論が盛り上がっている。これについては賛否両論あると思うが、自分とは異なる文化的背景を持つ人々を相手に、自分の意見を積極的に、かつ、説得力をもって主張していく能力(異文化コミュニケーション能力)は、日本が国際社会で競争していく上で、今後ますます重要になっていくであろう。大学の国際化は、この異文化コミュニケーション能力の向上のために必要なことの一つではないかと思う。授業中に一言も発言しない日本人学生と、全く臆せずに堂々と自説を主張するAPUの外国人留学生とを対比して見ていると、より一層その思いが強くなった。
英語で授業することの難しさ
大学の国際化との関係でいろいろな課題が指摘されているが、その中の一つに、英語で行なわれる授業を増やすことの必要性、英語で授業ができる教員の確保の問題が挙げられている。特に、人文科学系・社会科学系の授業を英語で行うことは非常に難しく、教える側に相当高度な英語力が必要であるとの指摘がある。これについては私もまったく同感で、英語で日本法を教えることは非常に難しいと感じる。図や数式で説明できる部分が限られており、最終的には全ての概念を言語化して英語で説明しなければならないのだが、これが非常に骨の折れる作業なのだ。英語で授業をするのは初めてではなかったが、今回、改めて、英語で授業をすることの難しさを再認識した。
ここで、英語で授業をするのが難しいといっているのは、発音等の問題もあるが、むしろ、話しながらスムーズに理路整然とした英文を作っていくことの難しさについてである。あらかじめ英文の原稿を準備してスピーチを読み上げるのであれば、話しながら英文を作るという難しさはなく、話し方や内容を伝えることに集中することが可能であろう。一方、英語で授業を行う場合には、たとえレクチャー形式であったとしても、学生との双方向のやり取りがあるため、話す内容の全てについて、事前に準備をしておくことは困難である。日本語で説明する場合であったとしても、理路整然とした言葉で即座に説明するのが難しい事項について、英語で説明しなければならないことが多い(というより、そのような場合がほとんどである)。頭の中に日本語ベースでストックされている概念を英語で表現する場合、対象となる概念の構成要素を一つ一つ分解し、これを英語でもう一度組み立てなおす作業が必要となるのだが、これがなかなかに困難なのである。この点は、外国の依頼者に英語で日本法をアドバイスする際にも共通する悩みであるが、英語圏の国に多少留学した程度ではどうにもならず、かなり長期間にわたるトレーニングが必要だと感じる。
1万時間のトレーニングでも足りない
話があちこちに飛んで恐縮だが、全米でベストセラーになったノンフィクションのOutliers / The Story of Success(Malcolm Gladwell著)という本をご存知だろうか。この本の中に、The 10,000-hour Ruleという章があり、英語のトレーニングとの関係で、何度読んでも納得させられる部分がある。要は、非常に複雑な知的作業(日本人にとっての英語は、まさにこの定義に該当すると思う)をこなせるようになるためには、最低1万時間のトレーニングが必要であり、このことはいろいろな実証研究で明らかになっているということが書かれている。 英語と日本語の距離の問題を考えると、ほとんどの日本人にとって、成人してから、仕事(特に法律のように言葉が全ての仕事)で使うに耐える英語力を身につけるのは、本当に容易なことではなく、1万時間のトレーニングでも足りないと思う。
ところでこの原稿は、ブラジルのサンパウロへ出張した際に書いている。ブラジルでもしっかりとした英語を話せる弁護士の数は決して多くはないのだが、現地のトップローファームの弁護士たちは、ほぼ例外なく、非常にしっかりとした英語を話す。自分も含めて日本勢を振り返ってみると、だいぶ差をつけられているな、というのが正直なところである。
異文化に触れて「気づき」を得る
話が大分脱線したが、異文化コミュニケーションには、いろいろと難しい問題がはらんでいるものの、同時に、新しいものの見方に触れることができるため新鮮でもあり、また、そこで得たいろいろな「気づき」の経験を他の場面でも生かすことができることが最大の魅力でもある。私にとって、外国の依頼者とのやりとりは異文化コミュニケーションそのものであり、毎日が「気づき」の連続である。
角田 太郎(つのだ・たろう)
1992年3月、早稲田大学法学部卒。司法修習(48期)を経て、1996年4月、弁護士登録。
2001年5月、米国University of Michigan (LL.M.)、2002年6月、 米国University of Chicago (LL.M.)。2002年9月から2003年8月まで米国ニューヨークのCleary, Gottlieb, Steen & Hamilton 法律事務所勤務。2003年7月、ニューヨーク州弁護士登録。
2006年4月、アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所。2008年1月、同パートナー就任。
2007年4月から2009年3月まで成蹊大学法科大学院非常勤講師。
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