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中国の「鉄」老人たちから学んだフェアプレー精神

中国独占禁止法とフェアプレー精神


アンダーソン・毛利・友常法律事務所
矢上 浄子(やがみ・きよこ)

矢上 浄子弁護士拡大矢上 浄子(やがみ・きよこ)
 2000年3月、中央大学法学部卒。2001年5月、米国Temple University Beasley School of Law(LL.M.)。2002年6月、中国政法大学国際経済法系修士課程(法学修士)。2002年10月、ニューヨーク州弁護士。2007年3月、早稲田大学法科大学院(法務博士 (専門職))。2008年12月、司法修習(61期)を経て弁護士登録(第二東京弁護士会)。2009年1月、当事務所入所。
 私は1999年に北京の大学院に進学し、大学院修了後もそのまま現地の法律事務所(現事務所の北京事務所)にて勤務したため、2004年に日本に帰国するまで、合計6年間北京に在住していた。当時は中国がWTO(世界貿易機関)への加盟や北京オリンピックの誘致に向けて着々と準備を進めていた時期で、北京の街全体が明るい活気に満ち溢れていた。その中に身を置く私も、チャンスを求めて北京で活動する人々との交流を広げるなど、実に刺激的な毎日を送っていた。

 ■トライアスロンとの出会い

 6年間の北京生活の中でも特に忘れられないのが、現地でトライアスロンサークルに参加し、中国人のチームメイトたちと一緒に練習に励んだことだ。当時大学院生だった私は、通訳や翻訳で稼いだアルバイト代でロードバイクを1台購入し、毎週末のように万里の長城などの郊外にツーリングに出かけたり(その頃の北京の空は今よりも格段に澄んでいた)、当時まだ完成間もない五環路(第五環状道路)で時おり開かれる自転車レースに参加したりしていた(突如として現れる蓋のないマンホールには万全の注意が必要であったが)。

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 そんなある日、たまたま参加したレースで、教え子の応援に来ていた北京体育大学の教授と知り合う機会があった。そして、趣味で有志のトライアスロンチームのコーチもしているというその教授から、「我々とトライアスロンを一緒にやらないか」と熱い「スカウト」を受けた。北京体育大学といえば、オリンピック選手を続々輩出する中国切ってのスポーツ名門校。当時独身だった私に将来のオリンピック選手との出会いに期待する下心がまったくなかったとはいえないが、その機会に、前々から興味のあったトライアスロンにとにかく一度挑戦してみることにした。

 ■予想外のチームメンバー

 教授から指定された練習会は、翌週日曜日の朝5時半。眠い目をこすりながら着いた集合場所で私を待っていたのは、北京体育大学のエリート若手選手ではなく、何とほとんどが60~70歳代の、真っ黒に日焼けした精悍な高齢者アスリート集団であった。聞けば、ほとんどのチームメイトが定年退職後の趣味としてトライアスロンを始めたのだという。中国語でトライアスロンのことを「鉄人三項」というが、彼らはまさに、「鉄」老人と呼ぶにふさわしい、いかにもたくましい老人たちであった。

 中国に滞在したことのある方ならご存知だと思うが、中国の高齢者は往々にして元気で活動的だ。北京の公園は、毎日朝から太極拳、囲碁、「秧歌踊」(ヤンガー踊り)と呼ばれるダンス、地面書道(水を含ませた長い筆で地面に字を書く)などに興じる高齢者で賑わっている。都市部では(職業にもよるが)高齢者の社会保障が比較的充実しており、年金収入も割合多いと聞く。他方で、中国では一人っ子政策の影響もあり、他国で例を見ないほど急速に高齢化が進んでいる。インフレが進み、医療費も高額化する中で、充実した社会保障もいずれは破たんするのではという社会不安も抱えている。そのような状況が、彼らをより健康的な生活へ、そしてトライアスロンのトレーニングへと向かわせたのかもしれない。

 当初期待していたチーム編成とは少しばかり異なっていたとはいえ、気さくで練習熱心、ときにおせっかい焼きのこの老人たちとのトライアスロンの練習に、私はすっかり夢中になってしまった。トライアスロンは、スイム、バイク、ランの三種目を1人で順番にこなす耐久競技である。トライアスロンの世界では、すべて自力でレースに挑むことが是とされる。レース途中にバイクがパンクすれば自分で修理しなければならないし、バイクのドラフティング(前の選手にぴったり付いて空気抵抗を軽くする走行方法)も禁止されている。選手それぞれが完全にフェアな環境の中で競技に挑むのがトライアスロンなのだが、私にそのフェアプレー精神を教えてくれたのも、この老チームメイトたちであった。

 普段はあまりお酒を飲まないストイックな鉄老人たちだが、大会後の打ち上げでは、白酒を交わしながらぽつぽつと身の上話をしてくれた。特に、日中戦争で親戚を失ってから、およそ日本人に好意を抱いたことはないという李老人が、こうして中国人・日本人問わず一緒にスポーツができる時代まで生きることができて感慨深いと話してくれたことは、強く印象に残っている。そして、ついに私の日本帰国が決まったときには、最後の練習会で「日本でもトライアスロンは続けるように。いつか海南島の大会で再会しよう」と、口々に声をかけてくれた。

 ■中国独占禁止法とフェアプレー精神

 日本に戻り弁護士となった私は、現事務所で主に渉外企業法務に関する業務に携わっている。中国での留学・勤務経験を生かせる対中投資や日中貿易の案件を担当することも多い。また、最近取扱いが増えているのが、中国の独占禁止法に関する案件である。

 独占禁止法は、海外では「競争法」と呼ばれることが多いように、公正な自由競争を保護するための基本となる法律である。スポーツ競技と同様に、市場経済においても、フェアプレーの精神に則った公正なルールの遵守が不可欠だ。改革開放以降、急速に市場経済化が進んだ中国でも、2008年に満を持して中国独占禁止法が施行された。この法律が施行されたことで、「社会主義市場経済」を標榜する中国で、中国企業も外国企業も、独占禁止法という基本ルールの下、公正で自由な競争を行うべきことが明らかにされたという意義は大きい。ただ、施行から5年が経とうとしている今でも、その運用面ではいまだに不安要素も多い。

 特に、2012年秋、尖閣諸島問題をめぐり日中関係が悪化した際には、中国当局による独禁法上の企業結合審査において、日本企業の関与する案件の審査手続が理由なく滞るという状況が生じた。このため、日本企業の関わる買収案件では、中国当局の審査が終わるまで買収スケジュールの後ろ倒しを余儀なくされる事態となり、私の担当案件にも少なからず影響が及んだ。日中関係の悪化と中国当局の審査手続の遅れに実際の因果関係があったのかどうかは明らかではない。ただ、もしそれが事実だとすると、市場競争におけるフェアプレーの大原則を定めた独占禁止法が、当局のアンフェアな目的のために利用されたことに他ならず、許されることではない。日中関係の平常化に伴い、このような状況も徐々に解消されたようだが、中国独占禁止法が今後、よりフェアに運用されるようになることを強く願いたい。

 ■海南島の約束

 中国関係の業務で上述のような困難に直面したときには、フェアプレー精神とは何かを私に教えてくれた、北京のトライアスロンのチームメイトたちのことをよく思い出す。同じ中国にも、文化大革命、改革解放、インフレ、社会不安という荒波の中を自力でたくましく生き抜き、定年後にはトライアスロンにも挑戦して、「更上一層楼」(さらなる高み)を目指そうとする鉄老人たちがいる。

 私はといえば、そうこうしているうちに結婚して一児の母となり、仕事・育児・家事という「生活のトライアスロン」で手一杯の日々を送っているのが現状で、乗るバイクといえば電動アシストのママチャリという不甲斐なさだ。残念ながらトライアスロンのトレーニングからもすっかり離れてしまったが、近い将来、またトレーニングを再開し、彼らと海南島の大会で再会する約束を果たすことが私の当面の目標である。

 矢上 浄子(やがみ・きよこ)
 2000年3月、中央大学法学部卒。2001年5月、米国Temple University Beasley School of Law(LL.M.)。2002年6月、中国政法大学国際経済法系修士課程(法学修士)。2002年10月、ニューヨーク州弁護士登録。同年11月から2004年2月までアンダーソン・毛利・友常法律事務北京事務所勤務。2007年3月、早稲田大学法科大学院(法務博士 (専門職))。2007年6月から10月まで外務省経済局勤務。2008年12月、司法修習(61期)を経て弁護士登録(第二東京弁護士会)。2009年1月、当事務所入所。2009年7月から2013年3月まで早稲田大学大学院法務研究科(法科大学院)アカデミック・アドバイザー。
 共著論文に「中国独占禁止法最前線 企業結合審査における最新事例の分析とガイドライン制定の動向」(月刊 ザ・ローヤーズ 2009年6月号(第6巻6号))、「中国における事業者結合届出の実務」(「Business Law Journal」 2010年5月号)、「トラブルのないスポーツ団体の運営のために~ガバナンスガイドブック」(一般財団法人日本スポーツ仲裁機構 2011年3月)、「The International Comparative Legal Guide to : International Arbitration 2011」(Global Legal Group, 2011年)、「アジア諸国における企業結合届出制度」(公正取引 2011年10月号)、「2012 Antitrust Year In Review」 (ABA International Law Section, International Antitrust Committee, 2013年)などがある。

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