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禅問答:ある何事かを表現し、伝えるにはどうすればいいのか

手塚 崇史

「禅問答」に思う

 

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
 弁護士  手塚 崇史

手塚 崇史(てづか・たかし)
 1996年3月、東京大学法学部卒業。1996年4月、自治省(現総務省)入省。2000年6月、米国Harvard Law School (International Tax Program)。2000年5月、ニューヨーク州弁護士登録。2002年10月、司法修習(55期)を経て弁護士登録(第一東京弁護士会)。2010年6月、当事務所入所。2013年1月、当事務所スペシャル・カウンセル就任。
 禅問答--。この言葉からどのようなことを思い浮かべるであろうか。

 おそらく多くの人は、否定的なイメージを持つのではなかろうか。実際に、国語辞典を引いてみても、「真意がとらえにくい問答・会話」であったり、「何をいっているのかわからない難解な問答。話のかみ合わない珍妙な問答。」などと見方によってはさんざんな意味が(本来の意味である「禅宗の僧が悟りをひらくために行う問答」という趣旨の意味の他に)記載されている。

 この禅問答(またの名を「公案」)は、確かに何を言っているのか訳がわからない、と感じられるものがほとんどである。有名な公案集には「無門関」、「碧巌録」、「従容録」などがあるが、「無門関」の中には次のような公案がある。

 あるとき大梅という名の僧が、師匠である馬祖に、「仏とは何か」と問うたところ、「即心是仏(心がすなわち仏である)」と答えた(無門関第30則「即心即佛」より)。


 あるとき修行僧が、馬祖に、「仏とは何か」と問うたところ、「非心非仏(心でもなく、仏でもない)」と答えた(無門関第33則「非心非佛」より)。

 

 上記の公案では、まったくもって矛盾した回答がなされているように感じられ、首尾一貫した解釈を拒否するような公案である。

 またさらに、極めつけともいえるのが、次の公案である。

 あるとき、南泉和尚は、東の禅堂の僧侶たちと西の禅堂の僧侶たちとが一匹の猫をめぐって言い争っていたところ、その猫をつまみ上げて「道にかなった言葉を言えればこの猫は救われるが、言えなければ、斬り捨てる。」といった。ところが、誰も何も言うことが出来なかったので、南泉はついに猫を斬り捨ててしまった。

 

 晩になって、弟子の趙州が外から帰ってきた。南泉は趙州に猫を斬り捨てたことを話した。すると趙州は、履(くつ)を脱いで自分の頭に載せ部屋を出ていった。南泉は、「お前があのときいてくれたら、あの猫を救ってやることができたのに」と言った。(無門関第14則「南泉斬猫」より)

  

 この公案に至っては、ほぼ意味がわからない。斬られた猫はあわれというほかなく(俗には、南泉和尚は動物愛護法違反ということですかね。)、履いていた靴を頭に載せて退出する趙州は余人の理解を超えており、それを受けた南泉和尚の科白も不可解としかいいようがない。事実、この公案はその中でも最も難解なものの一つとされているようであり、南泉和尚を趙州は非難しているとするものから、賛同を示しているとするものまで、実に様々な解釈がなされているようである。

禅問答の意義

 このように、一見しただけでは何を言っているのか皆目見当がつかないようなものであっても、現代に至るまで公案集が伝えられているのはなぜなのであろうか。もし真に意味不明で無用なものとの判断がいつかの時点で下されたのであれば、それは現代には伝わらないのではなかろうか。上に掲げた3集の公案集は、いずれも中国の宋の時代(960年から1279年まで)にまとめられたものであるとされており、その歴史は約1000年近くにも及ぶ。

 これは、もちろん、公案に重きを置く禅宗の僧侶が、大切に継承に努めてきたという面も大きかろうが、これは、それだけ大切にすべき対象であったということであろう。また、公案は、同時に、禅宗の奥義を伝えるのに非常に適していた、ないしは、禅宗においては、その神髄を伝えるための手段として極めて理に適っていたという側面があるのではないかと思う。

 すなわち、禅宗は、その一面として、すべての人は仏性を自分自身の中に備えていることを前提とし、執着心を排し、文字や言葉で教えること・伝えることのできない事柄を座禅等によって会得することを目的としている、としばしばいわれる。そのような目的の一助として存在しているのが公案である。このような文字や言葉で教えること・伝えることができない事柄を教え、あるいは伝えることに適しているのが、一見すると何を言っているかがわからない公案であると思われるのである。実際に公案集の中には、訳のわからないやりとりに続いて、師匠に質問をした僧侶が須臾にして悟りの境地に至った、と記されているものもあり、まさに禅宗の目的のために公案が機能していることが看て取れる。

 このような考え方は、禅宗と公案の関係に限ったことではなく、例えば、音楽であれば音楽でしか伝えられない何かがあるからこそ、音楽はずっと存在し続けているという側面があるであろうし、これは文学であったり、あるいは映画であったり、絵画であっても同様ではなかろうか。仮にある何事かを表現し、伝えるに際して、それよりも優れた表現方法や伝達方法があれば、時間の経過とともに、より適した表現方法や伝達方法に旧来の表現方法や伝達方法は取って代わられてしまうのではないかと思われる。

禅問答とそのヒント

 とはいいつつも、難解きわまりない禅問答にゼロから向かっていくのは無謀であろう。修行僧としての立場から禅問答に対峙するのはよかろうが、在野の者としてはちょっとハードルが高い。しかも、修行僧の間でも(秘密裏に?)いわゆるあんちょこ本が存在していたというではないか(もっともそんなものに頼っていたのでは邪道といわれるのであろうが・・・)。もとより公案は人それぞれの解釈がなされる余地の大きいものであるように感じられるが、公案を解く鍵は禅宗の考え方や目標にもあるはずである。すなわち、当たり前だが、禅宗という文脈・背景の中で考えることが必要である。

 上記の「即心即佛」と「非心非佛」の例では、すべての人(のみならず、すべての事物)は仏性を自分自身の中に備えていることを前提としている以上、「即心即佛」が正しく、「非心非佛」は誤りということとなるようにも思われるが、ある解釈では「非心非佛」という回答を馬祖から得た僧は、「即心即佛」に執着しており、執着心を排するという禅の奥義から離れていたことを見抜いた師の言葉であった、ともされる。

 このように禅問答ではあっても、その文脈や背景を知れば、神髄にまでは至らずとも表層的な納得できる解釈を知ることもできる。

仕事と私生活の面で

 弁護士は、法廷に出る場合には、相手方や裁判官を説得するために当方の考えを伝え、法廷に出ない場合であっても、相手方を説得したり、あるいは、依頼者に自己の考えを伝えたりするなどしている。

 そのようなときに、自分以外の第三者に、当方の考えを伝えるのに何が一番適しているのであろうか、ということを考えてみると、どうするのが適しているのか、というのはなかなか難しい気がする。

 もちろん、基本は言語であり、言語が重要なのはもちろんであるが、その効果的な使い方、考えを伝えるのに適した言語の選択といったことはやはり難しい。

 また、話したり書いたりしている内容が、俗な意味での「禅問答」にならないようにしたいと私は思っている。自分の理解が不十分であると往々にして、悪しき禅問答となってしまいがちなように感じる。また、適切な考えの伝達のためには、文脈や背景といったこともまたうまく伝えられれば、と思っている。

 翻って、私生活面においては、公案のような奥深いものに時間を割いて沈思黙考するような時間を持つことができれば、と願っている。といいつつも、怠惰な私にはこれまた難題ではあるのだが。

 ただ、今宵くらいは、「南泉斬猫」について考えてみて、俗人として自分なりの回答への手がかりくらいはつかんでみたいものである。