1回表 2012年夏
2013年11月26日
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神戸ベイライツの6回裏の攻撃は、そう呼ばれている。負けているホームゲームを6回裏にひっくり返すのが、今年の得意パターンだ。そのおかげで、3年連続最下位だったチームは、夏の終わりを迎えた今も、首位争いをしている。
2・5ゲーム差で迎えた首位東京ジーニアスとの3連戦。人気実力とも兼ね備えたスター選手を並べる強力打線に対し、昨夜も一昨日も、神戸ベイライツは、6回裏の猛攻で、逆転勝ちを収めていた。今夜は、夏休み最後の日曜日。今夜も勝てば、念願の単独首位に立つことができる。しかも、この時期に3タテを食らわすことができれば、追い抜いた側の方が断然勢いに乗り有利になることは明らかだ。
昨シーズンまでであれば、ジーニアス・ファンが一塁側応援席にまであふれ出し、どちらの本拠地球場かわからなかった。その中で地元神戸のベイライツのファンは、送り出した二線級の投手が次々と自信満々の“天才”たちに打ち込まれる姿をじっと我慢して見てきた。
だいたいジーニアスのやり方はずるいよ。ファンは嘆いた。3年前のオフには、チームの四番打者と最多勝の外国人選手の2人が破格の好条件でそろってジーニアスに引き抜かれたこともあった。去年まで自分が応援していた中心選手が、憎き相手チームのユニフォームを着て、ホームランを放ち、悠々とダイヤモンドを一周するのを見せられるのは、なんともみじめな光景だった。
しかし、今年は違う。久しぶりの絶好調だ。
全国的人気を誇る球界の盟主、東京ジーニアス戦でも、ベイライツ・ファンの方が人数も私設応援団の熱気も勝っている。
今夜の第3戦は、ジーニアス先発のドラフト1位沢田に、5回まで0点に抑えられ、0対2。しかし、2点のビハインドさえも、連夜の逆転劇の再現をファンに期待させた。
疲れのためか、制球をわずかに乱した沢田につけこみ、ベイライツは、一、二番打者が連続四球で出塁すると、つづく外国人選手がライト前にヒットを放ち、あっさり1点を返したのだ。沢田は手首を回したり右肩を上げ下げしたりして、前のイニングまでの調子を取り戻そうと体の動きを確かめている。
ここで迎えるのは四番。今季復活をとげた右の大砲、ヴェテランの安田満。その名前と太った体型から、あんまんのニックネームで親しまれている。ベイライツの親会社が経営するコンビニ・チェーンでも、「まいどっ」と叫んであんまんを頬ばる安田を全国CMに起用しているほどだ。
“港の灯り”神戸ベイライツ球団を保有する株式会社スポライは、「コンビニは、街のスポット・ライト。主役はあなたです!」のキャッチ・フレーズで、日本全国に業界第4位の6300店舗を展開している。いや、今や国内だけでなく、中国をはじめとする東アジア各国、さらには、コンビニエンス・ストアという業態を生んだ米国にまで逆出店している。
声援を浴びて安田がゆっくりと打席に向かう。今年で40歳になった安田は、移籍2年目。かつては本塁打王を獲得したこともあったスラッガーだった。しかし、膝の故障が長引き、世代交代を理由に戦力外通告を受けて、選手層の薄いベイライツに入団してきた。1年目は古傷を痛め引退かと噂されたが、今季は110試合ですでに35発。2位に大差をつけ、本塁打王争いのトップを独走している。
今年、安田以外の多くの打者は、昨年同様、低調なホームラン数に甘んじていた。その理由は、昨年(2011年)から公式試合に、低反発球いわゆる飛ばないボールが統一球として使用されるようになったからだと考えられている。
「何しろ統一球になりましてから、セリーグでは前の年に14人にいた三割打者が4人に減ってしまい、6チーム全体の本塁打数も863本から485本へと半分近くに激減しております。
これに反比例しまして、当然のことながら、投手の方は成績が上がりまして、防御率3・00以下の投手が前年の3人から13人に一気に増えています。
ところがところが、各バッターが苦戦をつづける中、安田選手の豪快な打撃はとどまるところを知りません」
ラジオをつけていたタクシー運転手であれば、アナウンサーがそうデータ紹介するのを耳にしたことだろう。
投手の沢田が慎重に捕手のサインをのぞく。打席内でせわしなく上下させていた安田のバットが狙いを定めたようにぴたりと止まる。セットポジションから、セオリーどおり外角低めを狙った変化球は、ほんの少しだけ高く浮いた。
左足を一歩踏み込んだ安田のアッパースイングが大きな軌道を描く。プロは、スイングを見れば、打球の行方がわかるという。投げ終えた沢田は、そのまま下を向いて、後ろを振り返らなかった。高々と舞い上がった白球は、そのまま右中間のいちばん深いところのフェンスを越え、ベイライツ・ファンで埋まるスタンドに飛び込んだ。36号スリーラン。4対2。
「さすがは、あんまんや」
「今日も、めっちゃ、うまいで」
興奮したファンが口々に叫ぶ。
打ちのめせ、あんまんパワーで、ホームラン!
ドーム球場の外野席では、安田の応援ソングの大合唱が繰り返される。「あん」「まん」と書いた2枚の応援ボードを高らかに掲げて喜ぶ家族連れのファンもいる。
その後もベイライツは攻撃の手をゆるめることなく、気落ちした沢田を一死二、三塁と攻め立てた。ここで打順は八番ショート飯谷裕三。守り専門でまったく打てない飯谷は自衛隊とからかわれている。その飯谷までがインコースの速球をレフトスタンド最前列に打ち込み、7対2とあっと言う間に試合を決めてしまった。
ベイライツのベンチは、優勝を決めたかのような盛り上がり方で、選手が次々、戻ってきた飯谷と笑顔でハイタッチを交わしている。ホームベース寄りのベンチ端に腰かけて、お祭り騒ぎを静かに眺めている男が監督だった。監督の名前は、玉原一郎。
ON引退後のジーニアスの四番として、三冠王2回。フリーエージェント宣言して、メジャーリーグの四番を務めた日本野球界の至宝。チャンプと呼ばれ、玉原が四番を打つチームは、幾たびも優勝してきた。
名選手必ずしも名監督ならずなのか。帰国後、ジーニアスの監督を4年間で退任した後、ベイライツの監督としては就任1年目の去年は最下位の苦杯をなめた。しかし、今季ようやく首位争いという好成績をあげている。
玉原監督は、大逆転した七回以降、連投つづきの抑えトリオを出すまでもなかった。先発した左のエース江口史隆に七回も任せると、八回九回は登板間隔が空いた控え投手を調整登板させる余裕を見せたのだ。
ジーニアスにすべて六回裏逆転勝ちの3連勝。まさにミラクル・シックスで、首位を奪い取った。
大歓声の中、あんまんがヒーローインタビューに呼ばれる。
「放送席、放送席。そして、満員のベイライツファンの皆さん。今日のヒーローは、逆転決勝ホームランの安田満選手です」
「まいどっ」
ファンがどっと笑った。地元アナウンサーは、ホームランの感想や手ごたえなど、決まりきったやりとりの後、お約束の質問をする。
「安田選手のパワーの源は、何ですか」
「スポライの甘いあんまんでーす」
期待どおりのコメントに観客がさらに沸いた。インタビューが終わると、選手全員でサインボールを応援スタンドに投げ入れるファンサービスを行う。その後は勝利の花火の時間だ。開閉式のベイライツ球場のドーム屋根はすでに開き終えていた。照明を落として薄暗くなったスタンドでは、ファンが一斉に球団オフィシャルグッズのペンライトをかざしている。
赤、青、黄色、緑。色とりどりのペンライトを、何万ものファンが手に持って揺らす。暗くなったプレーフィールドを取り囲んで、七色の光の絨毯が半円状に浮き上がる。球場専属DJがマイクで叫ぶ。
「コンビニは、街のスポットライト。主役はあなたです! それゆけ、スポライ! それゆけ、神戸ベイライツ! それでは皆さん、ご一緒に、カウントダウンしてくださーい。サン、ニィ、イチ、ライト・オン!」
ドーム球場の開口部のはるか上空で、打上げ花火が大輪を咲かせ、爆音を上げた。
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コンビニエンス・ストア・フランチャイズ・チェーン、株式会社スポライの本社ビル。昼食から戻った中島光男は、CEO会長室から呼び出しを受けた。中島は42歳にして、株式会社スポライ新規企画部の次長を務めている。と言えば聞こえはよいが、閑職である。
午前中の仕事内容は、カーナビ・システムのデータ提供会社に対し、新規出店したコンビニ店舗情報のアップデートを連絡する業務、午後は、来年のカレンダーに関し、各部署から上がってきた要望の取りまとめがある。部員の中には、カーナビ屋、カレンダー屋などと自嘲する者もいる。コンビニ会社の最先端の業務開発、例えば、全店舗に設置されているコンピュータ端末の新規機能拡充などは、新規事業本部という別の大部署が担当している。
コンビニ業界第4位の株式会社スポライは、コンビニ王と呼ばれる植田力が、文字どおり裸一貫で立ち上げ、拡大路線で巨大化してきた企業である。
コンビニ業界の大手3社、セブンスイベント(7E)、リーガルサニー(LS)、フラワーマーケット(FM)は、それぞれ大手スーパーの子会社として設立され、その流通システムや商品開発ノウハウを利用して、独自に発展してきた経緯がある。
これに対し、スポライは、チェーンの薬局店舗を経営していた植田が、単身米国に乗り込んで、フランチャイズ・チェーン開設の指導を受け、1975年(昭和50年)に、一から興した会社である。阪神淡路大震災後の1996年(平成8年)に、プロ野球球団買収に成功して神戸ベイライツとし、スポライの知名度アップと事業拡大に利用してきた。
この本社ビルは、横長の敷地上に、16階建ての威容を誇り、上階に行くほど段々畑上に床面積が小さくなる形状が似ていることから、戦艦ビルと呼ばれている。戦艦ビルこそは、上位のコンビニ企業やさまざまな法規制とひたすらに闘いつづけてきた植田の戦果、戦績の証しである。
コンビニは日本全国に4万6000店を超え、すでに飽和状態にあると言われ、現在、3つの大きな傾向がある。
1つは、母体であるスーパー産業の長期低迷もあって、主要コンビニ・チェーンが、大手商社の系列グループ下に入ったこと、2つ目は、それら大手チェーンが、今度は中小規模のチェーンを丸ごと吸収合併しつづけ寡頭競争となってきたこと、3つ目は、各チェーンが独自色を出そうとしたり新規分野への進出を図ろうとしていることである。
独立系のスポライでも、3年前、ついに、大手商社である光陵通商の資本参加を受け、同社から当時弱冠38歳の今中豪を新社長として迎え入れ、植田はCEO会長となった。
今中は、店舗内のコンピュータ端末によって、コンサートチケットや宿泊ホテルの予約、インターネット取引の支払い代行サービスなど、何でも手に入るワンストップ化を実現した。また、個人客向けに「個食」と言われる生鮮食品の少量販売をコンビニでも開始し、さらには、自然派志向ブランド店「ピュアスポライフ」の新設など、次々と新事業を成功させている。
必然的に、今中社長と同年代以上のプロパー社員の多くは、新規事業や経営中枢から外されていった。中島光男もそうした一人である。かつては、本社の企画開発部の課長や社長室勤務として、植田直属でスポライの事業戦略作りを担っていたこともある。
思い当たるふしはないなあ。
すぐに会長室に来るよう命じられた中島は、いぶかしんだ。植田はCEO会長と言っても、今や現場の実務の多くは、今中社長が取り仕切っている。まあ、いきなり解雇やこれ以上の左遷ということはないだろう。若干緊張しつつも、中島は腹をくくって、戦艦ビル最上階である16階の会長室へと出向いた。
会長室受付で名前を告げると、中島は広い来客用応接室に通された。長年植田に仕えてきた女性秘書は交代し、中島の知らない若い女性に代わっていた。あるいは、今中社長に近い人物を配し、植田の日常を報告させているのではないか、そんな邪推さえしてしまう。
この来客用応接室は、一従業員を招き入れる部屋ではない。東京湾に向かって大きく開いた窓一面に、夏の青空が広がっている。部屋の内側からは外がよく見えるが、窓に反射ガラスを使っているので、外部から望遠鏡で覗いても、室内の面談者を盗み見されることはないという。
それよりも、この会議室に入った来客が圧倒されるのは、壁一面に張られた巨大な地図である。東京、神奈川、千葉、埼玉までを1枚の紙に記した2メートル四方の地図には、先端に小さな玉がついたピンがびっしりと刺さっている。
ピンの位置は、スポライの出店場所である。やはり、主要な駅周辺や幹線道路沿いに刺さっているものが多く、首都圏の主要交通網が浮き上がって見える。
赤色の玉があるピンは会社が直営している店で、数は少ないが、基幹店という位置づけだ。それ以外は、フランチャイズ(FC)店舗で、そのうち店長自身が店舗の物件を所有するオーナー店には黄色のピン、店舗を所有しない経営希望者が、店長として割り当てられている店には青色のピンと区別されている。
コンビニエンスストアは、本部のフランチャイザーと加盟店であるフランチャイジーによって成り立っている。各FC店舗には大きく分けて2種類ある。1つは、元酒屋・小売店など物件所有者がコンビニ経営を行っているものであり、もう1つは、脱サラ組などの夫婦が一定の加盟料を支払って、コンビニ経営の研修を受けた後、空きのある店舗を借りて、経営者店長として配置されているものだ。
地図一面を埋め尽くした無数の点描は、まさに植田スポライの発展拡大そのものを意味している。植田は、来客に、地図の威勢を示すのが好きだった。
久しぶりに応接室に入った中島が感慨に浸っていると、会長室側のドアから、植田が入室してきた。
「おう、中島か、よく来た」
「CEO、ごぶさたしております」
CEOは、チーフ・エグゼクティブ・オフィサー、最高経営責任者の略で、植田は会長という肩書きよりも、米国風の呼び方を好んだ。自分で呼んでおいて、よく来たはないだろうと、中島は思わないでもなかったが、植田の前に出ると、ささいな異議も軽口も述べ立てることはできない。
中島にソファに座るよう促した植田は160センチにも及ばない小躯である。年齢もすでに72歳を迎え、かつては獅子のたてがみと評された頭髪も真っ白で薄くなっている。しかし、四角張った顔に何者にも従わぬと言いたげな鷲鼻、細いが強い力を持った目。その存在感に対面者は圧倒される。
一代で巨大チェーンを築き上げ、コンビニ王と呼ばれる植田力は、増やせ増やせと店舗数の増加を押し進めた。同業他社やマスメディアから、その名のとおり、力まかせの進軍ラッパと批判されると、売上げはすべてを解決すると言って、さらに店舗数と売上金額を伸ばすことで対抗してきた。
「さっそくだが、ネットのニュースは見たか」
さて、どのニュースだったろうか、中島は思案した。仕事上必須の東経流通新聞だけでなく、東京ローカルな話題が出ている地元紙の中央東都新聞にも目を通している。何かスポライかコンビニのニュースは載っていただろうか。
植田がネットを見たかというからには、朝刊に出ていない事件でも起きたか。新しもの好きの植田が、72歳になってノート型タブレット端末を使いこなし、インターネットのニュースにまでアンテナを張っているのは、さすがだ。
部下にクイック・アンサーを要求する植田の前で沈黙するのは許されないことだった。中島は体を固くした。
「仕事中に私用でネットをのぞくのは論外だが、昼休みにチェックくらいしておけ」
植田はそう言うと、記事をプリントアウトしたA4の紙を、中島の前に放り出した。
ベイライツ好調の影に、飛ぶボール使用疑惑!?
球場バイトがブログに記載か
刺激的な見出しが踊っている。
「CEO、どういうことですか」
「どうもこうも、書いてあることを読んでみい」
中島は目の前にあるA4紙を手に取った。
セリーグ首位に立った神戸ベイライツにとんでもない疑惑が持ち上がった。プロ野球の公式戦では、飛ばない低反発球(エムズ社製)を統一球として使用している。しかし、ベイライツでは、ホームゲームの自軍の攻撃のときだけ、飛ぶボールを使用しているというのだ。
疑惑の発端は、球場アルバイトと見られる者の個人ブログの昨夜の書き込みだ。
「今夜も、飛ぶボールの仕込み(ナイショ)。ばっちりホームランが出た(笑)。ナイス俺、Vサイン」
ブログの主は、これまでにも球場内部の練習場やベンチ裏の写真画像をアップしたり、ベイライツの内部情報を書き込んでおり、一部ファンの間で、ベイライツ・ドームの球場アルバイトではないかと話題になっていた。確かに、先週末のジーニアスとの3連戦では、すべて6回裏に突如打線が爆発し、逆転での3連勝を収めた。特に、ブログが書かれた昨夜は、あんまんこと安田満と守備の人飯谷裕三までが3ランホームランをかっとばしている。
去年最下位のベイライツの本塁打数は、144試合でわずかに54本。それが今季は111試合で、すでに倍以上の115本。しかも、そのうち7割の80本はホームゲームのものだ。安田の36本のうちホームでは24本、昨年まで本塁打がゼロだった飯谷に至っては5本すべてがホームの6回裏の一発だ。
そんなことが偶然に起こるだろうか。
ベイライツ6回裏の逆転劇は、ミラクル・シックスと呼ばれている。確かに、「負けている試合の6回になると、ひそかに飛ぶボールにすりかえられる」とか、「相手球団が使用球を持ち帰って調べたところ、高反発球だった」という噂話はひそかに聞こえていた。他球団のある投手は、6回裏に入って明らかに打球が飛ぶようになったと感じたことがあると証言する。
今回の球場バイトと思われる者のブログは、疑惑を裏付けたかたちだ。
このブログには、「よくぞ言った。もっと書け」という肯定派と「でたらめを言うな」という否定派、双方から昨夜だけで1000を超えるコメントが書き込まれた。ブログ記事はすでに削除され、ブログ主がブログサイトを退会したためか、ブログ全体が見られなくなってしまっている。
しかし、大手匿名掲示板「サイバーちゃん」には、ブログのコピーが貼り付けられ、ブログ主の素性探しや飛ぶボール疑惑の真偽をめぐって検証するなど、わずか数時間のうちに、圧倒的な数量の書き込みがなされて盛り上がる、いわゆる「祭り」状態となった。
試合球には、日本プロ野球機構の承認印が刻印されている。もし今回の疑惑が真実だとすると、球団ぐるみの不正であり、首位の資格なしと言わざるを得ない。ベイライツは、この重大疑惑になんと答えるのだろうか。今後の徹底した調査と真相解明が待たれる。(記事・小田原俊和)
驚き、疑問、当惑、これからどうなっていくのか、さまざまな思いがわき上がり、中島は動揺した。
「相当、ショックを受けたようやな」
人が困っている様子を面白がるような言い方をするのが、植田らしい。冷静さを取り戻した中島は率直な感想を口にした。
「本当のこととは信じられません。飛ぶボールに取り替えるなんて、簡単にできるものでしょうか」
「わしも、真実はわからん。しかし、火のないところに煙は立たんと言うしな。第一、こういう記事が出て、ネットでは大騒ぎになっているというではないか」
「それはそうですが、試合中は審判がボールを投手に渡します。自分の攻撃中だけ、審判が飛ぶボールをポケットから取り出すかはわかりませんし、相手チームの攻撃のときだって使われるのではないでしょうか」
野球好きの中島は、試合中を想像しながら反論した。主審は腰回りにボール用のポケット袋をつけており、通常は左右合わせて6球ほどを持って試合を進行し、ファウルボールの後や土で汚れたときに、新しいボールを投手に渡している。ポケットの中が空にならないよう、つねに補充するのだ。
「そもそも、ボールを変えただけで、急に打てるものでしょうか」
「わしは、野球のことはわからん」
「それで、神戸の球団事務所では、なんだと言っているんですか」
「久松は、事実無根だと言っている」
神戸ベイライツ球団社長の久松優のことである。2年前に、テーマパークの支配人という畑違いの分野から転職し、徹底したファンサービスと地域密着の営業活動で、今年は球団始まって以来の観客動員数を記録している。
久松が始めたいくつかのサービスのうち、特に有名なのが「商店街さん、いらっしゃい」だ。これは、チームの一軍選手が、県内の商店街を訪問し、各店舗の臨時店長として売上げを伸ばし、その代わりに、入場チケットをまとめ買いしてもらって、商店主や子どもたちに試合を観戦してもらうという人気企画だ。
本来、ベイライツの親会社であるコンビニ業は、個人商店にとって、自分の商圏を食い荒らすものとして嫌われてきた。しかし、久松は、「コンビニは専門店にはかないません。それに、野球を見るのに、職業は関係ありまへん」などと調子のよいことを言って、商店主の懐に飛び込むのがうまいと聞いている。
「事実無根なら、無視をしておく方が、騒ぎが収まるのではないでしょうか」
「それが、そうもいかんのだ。朝からマスコミの問い合わせも多く来ているし、JPBの事務局からは報告書を出せという指示がきた」
そう言うと、さすがに植田も腕組みをし、むすっと口を閉じた。JPBは日本プロ野球機構の略称だ。
「ブログ主というのは、本当に球場バイトなのですか」
「それは、まだわからん。球団と弁護士に調査確認を急がせているが、そう簡単ではないようだ」
たとえ、本物の球場バイトだとしても、球団からの身元照会に対し、ブログサイトを開設している運営会社が、自分から契約者の個人情報を明らかにすることは許されていない。プロバイダ賠償責任制限法という法律の要件を満たした場合に、一定の情報を得ることができるとされているが、正式な裁判手続まで必要とする場合が多い。
果たして、そこまでの時間的余裕があるだろうか。インターネットが広まった初期のころ、企業を中傷する書き込みへの対応も担当していた中島は、最近のネット社会の恐ろしさを知っていた。
人々が寝静まっている一夜のうちに盛り上がるのが、ネット社会の特徴だ。速報性という点で、裏取り取材と原稿締切時間、印刷・配達を要する大新聞の朝刊では太刀打ちができない。
即時的なニュースは、無数にコピーされて、個人のブログ、「つぶやいたー」、「フェイシャル・マガジン」、「ピクシーズ」などの巨大ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)をはじめ、あらゆるインターネット・サイト上に貼り付けられ、放射状に拡散していく。
ネット上に記載された情報が、厳密な意味で客観的根拠を検証されることはない。「こうなんだって」という伝聞がいくつも書き連ねられることで、いつしか「事実」として取り扱われていく。
「だって、みんなが書いていることだから」
根拠があるかと聞かれたら、こう答えるだろう。人は、自分が信じたいことを真実と認識していく。インターネット上という等身大の身体感覚を欠いた匿名性の仮想社会において、この傾向は強まりこそすれ、歯止めがかかることは少ないというのが体験から得た中島の認識だ。
「CEO、それで、私に何をしろとおっしゃりたいんですか」
「今すぐ、神戸に行って真実を調査し、直接報告を上げてくれ。わしの目、わしの耳となってくれ」
植田が今すぐと言えば、スポライの社員に他の選択肢はありえない。だが、中島には、なぜ自分を選んだのか、植田に直接、聞いてみたいと思った。本来であれば、会長室なり総務部なりが担当すべき案件である。まさか中島が野球好きと知って、あるいは、現在、閑職にあるから、ということはないだろう。
以前の中島であれば、遠慮なくトップの判断への疑義とも受け取られかねない質問をしたかも知れない。しかし、久しぶりの植田直々の業務命令を受け、気持ちの高揚を感じていることは事実だ。どうして自分が行くのか、うかつに質問をして、植田の気が変わっては困る。
「承知しました。最善を尽くします。神戸の久松社長と協力して調査いたします」
「ここだけの話だが、久松のことは、信用してはならん」
植田が、意外なことを言い出した。
「久松に質問しても、事実無根ですという返事しか返ってこない。しかし、わしは嫌な予感というか、何か見えない力が動いて、とりかえしのつかないことになるのではないかという危険を感じておる。わしは真実が知りたいのだ」
植田の直感の鋭さは、中島も信頼している。これまでのスポライは、怜悧で合理的な判断よりも、植田の情と直感的なセンスで、ビジネスの荒波を乗り切ってきたと言える。
最近でこそそういうことはなくなったが、コンビニの新規出店にあたって、物件の立地条件や広さと賃料に関する部下の報告だけでなく、実際に自分が足を運んで、長時間、周辺地域まで歩き回ることを常としていた。それも人や車の数、駅からの距離だけでなく、植田曰く、戦国武将のように、土地の薫りをかぎ、風の流れを肌で知り、その地域の地型を見るのだという。
中島はやはりもう一つ確認しておかねばならないと心を決めた。慎重に言葉を選んで質問する。
「調査の結果、事実無根とは言い切れない場合がありうるとお考えなのですか」
「それは、わからん」
「万々が一、今回の疑惑が真実であった場合、事はベイライツだけの問題ではなくなるかも知れません」
「それでもかまわん。今回のわしの希望は、ただひとつ」
植田の眼が鋭さを増す。
「チャンプ、玉原監督のことを最後まで守ってくれ」
(次回につづく)
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