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連載小説1回裏:震災下に「スポライは希望の灯り。営業できる店は開店せよ」

1回裏 2012年夏

滝沢 隆一郎

   3

 中島光男は11階にある自分のデスクに戻ると、やりかけのカレンダー業務について、後輩にフォローするよう依頼した。部長には、会長室から、すでに急な出張の連絡が行っていたようだ。どんな案件か話してくれよと目が言っていたが、さすがに明かせる話ではない。中島自身この後どうなるか想像もつかない。

 今すぐ神戸に行って真実を調査してくれと植田会長は言った。植田が今すぐと言えば、明日でもなければ、出張の身支度を整えに自宅に立ち寄ることも許されない。妻にも、新幹線に乗ってから、メールで知らせるほかない。

 品川駅に出てのぞみに乗れば、3時間弱で新神戸駅に到着する。月曜日の午後の車両はすいていた。中島は自分の座席番号を見つけると、窓際のシートに座った。

 植田は株式会社スポライの代表取締役CEOであると同時に、神戸ベイライツのオーナーでもある。その植田が、疑惑が真実だった場合でも、チャンプ、玉原一郎監督を守れ、それが自分の唯一の希望だと言った。中島はしっかりとそのことを自分の心に刻み込んだ。

 なぜ、玉原監督を守るのか。植田は何も言わなかった。中島も質問しなかった。いつか機会があれば、植田が話すだろう。

 これまで中島は、上司の指示に疑問や問題点があると思えば、理由を質問し再考を迫ったこともある。上司の判断にひとつひとつ理由をたずねていては、組織は動かない。しかし、会社にとって大きなリスクがあると思えば、だまって指示に従うのではなく、自己保身を考えず、正しいと思う意見を言う。それがサラリーマンとして会社を思う本来あるべき姿だとさえ思っていた。今もその考えは変わらない。

 ただし、今回の植田の希望は、疑念が生じるようなおかしなものではない。むしろ、中島は自分が興奮していることを感じずにはいられなかった。

 植田のためなら死んでもよい。以前のスポライ社員であれば、皆そういう思いで必死に働いてきた。実際、大型プロジェクトや新規の出店を任され、あまりの緊張と激務のために体調不良になる幹部社員も少なくなかった。今は閑職にあるとはいえ、久しぶりに植田直々の特命を受け、42歳になった自分が若手社員のころのように体の内から熱くなっていることに中島自身が驚いている。

 それにしても、また神戸か、と思う。

 神戸は、植田スポライにとって発祥の地というだけでなく、中島にとっても特別な街だ。東京大学経済学部を卒業して、入社初任の3年を過ごした土地である。

 就職活動中の中島は、最初からコンビニ業を志望していたわけではない。いやむしろ、当時、コンビニ会社を就職先候補として考えている同級生自体、自分も含め誰一人いなかった。他の多くの経済学部生同様、銀行や生損保など大手の人気企業を回っていた。バブル崩壊後と言っても、大企業への影響はまだ少なく、企業の方も、ゼミやサークルのOBがリクルーターと称して、学生に対し、連日連夜、寿司だステーキだと会社経費で酒食の歓待を行っていた時代だ。

 その後の就職氷河期と言われた時代や現在の就活世代にはありえないことだが、内定が決まると、他社から重複して内定をもらわせないために、大手企業が大学4年生の集団を、貸切状態のテーマパークで一日じゅう拘束してジェットコースター遊びに興じさせていた。

 都市銀行最大手の光陵銀行に内定が決まった中島は、決められた拘束日の夜、友人と好きなバンドのコンサートに行く約束をしていた。中島は、引率役の先輩社員に対し、もちろん自分はコンサートに行くのをあきらめるが、友人の分のチケットも持っているので彼に渡したいからと1時間ほどの退出を願い出た。

 しかし、先輩社員は、居丈高に「これからは、友人との約束よりも、勤務先である光陵銀行との約束の方を優先してもらう」と言って拒否した。

 それに対し、20年前の中島は、こう言った。

 「銀行との約束は、大事な約束です。しかし、その前にした小さな約束も、自分にとっては重要な約束です。小さな約束を守れない人間に、大きな約束を守ることはできません」

 貴様、内定を取り消すことになるぞと血相を変えて脅かす若い引率役を相手にせず、中島はテーマパークを飛び出した。

 採用活動終盤の時期に、就職先が白紙に戻った中島を受け入れる銀行や生損保はもはやなかった。そんなときに経済雑誌で見たのが、コンビニ店舗のフランチャイズ事業を行っているスポライ植田力の記事だった。

 日本にコンビニという業態が生まれたのは1971年(昭和46年)ころとされている。この年は中島が生まれた翌年だった。

 なんだ、自分よりも少ない年数しか歴史のない業種があるのか、面白そうだと興味を持ち、スポライ本社に入社を直訴したのだった。驚いたのは人事部長の方だ。何しろ当時のスポライには東大卒の新卒社員はいないから、どう扱ってよいかもわからない。もっとよい就職先が他にあるだろうからお引き取りを願えないかと丁重に言われたが、中島は何とか頼み込んで入社したのだ。

 入社前の3月、大阪・千里中央にある研修センターに放り込まれた。

 毎朝6時に起床し、全員でラジオ体操とトイレ掃除、午前中は、社内のコンビニ業務の授業、午後は製造工場からの配送作業、各店舗の体験入店、夜は指導担当社員を交えたテーマ別のディスカッションと休みなく特訓を受けた。

 中島は、センター長から、「君の採用は、植田社長が、東大を出てうちを入社希望するやつは、出来か素行がよほど悪くて他に行くところがないやつだろうから採ってやりなさいと言っていた」と聞かされ、赤面した。

 研修後、中島が配属されたのは、当時、関西方面の店舗を統轄していた神戸支社だった。

がれきの山になってしまった住宅の向こう側では火災が発生していた=1995年1月17日、神戸市長田区で
 入社2年目の冬。1995年(平成7年)1月17日早朝。阪神淡路大震災が神戸の街を直撃した。

 神戸市須磨区にある社員寮で、ベッドの真下から強烈な衝撃を受け、体ごと浮き上がって、飛び起きた。

 電車も動いていない。中島は寮生と相談し、とにかく中央区三宮にある神戸支社まで歩いていくことにした。途中いたるところで白煙が上がり、木造家屋の1階部分はぺしゃんこに倒壊していた。人々は着の身着のまま、行くあてもなく通りにあふれ出ていた。

 昼過ぎ、どうにか神戸市の中心街である三宮までたどりつくと、駅前のビルは5階のワンフロアだけがだるま落としのように完全に崩落していた。幸い築浅の神戸支社の建物は無事であった。しかし、室内はロッカーが倒れ、机の上の物が床に散乱していた。もちろん、電話も通じない。

 結局何の仕事にもならず、翌日は社員寮でテレビのニュースを見ながら過ごした。すると、災害時の緊急電話を借りて東京本社に連絡を取っていた社員から、明日の午前10時、商品を一時保管している支社近くの港湾倉庫に、来られる社員は全員出て来るようにとの報告があった。

 「こんな壊滅状態のときに、東京はいったい何を考えてるんや」

 「家族の安否がわからない者かておるのに」

 先輩社員たちが、極限状態でストレスがたまった、その場の気持ちを代弁した。

 「それなら、いちばん下の私が行って様子を見てきます」

 中島がそう申し出ると、「あほ。お前ばっかり、ええかっこうすな。みな行くで」とリーダー格の石井が大声を出した。顔は笑っている。当時は、社員の中に競争意識よりも、一体感や仲間意識の方が目に見えて存在していた。

 翌朝、一同はいつも以上に早起きして、がれきと化した街並みを文字どおり乗り越えるようにして、港湾倉庫にたどりついた。

 「なんや、誰もおらんやないか」

 そのときであった。

 空気を振動させるモーター音がかすかに聞こえ、海がある南側の上空にヘリコプターが姿を表した。羽根音が大きくなるに連れ、ヘリコプターの数が3機、4機と増える。ビデオで見た映画「地獄の黙示録」のワンシーンみたいだなと中島は思った。

 轟音とともにヘリコプターが次々と着陸する。輸送用のコンテナのような大きな機体だった。後部の扉が開くと、青いケースに詰め込まれたおにぎり、パン、非常食などの食料品が下ろされていく。ペットボトルの水も大量にある。

 自然と歓喜にわく社員たちから中島が視線を移すと、ヘリコプターから青いジャンパーを着た男が一人、ゆっくり降り立った。

 スポライ社長の植田力だった。

 そのころはまだ50代半ばで、獅子のたて髪のように後ろに髪をなでつけ、周囲を圧倒する迫力を備えていた。入社式で遠目に見たことはあったが、間近で見るのは初めてだった。

 「おい、何をぼけっとしとるんや。みなで手分けして、店舗に運んで売りまくれ」

 「それが、各店とも棚まで崩壊してますし、第一、運ぶ車がありません」

 石井が涙声で答える。

 「警察でもお役所でも、わしが責任を取るから、さっさと運べ」

 何をすればよいかわからない社員たちを、植田が叱りとばす。

 「店が壊れておったら、店の前で売れ。君ら、これ食って助かる命があるんやぞ。法律の決まりと人の生命と、どっちが大事なんや」

 われに返った社員たちが分担を決め、倉庫業者の車両を使って水や食料を次々と運び出していく。仁王立ちした植田は満足そうにうなずきながらまくし立てた。

 「スポライは、希望の灯りだ。営業できる店はできる限り開店せよ。電気が通ってる店は夜通し、電光看板をともせ。絶対に消してはならん。不安な住民の心に希望の灯りをともしつづけるんや」

 中島の脳裏には、あのときの植田の雄姿が今も鮮明に残っている。

 大規模な震災に、政府や自治体が何も決められず、対応が後手後手に回る中、植田スポライは、その後も神戸の市民に水と食料を運びつづけた。

 食品は店に届いた瞬間に売り切れた。人々は何より、食べ物を欲していた。いやそうではなく、新しい食品を届けにくる企業があることで、被災した自分たちが見捨てられていないことを実感したかったのかも知れない。

 ライバルの大手コンビニ会社は、スポライは不幸な震災も自分の商売にむすびつけるのか、ただで配ったらどうかと陰口をたたいた。しかし、植田は、ただで物を配るのは、行政や善意のボランティアのやること、商人はお客様にいい商品を買ってもらう、当たり前のことをやってるだけやと言って、おかまいなしだった。もっとも、100円のおにぎりを売るために、ヘリコプターや再開された海上輸送を惜しげもなく使うのだ。はじめから、原価割れ、採算度外視だった。

 「ふざけるな、文句があるなら、同じことをやってみろ」

 店舗協力にかり出された中島は、そう心の中で叫びながら、家を失い家族を失った人々におにぎりを売りつづけた。

   4

 新幹線は、富士山を過ぎたところだった。赤黒い岩肌が午後の日差しを受け止めている。中島は冠雪した富士山が好きだったが、真夏の富士は一層荒々しく雄大に見えた。赤富士を描いた葛飾北斎の気持ちがわかる気がする。

 あの震災の日から17年、中島は走り続ける植田の背中を追うようにひたすら働いてきた。ちょうど時代がコンビニという業態を必要とし、出店ラッシュ、新商品ブームと重なった。都市でも郊外でも、豊かになった人々は、日常消費に手軽さ、買いやすさを求め、24時間営業のコンビニ店舗は、深夜族で売上げを伸ばした。

 コンビニという業態が初めて日本に生まれたのは、1971年(昭和46年)ころとされる。黎明期には、米国チェーン店のフランチャイズ方式をそのまま輸入していたと言ってもよい。

 業界最大手セブンスイベント(7E)が、朝7時から午後11時まで開店していることをテレビCMで宣伝していた。つまり、そのころは、朝早くから夜中遅くまで、営業し続けている店がなかったということだ。商店街の雑貨商店や食品店は、家族で経営し、1階が店舗、2階が住居という形態が多かった。必然的に、夕食時間以降、早めに店仕舞いすることになる。

 コンビニの歴史は、法規制との戦いと新サービスの歴史でもある。

 7Eを追うように、コンビニ・フランチャイズ事業に進出したスポライは、1980年に全店24時間営業に乗り出したほか、元々酒屋等に限られていた酒やたばこの全店での販売、医薬部外品の販売に挑んできた。

 薬局チェーン店経営から身を起こした植田は、薬剤師が常駐しないというだけで、どうしてコンビニで市販の風邪薬や頭痛薬を売ってはいけないのか、大型スーパーや薬局チェーン店だって、名義借りだけで薬剤師が常駐していない店ばかりだと政府に正面から論争を挑んだ。テレビCMを流している風邪薬、胃腸薬、肩こり湿布などは店頭で専門的な使用方法を注意するわけではないという理屈だ。薬剤師資格を持つ者を常勤の店長にするから、そのコンビニだけでも市販薬を販売できる許可をせよと無手勝流の主張を行ったこともある。しかし、コンビニでの市販薬販売解禁はなかなか実現せず、最近の薬事法改正によって登録販売員制度ができた結果、ようやく一部の店舗で販売できるようになったのが現状だ。

 7Eは送金と預金引き出し専門で手数料を稼ぐ銀行業に進出したし、リーガルサニー(LS)ではコンピュータの端末一つで、コンサートチケットの購入だけでなく、さまざまな他社サービスの代金支払まで行える。もちろん、スポライでも後追いとはいえ、それらの機能を有する役務提供コンピュータ・システム、「スポライ・タッチ」とスポライ・カードという決済システムを開発している。

 1993年(平成5年)に入社した中島は神戸支社を振り出しに、東京本社でFC事業部、仙台支店で地域マネージャー、本社に戻って企画開発部、関西営業本部、本社社長室、IT事業部などに配属された。2、3年おきに本社と地方転勤を繰り返しつつ、社内のさまざまな部署の経験を積まされた。東大卒プロパー社員として幹部候補生の英才教育を受けたと言ってもよいだろう。

 本社の企画開発部に呼ばれたのは、神戸時代の上司である石井の引きがあったためだが、そこで植田直属の企画を担当し、後に本社社長室で、植田に直接仕えたのだ。

 中島は、それまでのPOSシステムに全面的に頼った全国一律の販売戦略を見直し、各地域、各店舗の実情に合わせた販売戦略を重視し、裁量権を与えるようにした。

 POSシステムとは、ポイント・オブ・セールの略で、販売時点情報管理と訳される。言うまでもなく、個々の商品単位で販売個数から売れ筋情報まで、コンピュータ上で集約できるしくみである。スポライでは、購入者の性別・年齢層、当日の天気などもデータ収集している。

 しかし、安易にPOSに頼りすぎると、データ上は売れるはずの商品が売れないということが起きる。新商品の発売当初の情報を分析し、販売戦略を決めている間に商品自体の人気が落ちてしまうこともある。

 また、POSは、数字上のデータにはなっても、実際の販売実態や問題点が明らかになるわけではない。例えば、1500円前後とコンビニでは高額商品の特製うなぎ弁当が各店舗の注文数に比べて、店舗販売では大きなヒットにつながらないことがあった。顧客のニーズ把握を間違えたと言えばそれまでだが、実際には、本部のイチ押し商品ということで、一部のスーパーバイザー(SV)がなるべく多めに注文するよう担当店舗に指導していたことが判明したこともあった。SVは地域店を担当し販売方法を指導するスポライの社員の呼称である。

 中島は、POSシステムからオートマティックに販売戦略を決めるのではなく、自分の頭で考えた販売戦略を事後的に検証するツールという位置づけに変えたのだった。

 すでに多くの企業で採用されているPDCAサイクルをコンビニにも取り入れたのである。プラン(計画)、ドゥ(実行)、チェック(検証)、アクト(改善)の4段階を繰り返すことで業務を継続的に改善させる手法として知られている。

 しかし、現在の中島は今中社長の新体制の中、左遷と言ってよい新規企画部に配置転換されている。久々に植田直々の特命を受け、名誉挽回の機会となるのを期待しないわけではない。
のぞみは新大阪駅を出てしばらくすると六甲トンネルに入る。中島はメールで出張を告げておいた妻からの返信メールに気づいた。

 「ミツオ君。出張お疲れ様です。家のことは気にしないで、衣類とか必要なものがあれば、連絡ください。お仕事うまくいって帰って来るの待ってるね。明るく、笑顔でがんばれ。さゆり♡ 」

 仙台支店の地域マネージャー時代に、担当していたコンビニ店舗オーナーの長女で、経営指導をしているうちに、自然に仲よくなって結ばれた。

 父親がファンだった人気女優の名前をつけたので、同級生に同じ名前が多く、交際当初、さゆりさんと呼ばれるのを嫌がっていたが、一生、ミツオ君と呼んでいいなら、結婚してもいいわと言われた。

 中島はよくわからなかったが、それ以来、妻からミツオ君と呼ばれている。妻の方は、太陽光発電のテレビCMを見ながら、同じ名前で素敵でしょなどと悦に入っていた。あっと言う間に結婚10年か。転勤族の自分によくついてきてくれたと思う。一人娘は小学校2年生だ。

 トンネルの出口にある新神戸駅の到着アナウンスが聞こえてきた。難題を前にした中島は現実に引き戻された。さて、どうなるか。中島は車窓に映る自分の思案顔を見ながら、ハートの絵文字つきで明るく笑顔でがんばれと書いてきた妻を思い出し自然と微笑んだ。(次回につづく