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15歳の記念の贈り物 変わりつつある中国

森脇 章

15歳の記念の贈り物

アンダーソン・毛利・友常法律事務所  
弁護士 森脇 章

森脇 章(もりわき・あきら)
 1992年3月、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。司法研修所(47期)を経て95年4月に弁護士登録(第二東京弁護士会)。1998年に中国にわたり、以後2007年に至るまで北京に居住。2013年9月より、上海オフィス首席代表。中国業務を主領域としつつ、アジアの諸法域の直接投資・M&Aなどを担当。2009年から、中国人民大学法学院の客員教授として、中国の学生に中国語で講義をする。
 今、飛行機の中でこの文章を書いている。上海から東京に向かうCA157便だ。

 今年9月に、私の所属するアンダーソン・毛利・友常法律事務所は、上海オフィスをオープンさせた。私は、そこの首席代表に就任した。日本と中国を往復する生活がまた本格化した。

 海外拠点の所長(ないし首席代表)になるのは2度目だ。前回は、2002年、今から10年以上も前で、北京オフィスの首席代表となった。当時は、旧アンダーソン・毛利法律事務所の唯一の海外拠点であった。この10余年で何が変わったか。

 ① 私が変わった
 10余年前の私は若かった。他の業界を見回しても、私ほど若い首席代表はいなかったのではないかと思われる。北京と東京を往復する日々が続いたが、毎回空港の重量検査で引っかかるような重たい荷物(書類や書籍)を持ちながら移動していた。移動中も、飛行機の座席に着席するや、書類を取り出し、効率が悪くても良くても、とにかく仕事をした。自分で取ってきた仕事、先輩から頼まれた仕事、すべて自分で端から端までやらなければならなかった。ニュースレターの配信、という当時は事務所の中で誰もやったことのなかったことも企画して行った。月末になると、北京オフィスの職員に給料を払い、会計のチェックを行った。ちなみに給料はすべて手渡しであった。

 ② 陣容が変わった
 実は、この北京オフィス、2000年にちょっとしたクーデターを経験している。当時、平駐在員だった私と、所長の運転手から一般職員に抜擢された男性事務員の二人を残して、所長以下すべての弁護士、スタッフが、他の事務所にまとめて移籍してしまったのである。その復興の役目を仰せつかった(というか押し付けられた)のが私であった。だから、部下と呼べるスタッフは、窮余の策で雇ったアルバイトの学生数名程度であった(それ故、上記のとおり、すべての仕事を殆ど端から端まで自分でやらねばならなかったのである)。
 スタッフも定着せずころころ変わる時期がしばらく続いたが、少しずつ安定し、日本のオフィスからも日本の弁護士の留学生や研修生を迎えるようになり、徐々に人材が安定したのが2003年頃であろうか。高いクオリティのプロダクトを安定的に作成してくれるスタッフがいることが如何に大切か、その真のありがたみは、そのようなスタッフが既に定着した後に中国業務を始めた同僚には分からないかもしれない。

 ③ 中国の法制度が変わった
 まだ、主要な法律が未制定の時代であった。物権法(2007年施行)もない、主として国有企業を対象として作られた旧会社法に対する大改正(2006年施行)もまだ、労働契約法(2008年施行)も独禁法(2008年施行)も不法行為法(2010年施行)もなかった。また、外資参入規制も相当厳しかった。日本から進出する場合には、まず単独100%出資で進出することができるのか合弁でなければ進出できないのかを調べることから始める、というのが常識であった。

 特に外資による販売業への進出が基本的に禁止されていて、大手メーカーなどが中国の複数の工場で製造される商品を一つの販売会社を通じて販売する、ということが基本的にはできなかった。その例外の一つが、外高橋保税区を中心とする保税区取引であった。

 保税区は、元来、未通関貨物として関税を課すことなく貨物を引き揚げることができる場所であり、貿易の中継地として用いられたり、原材料を外国から調達して一定の加工を施した後に第三国に販売するような場合に用いられたりするのが通常であろうが、これらの保税区では、特例的に、貿易会社に国内販売会社としての機能が与えられていたのである。当時は、多くの日本企業がこぞって外高橋保税区を中心とする保税区を本店所在地とする貿易会社を設立し、国内販売会社として活用していた。

 しかし、その後外資参入規制は徐々に緩和され、2004年には、いわゆる「8号令」と呼ばれる法令が公布され、外資による販売会社が解禁された。当初は多少の混乱もあったものの、これが実務的に定着すると、当然のことながら、「敢えて保税区に販売会社を設立する意義はない」と考える企業が増え、最近ではかつて設立した外高橋保税区の会社をたたみたいという企業も増えつつあった。

 この外高橋保税区を中心とする保税区を活性化する画期的な試みが、この10月から始まった。「中国(上海)自由貿易試験区」という構想だ。この構想は、非常に斬新なアイデアを含んでいる。

  1.  金融取引の大幅な自由化: 試験区は外国銀行の支店を誘致しようとしている。金利や外国為替取引のより一層の自由化などを行うことが予定されている。試験区内に設立された会社は、そのように緩和された条件の下で提供される銀行サービスを受けることができるようになるとされる。
  2.  会社設立の準則主義化: 中国では、外資系の会社の設立は、基本的には総認可制である。即ち、どんなに小さな会社であっても、当局(商務部門と呼ばれる)の設立認可が必要とされる。これを、試験区内に設立する会社にあっては、(ネガティブリストに掲記された業種を除き)すべて準則主義化してしまった。したがって、書類上体裁が整っていれば、フィージビリティなど実質的な事業内容の審査等を経ることなく、会社の設立が認められることとなる。準則主義は日本では当たり前だし、中国でも国内資本で設立される会社の場合にはこの準則主義が採られている。中国は、WTO加盟時の内国民待遇原則について、参入「後」の内国民待遇を保証するとして、外資系企業にのみ認可制を適用する立場を堅持してきたのである。なお、試験区の説明によれば、これまで平均29営業日かかっていた手続きが4営業日で済むようになるという。
  3.  払い込み済み資本の監督緩和: 会社法では、原則として登録資本の20%以上を当初払い込み、残りも2年以内には払い込むことを要求されているが、この会社法の規定を試験区の会社には適用しないこととし、自治と公示による管理に委ねることとした。また、払い込み後に行われていた会計士等による出資検査の手続きも不要とした。
  4.  規制業種への門戸開放: 金融業、旅行業、ゲーム業界その他現在も外資参入規制が厳しい業界について、特例的に門戸を開いている。どの業種がどの程度開かれるのかは、現行の産業始動目録と試験区のネガティブリストをつき合わせて検討する他、今後公表される法令、通達や実務の動向に注視して判断する必要があるが、一定の規制業界では、既に進出競争が始まっている。

 さて、閑話休題。私、上海オフィスの首席代表に着任するにあたり、何か起爆剤がほしいとかねてから思っていた。日中間の政治・外交における関係が冷え、労働者の賃金をはじめとするコストの増加で中国以外のアジア・新興国への進出が加速しているご時勢である。大規模な合弁プロジェクトのドキュメンテーションや交渉などをしたり、対中M&Aをやったり、独禁法の問題を扱ったり、企業のコンプライアンスマニュアルを作ったり、とこれまでの業務を効率的に処理することは勿論必要であるが、何か、新しい話題を提供したいと思っていた。その矢先に、この試験区構想が始動したのである。この構想により、日中間の経済交流が更に活性化すれば、私の活躍の場も増えるし、上海オフィスの首席代表に就いた甲斐があったということにもなる。

 私が中国業務を決めて北京に居を移したのは1998年、それからちょうど15年である。中国業務を扱う弁護士森脇章は、今年で15歳になるわけだ。試験区構想は、15歳の記念に天から贈られた贈り物だと思って、今真剣に取り組んでいる。