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連載小説4回表:調査委員会初会合で議論の行方は…

4回表 調査委員会

滝沢 隆一郎

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 球団事務所4階の会議室、今年のスローガン「主役をめざせ!」と大きく筆書きされたポスターが貼られている。昨夜の大敗から一夜明けて、午後1時から調査委員会の第1回会合が開かれる。中島は疑念は胸にしまい、木村室長らと報告資料づくり等の職務に集中した。今日の木村亜矢子は紺色スーツの上下で地味な印象を与える。目立たず黒衣に徹する気持ちの表れと受け取った。

 議論の前提となる基礎資料は主観を交えずなるべく正確を期した。その観点から、岩丸弁護士が作成した聞き取りメモも補充する。この点が不正確であると、議論の内容や結論に影響が出る。逆に言えば、基礎資料にバイアスをかけることで結論を自分が望む方向へ誘導しようとする会議開催者や担当者もいないわけではない。

 「本日ご出席の委員の先生は、わたくしの正面にジャーナリストの鳥谷誠行先生、お隣がプラネッツOBの梨本信三元監督、近畿理工大学の研究所勤務でボールの物理特性にも詳しい松野篤彦様、鳥谷先生の隣に弊社代表取締役社長久松優、そのお隣が当社の顧問弁護士の岩丸鉄郎先生、今回の委員会の事務局長でスポライ本社新規企画部の中島光男です。
 なお、皆様個別にお諮りした上で、鳥谷先生には調査委員長をお願いし、ご快諾いただきました。申し遅れましたが、わたくし今回、事務局を務めさせていただきます社長室長の木村亜矢子と申します。至らぬ点が多々あると存じますが、皆様よろしくお願い申し上げます」

 結婚式の司会者であれば拍手を受けるそつない進行ぶりだ。木村亜矢子の声は細めのハイトーンなのに落ち着きが感じられる。久松社長がにやけた顔でうなずいている。その久松が冒頭あいさつに立った。

 「委員の皆様ご多忙のところ、急なお願いにもかかわらず、調査委員をお引き受けいただき、厚く御礼申し上げます。先日の飛ぶボール疑惑の報道ですが、球団としてはまったく事実無根と考えております。しかし、球団が調査を行って結果を発表したところで、ネット世論やマスコミはなかなか納得しまへんでしょ。そこで、人格識見ともに優れた先生方にお集まりいただき、隅から隅までご調査、ご審議いただいたありのままの結果をご報告いただきたいと存じます。ベイライツの未来は皆様のご調査にかかっていると申しても過言ではありますまい。社長のわっしが同席して、調査委員会の議論に影響を与えてはいかんと、きつう叱られておりますので、お邪魔もんはこれにて退室とさせていただきます。それではひとつ、よろしうお願いいたします」

 言い終えると久松は一礼して退室した。今のはひどいなと中島は思った。ふざけた言い方で厳粛な雰囲気がぶち壊しだ。何より、これでは最初から事実なしとの結論ありきの出来レースをしろと言っているようなものではないか。各委員の間から苦笑いがもれる。

 「久松さんらしい言い方だが、まあ、われわれはしっかり調査しましょうや。それでは、鳥谷委員長、進行をお願いします」

 岩丸弁護士がその場をとりなした。岩丸は、検察官出身の弁護士が加わるまでは参加ということになっている。会社の顧問とはいえ法律家として職責を果たしてもらうしかないと中島も了承した。

 「鳥谷です。お前がいちばん年寄りだから委員長をせよということで、進行係ならとお引き受けいたしました。協議の際はお互い対等な立場ということで話し合いたいと思います。どうかよろしくお願いします」

 鳥谷が頭を下げると、他の委員も黙礼で応じた。鳥谷は比較的穏健な社会常識を反映した意見を述べる傾向にある。まずは穏当な人選だろうと中島は思う。

 「それでは、さっそく始めましょう。皆様のお手元に、これまでの経緯をまとめた時系列表、問題のインターネット記事やブログのコピー、玉原監督や一部選手の聞き取り書き、いわゆる低反発球と呼ばれる統一球関係の資料をお配りいたしました。自己紹介を兼ねまして、感想や意見などを自由にご発言いただきたいと思います。それでは、聞き取りに立ち会われた岩丸先生からどうぞ」

 「弁護士の岩丸です。野球は素人です。私の方では球団から依頼を受けて、ブログを書いたアルバイトらしき人の身元を、ブログの運営会社に問い合わせ中です。ただ、すでにブログが消されていることと、個人情報ということで、必ず身元が判明するか、どのくらい時間がかかるか、裁判をやらなければならないとなると、それなりに時間がかかってしまうと思います」

 「つづいて梨本監督、プロ野球経験者のお立場から見て、今回の飛ぶボール疑惑は、どのように思われますか」

 「梨本です。私、最初に聞いたときは、まさか、と正直びっくりしました。普通に考えたら、自分の攻撃のときだけボールを変えるなんてできませんし、ボールを変えたからといって、急にホームランが出るわけではないと思うんです。実際、調査結果がどうなるかはわかりませんけど」

 ホームランを打てるかは疑問だが、ボールを変えることがまったくできないわけではないということを中島は知ってしまった。ただし、それは球団ぐるみか球団関係者が積極的に関与している場合だ。確証もなく安易に口にできないと中島は再認識した。

 「なるほど。確かに、ボールは審判の人がポケットに持ってますものね。松野さん、実際ボールの種類によって、飛ぶとか飛ばないとか、大きな違いがあるものなんですか」

 「はい。お手元に資料をお出ししましたが、最初に簡単に、野球のボールの構造を説明させていただきます。中心部にコルク芯があることはご存じの方もいると思いますが、これをゴム素材で包んでいます。その外側に糸を巻き付けて上から二枚の牛革をかぶせて縫い合わせます。低反発球というのは、このゴム素材に低反発ゴムを使用しています。
 ボールの縫い目は108個あります。今使われている統一球は、従来品と比べ、縫い目の糸の長さを7ミリから8ミリに広げ、縫い目の高さを1.1ミリから0.9ミリに低くしてあります。これは国際試合の使用球の感触に近づけたのだそうです。
 さて、反発力テストの基準として反発係数という言葉を使いますが、時速270キロ時における反発係数が0.41から0.44の範囲に入ると合格となります。この時速270キロというのは、投手が投げたボールと打者のバットがぶつかる際の速度と理解ください。飛ばないボールというのは、低い方の0.41に近いボールを意味します」

 研究者である松野は、さすがに冷静な口調で説明した。他の委員も、わからないなりに何とか理解しようと聞き入っている。

 「時速270キロは、秒速に直すと75メートル、反発係数0.41ということは秒速75メートルのボールが鉄板にぶつかって秒速30.75メートルではねかえるということです。これが0.44になると秒速33メートルではねかえります。実際のプレーで、どれほどホームラン数に差が出るかはわかりませんが、物理的には秒速2メートル以上の違いというのは大きなものだと思います。
 別の大学の研究発表ですが、飛ばない統一球と去年までのボールとでホームランの飛翔軌道を計算したところ、飛距離で2.0メートルの差が出たというデータもあります。フェンス付近で飛距離2メートルの差というのはホームラン数に影響する数値だと思います」

 2メートルということは、低反発球なら外野フェンスぎりぎりで捕球されてアウトになる打球がホームランになるということだ。投手の方はたまったものではないが、攻撃する側にとっては、飛ぶボールを使う動機に十分なりうる。

 「2メートルですか。計算を含め、素人にはなかなかわかりませんが、松野さん、またいろいろ教えてください」

 「わかりました」

 「それでは、スポライの中島さんも一言どうぞ」

 「中島でございます。私は事務局という立場ですので、なるべくコメントは差し控えるようにいたします。しかし、何か必要な調査がございましたら、何なりとご指示ください。また、植田力オーナーからも徹底的に調査して真相を明らかにするようにと申しつかっております」

 中島としては植田の名前を出して真相究明を強調し、先ほどの久松発言を薄めておきたいところだ。立場上コメントは控えめにすると言ったが、もちろん調査は積極的に行うつもりだ。

 「それでは、次はどういう調査の段取りがよいですか。岩丸先生」

 「やはり事実を認定するためには、確たる証拠が必要です。ネットの記事やブログ程度ではまったく根拠になりませんし、昨日、中島さんと木村さんが実際の試合球の準備について調査報告してくれましたが、おかしなところはなかったと聞いています」

 鳥谷に聞かれて、岩丸弁護士が答えた。積極性があまり感じられず、鳥谷は困った表情で中島の方に顔を向けた。

 「中島さん、確かこの後もう一度、時間が可能な委員と一緒に、球場を見ることになっていましたね」

 「はい、木村室長に、そのように手配してもらっております」

 「横から済みません。ただ、どうでしょうか。あまりぞろぞろと大人数で現場調査となると、そのことをマスコミに書かれたりしませんかね」

 梨本が口をはさんだ。

 「今日か明日中には、本調査委員会の立ち上げを記者発表する予定ですから、ある程度の報道はやむをえないのではないかと思います」

 中島が反論した。

 「ただ、現場の選手は動揺すると思います。もちろん、さらなる現場調査が不要と言っているわけではありません。影響を避けて、試合のない日に行うとか」

 選手のことを思ってという梨本の意見にも一理ある。

 「それでは、こうしたらどうでしょうか。失礼ですが、マスコミに顔が知られていない岩丸先生と中島さんとで現場を確認し報告書にまとめてもらう。他の委員を含めた全員での現場調査は、その内容を見て試合のない日に行うということで」

 「私は異存ありません」

 鳥谷の提案に梨本が賛成した以上、最初からもめるわけにもいかない。

 「岩丸です。私この後、どうしても事務所に戻らないかんのですわ。ボールということなら松野さんの方が専門でしょう」

 「私はもちろんかまわないんですが、実は私は以前、別のスポーツ用品メーカーに勤務していまして、元他社の人間がうろうろしていると、エムズ社さんがどう思うか」

 委員同士で分担を押しつけあっているように見え、なかなか調査方法が決まらないことに中島はいらだった。結局のところ、ほとんど事務局で下調査するしかないということか。しかし、警察と違って強制力のない調査体として一定の限界もあるだろう。

 その後、会議は、これまでの事実関係を確認する質問がいくつか出て、各人の感想も言い終えたという雰囲気になった。

 「鳥谷先生、いっそのこと、インターネット記事を書いた小田原という記者に直接当たって事実関係やどのような証拠があるか聞いてみてはどうでしょうか」

 「中島さん、それは私も考えていたところです」

 「ぜひよろしくお願いします。方法については事務局にご相談ください」

 「ありがとうございます。いろいろと貴重なお話しが出ましたが、初回の本日は皆様お忙しい中、急遽お集まりいただいたということで、このあたりで委員会を終わりにしたいと思います。私としては、ファンあってのプロ野球、ファンのためのプロ野球という視点を忘れずに、この調査を進めていきたいと思います」

 鳥谷委員長の締めの言葉があり、次回会議の日程を1週間後と決めて、調査委員会は終了した。

    2

 細く長い通路を通って、5段ほどある小さな階段を上がり、開いたゲートから右足を踏み出す。人工芝の柔らかい感触は、深緑色のじゅうたんのようだ。まばゆい照明。大歓声が今にも聞こえてきそうな錯覚に陥る。

 一歩グラウンドに入ると、一般人の中島光男でさえ、体内にアドレンリンが出て興奮する。気持ちはお気に入りの青いグローブをはめた野球少年の日に戻っている。それは試合開始前の空間であっても同じことだ。カクテル光線は試合中よりもかなり暗いし、もちろん、まだ観客が入場していないスタンドから歓声が聞こえるはずはない。

 中島の目の前では、ホームチームの神戸ベイライツが全体練習をしている。本塁付近には特打ち用の打撃ケージが設けられ、若手の主力打者たちが打撃投手相手にフリー・バッティングをしている。ケージの後ろには、玉原監督が打撃コーチと並んで見ているが、ずっと無言だ。遠くの外野手に向かって、ノッカーの守備コーチが距離を測ったようなフライを高々と打ち上げる。反対側の一角では、投手陣がまとまってストレッチを行ったり、軽いランニングをしている。中島は見ていて、よく選手にボールが当たらないものだと思う。

 中島は一塁側ベンチのホーム寄りの場所に立った。主審に試合球を補充するボールボーイのパイプイスが置かれるあたりだ。主審がボールを受け取っていた昨夜の光景を頭の中で再現してみる。スーツ姿の自分に、選手たちが敵意をこめた視線を送ってきたように感じたのは、気のせいだろうか。

 ベイライツの試合前練習は、打撃用のケージが一旦隅にやられ、内野手へのノックへと移っていた。コーチが左右にノックしたボールをていねいに拾い上げ、一塁手に送球する。守備のうまい選手の場合、ボールを追って捕るのではなく、ボールの方からグローブに吸い込まれていくように見える。内野手の見せ場はそれだけではない。打球を捕ってから少ないステップで一塁に送球する。手首のスナップを利かせて投じられたボールは地球の重力など存在しないかのように水平軌道を描き最後にわずかに高度を下げて一塁手のミットに収まる。

 軽快な動きと強肩で目立っているショートは、中島が事情を聞いた飯谷裕三だった。守備専門の人と言われながら、それでプロの飯を食ってこれたのもうなずける。ただひたすらに白球に集中し、自分の務めに徹する姿は修行僧に似たすごみさえ感じさせる。

 ダブルプレーの連携練習へと移った。内野のポジションで言えば、5-4-3、6-4-3、4-6-3、3-6-3。高級外車の型番かオーディオの製品番号のような数字の繰り返し。決まった動きのリズムを身体に記憶させていく。4つのポジションの内野手が1つの小さなボールを大事に受け渡しする精密なオートメーション工場に思える。

 中島は守備エラーの少なさと、チームの順位は正比例すると考えている。守備が下手なチームが、毎年優勝をねらえる常勝軍団になることはない。ダブルプレーを完成させることも同じだ。一瞬でピンチを切り抜けられるのと、ダブルプレーが取れずに走者を残した後に失点するのとでは、天と地の差がある。これが1年間の積み重ねとなると、ペナントの順位となって表われると思うのだ。野球は攻撃の前後の回に守備をしなければ勝つことはできない。

 守備練習を見ていてもまったく飽きない。そこには、磨き抜かれた一流の技と地道な努力がある。野球少年だったころに帰った気がしてくる。ましてや、自分が大ファンのチームだ。幸せな気分で、いつまでも見ていたいと思う。

 「中島さん、そろそろ行きましょう」

 木村室長が呼びかけなければ、ずっと見入っていただろう。さすがに、中島も現実に返り、その他の球場施設案内を受けるべく、入ってきた扉の方へとグラウンドに背を向けて歩き出した。

 「危ない」

 誰かの声に振り向こうとした瞬間、中島は背中にはげしい衝撃を覚えた。呼吸が止まり、身体のバランスを失う。全身に力が入らず、よろめきながら腰を落とした。

 野球のボール、もちろん硬球が背中に当たったのだ。

 呼吸できなくなった後から、はげしい痛みが襲ってくる。中島は必死でボールが来た方向を見ようとした。一塁ベース後方で何人かの選手がひとかたまりになっている。その中心で、こちらを向いて口元に薄笑いを浮かべている選手と目が合う。

 ボールを投げたのは、あいつに違いない。中島が本能的に思った途端、その男はくるりと背中を向けた。

 背番号18。左のエース、江口史隆だった。まさか江口が。

 そう思う中島の周囲に人が集まり、口々に大丈夫ですかと言うのが聞こえた。「タンカ」と呼ぶ声もする。大丈夫ですと言おうとしたが声が出ない。あまりの痛さで力が入らず起き上がることもできない。誰かに足をもたれ、別の手が脇の下から上体を持ち上げる。中島は目を閉じた。(次回につづく

 ▽この物語はフィクションであり、登場する人物や会社、組織などはすべて架空のもので、実在のものとは異なります。