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細川元首相は「佐川1億円」の説明責任果たせ

村山 治

 徳洲会グループからの5千万円借金問題で辞任した猪瀬直樹前東京都知事の後任を決める都知事選に、細川護熙元首相が立候補を表明した。細川氏は20年前、佐川急便グループからの1億円借金問題を追及され、十分な説明をしないまま政権を投げ出した過去がある。都知事の座を目指すなら、改めて、首相辞任の原因になった疑惑についてきちんと説明する必要がある。

村山 治(むらやま・おさむ)
 1973年、早稲田大学政経学部卒業後、毎日新聞社入社。大阪、東京社会部を経て91年、朝日新聞社入社。金丸脱税事件、ゼネコン事件、大蔵汚職事件、日本歯科医師連盟の政治献金事件などバブル崩壊以降の政界事件、大型経済事件の報道にかかわった。著書に「特捜検察vs.金融権力」(朝日新聞社)、「市場検察」(文藝春秋)、「小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争」(朝日新聞出版)、「検察: 破綻した捜査モデル」(新潮新書) 。共著に「ルポ 内部告発」(朝日新書)。

■名門の「殿様」

 細川氏は、旧肥後熊本藩主・細川家の18代当主。祖父は近衛文麿元首相という名門の出だ。朝日新聞記者を経て71年7月、参院議員に当選。自民党田中派に所属し2期務めた。83年2月、熊本県知事に当選し、知事を2期務めた後の92年5月、日本新党を結成、同年7月、再び参院議員に当選した。93年7月には衆院議員に初当選し、同8月、非自民の連立政権で第79代首相に就任した。

 首相在任中、政治改革関連法を成立させ、ガットのウルグアイ・ラウンド農業交渉を決着させたが、東京佐川急便事件の関連で佐川急便グループからの1億円借金問題などを野党に追及され、94年4月に退陣した。その後、衆院議員として新進党、民主党に所属したが、98年5月、60歳で政界を引退。東北芸術工科大学学園長などを務める一方、陶芸家として活動してきた。

 細川氏は1月14日、小泉純一郎元首相の支援をうけ、脱原発をめざして立候補すると表明。陣営は、15日に記者会見で政策を公表する予定だったが、会見を20日以降に延期した。2020年東京五輪や脱原発に関する政策作りに難航し、東京佐川急便からの借り入れ問題を追及された場合の説明の準備に手間取っているためとみられる。

■首相辞任に追い込まれた疑惑

 細川氏が首相退陣に追い込まれた佐川急便グループからの1億円献金疑惑は、以下のようなものだ。

細川護煕首相が東京佐川急便からの一億円借入疑惑で突然辞任、高支持率を誇った細川連立内閣も8か月で幕を閉じた
 細川氏は参院議員時代の82年9月に佐川急便グループから1億円の提供を受けた。「熊本市の私邸の修理と東京都港区のマンション購入のために借り、元利を分割して91年1月に完済した。返済原資の多くは知事の退職金」などと国会答弁などと説明したが、自民党や共産党の調べで、熊本の私邸の修理は借金後2年以上たってから行われ、マンション購入も借金の2カ月前だったことが判明。「完済時はまだ知事。退職金で返済したとの説明もおかしい。知事選に使ったのではないか」などと追及された。

 細川氏は「時期が食い違うが、知事退職金が入るので、相続財産も含めてやりくりし、完済した」「返済実務にはタッチしていない」などと弁明。「佐川側の資料」として1億円のうち1千万円分の領収書や元金や利息の返済が記帳されている「貸付金台帳」の写しを公表した。

 しかし、領収書は発行者名も押印もなく、貸付金台帳も、「貸付金は完済されている」と書かれているだけで、野党側は、「首相の説明は信用できない」として、細川氏の政治団体の会計責任者などを務め、返済を担当したとされる元秘書の証人喚問を求め、予算審議はストップした。追い込まれた細川氏は94年4月8日、首相辞任を表明した。

 辞任会見で、細川氏は、佐川側からの1億円借金の利子合計3千万円超については、佐川側との間では現金を動かさず、政治団体を利用した帳簿処理だけで支払いをした形をとり、「個人の借金」の返済をしていたことを明らかにした。

 同年6月21日の衆院予算委での証人喚問で細川氏は、「虚偽答弁ではないか」と追及されたが、「利息分を政治献金として佐川からいただき、私の政治団体から相当する領収証を発行。私個人から政治団体に相当額を入れる形で処理をした。私が佐川に資金を入れ、佐川から政治団体に政治献金をする、その間の金の動きを省略した。利息は支払っているのだから、何ら答弁と食い違いはない」などと弁明した。

 国会では、それ以上の新事実は出なかった。

■佐川コネクション

 細川氏に資金を提供した佐川急便グループオーナーの佐川清会長は、一代で大手運送会社を築いた立志伝中の人物だった。政界のスポンサーとしても有名で、特に、同郷の田中角栄元首相を信奉していた。

 佐川急便グループが、傘下の東京佐川急便の渡邊広康社長ら経営陣を、ゴルフ会社や暴力団関係企業に巨額資金を流出させていた、として特別背任の罪で東京地検特捜部に告訴したのは91年夏。特捜部は92年2月に強制捜査に着手し、渡邊氏らの特別背任罪での起訴総額は約950億円にも上った。

 さらに、特捜部は、金丸信・元自民党副総裁への5億円闇献金事件と金子清・新潟県知事に対する1億円ヤミ献金事件を摘発。捜査の過程で、金丸氏が、中曽根後継の首相選びにからみ右翼の攻撃を受けていた竹下登氏のために、渡邉氏経由で稲川会会長に右翼を抑え込んでもらった事実も明らかになった。

 この金丸氏のヤミ献金事件の捜査への対応をめぐって自民党竹下派は、小沢一郎氏のグループと反小沢のグループに分裂。翌93年3月、金丸氏が所得税法違反で逮捕、起訴された後、宮沢内閣に対する野党の不信任案に小沢グループが同調、不信任案が可決され、宮沢首相は衆院を解散した。小沢グループは自民党を脱党し、直後の93年7月の総選挙で自民党は過半数を割り込んだ。小沢氏は日本新党代表の細川氏を担ぎ、「非自民」の連立政権を樹立した。

 1955年以来続いてきた自民党支配の「55年体制」に終止符を打つきっかけを作ったのは佐川マネーだった。そしてそれで生まれた細川政権もまた、佐川マネーで倒れた形だった。

 細川氏は、最初の参院議員時代の80年秋、田中派議員の紹介で佐川清氏と知り合ったとされる。名園として知られる京都市の細川家別邸を迎賓館として使いたいと佐川氏が細川氏側に申し入れ、同年12月から月額180万円で貸すようになった。細川氏はその後、佐川側から政治献金も受けるようになったという。

 佐川急便グループが創業30周年事業として87年に熊本県に設立した佐川先端科学技術振興財団を認可したのは熊本県知事の細川氏だった。財団理事には県幹部が名前を連ね、事務長を細川氏の側

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