メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

歯科インプラント手術死亡事故の原因と結果、教訓

出河 雅彦

 歯を失うことで低下した咀嚼能力の回復や審美性の改善などを目的に行われる歯科のインプラント治療。厚生労働省の2011年の調査では、歯科診療所の16.8%に当たる1万1311施設で行われている。1980年代に世界中に普及したインプラント治療は、日本では主として開業歯科医師による自由診療として広まり、歯科大学や大学歯学部での教育は十分に行われてこなかった。その結果、治療をめぐるトラブルも数多く発生し、国民生活センターの2011年12月の発表によると、痛みやはれなどの症状を訴える相談が2006年度以降の5年間で343件寄せられた。2007年5月には東京都内の歯科診療所でインプラント治療を受けた70歳の女性が手術中の動脈損傷がもとで死亡するという事故も起きた。亡くなった女性の治療を担当したのは国内有数のインプラント治療実績を誇る歯科医師だった。業務上過失致死罪で起訴されたその歯科医師の公判を通じて浮き彫りになったのは、インプラント治療の標準化の遅れだった。

事故の経緯

 インプラント治療を受けた患者が死亡する事故が起きたのは東京・八重洲の飯野歯科八重洲診療所である。手術を担当した飯野久之歯科医師は1970年に日本歯科大学を卒業し、1973年に東京・日本橋に歯科医院を開設した。1987年にスウェーデンでインプラント治療を学ぶなど、海外でインプラント治療のトレーニングを受け、死亡事故を起こすまでに3万本以上のインプラント治療を行ってきた。歯科インプラント治療に関しては日本有数の実績を誇る歯科医師である。

 ちなみに、歯がなくなった場合の治療としては、義歯、ブリッジ、インプラント治療の3つがある。インプラント治療は、歯がなくなった部分の顎の骨の中にインプラント体(フィクスチャーとも言い、一般的にチタンを素材として用いる)を埋め込み、その上にアバットメントと呼ばれる部品を取り付け、さらにその上に人工の歯を装着する。インプラント治療は、義歯やブリッジに比べ、咀嚼する機能の回復という点で優れている。

 インプラント手術の実際の手順は、局所麻酔の後、歯肉を切開し、顎の骨にドリルを使って穴をあけ、そこにスクリュー状のインプラント体を埋め込む。インプラント体を埋め込んだ後、歯肉を完全に縫合し、粘膜下にインプラント体を埋め込む方法を二回法と言い、粘膜上にインプラント体が飛び出した状態にしておく方法を一回法と言う。いずれの方法も、骨とインプラント体がしっかり固定するまでの間2~3カ月待ってから人工歯をつける。二回法の場合はインプラント体が粘膜下に埋め込まれているので、二次手術が必要となる。一回法では二次手術を必要としないという利点はあるが、埋入直後から歯肉を貫いて口腔内にインプラント体が飛び出しているので、初期感染や骨結合がなされる前に荷重を受けるというリスクを伴う。

 飯野歯科でインプラント治療を受け死亡したのは、都内在住だった70歳の女性である。以下、この女性をAさんと呼ぶことにする。

 Aさんの死亡事故について業務上過失致死罪で起訴された飯野歯科医師に禁錮1年6カ月執行猶予3年の有罪判決を言い渡した2013年3月4日の東京地裁判決の事実認定にしたがって、受診から死亡までの経緯をたどってみよう。

 Aさんが初めて飯野歯科八重洲診療所(1992年に飯野歯科医師が設立したインプラント治療専門の診療所)を受診したのは2007年5月18日のことだった。Aさんは、歯科衛生士の問診を受け、歯のレントゲン写真を撮影された。その後、飯野歯科医師の診察を受けた。当時、Aさんは相当数の歯が欠損してかみ合わせが悪く、一部の歯は歯根だけが残っている状態だった。

 飯野歯科医師は左下顎に3本、右下顎に1本、左上顎に1本、右上顎に3本の計8本のインプラント体を埋入する手術をする必要があると判断し、Aさんに説明し、了承を得た。初診から4日後の5月22日に手術を行うことになった。

 その後、Aさんは一度に8本のインプラントを埋入する手術を受けることに不安を覚えた。手術前日の5月21日に八重洲診療所に電話を入れ、手術を2回に分けるか、本数を減らしてほしいという希望を伝えた。飯野歯科医師はAさんの意向に従い、左下顎に4本、右下顎に1本のインプラント体を埋入する手術を行うことにした。

 Aさんに対する手術は5月22日午後1時30分ころから始まった。飯野歯科医師は同1時54分ころから2時30分ころまでに左下顎骨に4本のインプラント体を埋入した。

 引き続き、Aさんの右下顎の第2小臼歯(※筆者注=人の歯は通常、上下とも左右7本ずつ計28本あり、上顎と下顎の骨に釘を刺したような状態でおさまっている。7本の内訳は、前歯が中切歯と側切歯の2本と犬歯1本の計3本、前歯の次の小臼歯が2本、小臼歯の奥の大臼歯が2本である。右下顎の第2小臼歯は右の下の中切歯から奥歯に向かって5本目の歯に当たる)相当部分にインプラント体を埋入する手術に移った。

 Aさんの右下顎の第2小臼歯の残っていた歯根を除去し、歯根の周りの不良肉芽(※筆者注=創傷の治癒過程において、傷は肉芽組織という繊維性結合組織によって修復される。不良肉芽は、細菌や膿を包含した炎症性肉芽組織のことを言う)を除去するなどしてインプラント体を埋入する準備を整えた。その後、飯野歯科医師はAさんの右下顎の第2小臼歯に相当する部分の歯槽頂(※筆者注=歯が抜けた後の顎の骨の一番上の部分に当たり、「しそうちょう」と読む)にドリルを挿入してインプラント体の埋入窩(※筆者注=インプラント体を入れる孔のことで、「まいにゅうか」と読む)の形成へと進んだ。

 下顎の骨は外側が「皮質骨」という、比較的硬く、しっかりとした部分で覆われており、その内部に「海綿骨」という、骨髄が入っていて比較的軟らかい部分がある。飯野歯科医師は海綿骨部分でインプラント体を固定しようと考えた。そして、歯槽頂からまず直径2.5ミリメートルのドリルを、続いて直径3.2ミリメートルのドリルをそれぞれ用いて、インプラント体を入れる穴をつくるためのドリリングを行い、予定通り、皮質骨に到達する前の海綿骨の部分でドリリングを止めた。次に、その穴にインプラント体(直径4.1ミリメートル、長さ12ミリメートルのもの)をねじ込んだが、インプラント体が固定された状態(いわゆる初期固定)とはならなかった。

 そこで、飯野歯科医師は、海綿骨の先にある、「舌側」の皮質骨をわずかに穿孔(※筆者注=インプラント体の先を皮質骨の外に出すこと)し、これを利用して初期固定を得る方法を採ることにした。ちなみに、顎の骨の場所に関して、舌がある内側の部分を「舌側」(ぜっそく)と言い、頰のある外側の部分を「頰側」(きょうそく)と言う。

 いったん入れたインプラント体を取り外し、直径2.5ミリメートルのドリルでさらにドリリングを進めて、舌側の皮質骨を意図的に穿孔した。その後、直径3.2ミリメートルのドリルで舌側の皮質骨までドリリングし、インプラント体の埋入窩をより深く形成した上で、再びインプラント体をねじ込んで埋入した。

 その後、飯野歯科医師は、埋入したインプラント体の上の部分に義歯を装着するためのアバットメントという部品の取り付けを始めたが、その途中で、Aさんに異常な反応が見られたため、口の中を見ると、舌の下側の口腔底が盛り上がっていたことから、出血があったと考えた。インプラント体を取り外したところ、ドリリングした穴から出血があった。

 飯野歯科医師が出血部分にガーゼをあて、両手の指で圧迫止血すると、10分ほどで穴からの出血が止まった。そこで、再びインプラント体を埋入したところ、まもなく、Aさんがうなり声を上げて体をばたつかせ、やがて、その腕の力が抜けて垂れ下がった。

 Aさんの血液中の酸素飽和度(※筆者注=動脈血中のヘモグロビンの何%が酸素を運んでいるかを示す値。パルスオキシメーターという機器を用いて、採血せずに測定することができる。一般的に95%以上が正常値とされる)は、午後2時46、47分ころには82%~81%まで低下した。飯野歯科医師はAさんの異常に気づき、自分で救命措置をするとともに、東京医科歯科大学にいた歯科医師である息子に連絡して応援を求め、AEDを用いたり、心臓マッサージ、人工呼吸をしたりしたが、効果がなかったことから、救急車を呼んだ。救急隊は午後3時20分過ぎころに八重洲診療所に到着したが、その時点でAさんは心肺停止状態になっていた。

 Aさんは午後4時ころ、東京都中央区の聖路加国際病院に搬送され、さらなる救命措置を施されたが、手術翌日の5月23日午前9時18分ころ、死亡した。他の医療機関での手術中に容体が急変して死亡したケースであったため、聖路加国際病院は警視庁中央署にAさんの死亡を届けた。Aさんの遺体は東京大学法医学教室の吉田謙一教授らによって司法解剖された。

 Aさんの遺族は事故の翌年に飯野歯科医師を相手取って損害賠償請求訴訟を起こす。筆者が東京地裁で閲覧した訴訟資料中にあった、聖路加国際病院の担当医作成の退院時サマリーには、「院外心肺停止症例であり、中央警察に検視の依頼を行った」と記載されていた。

 同じく聖路加国際病院が作成したAさんの外来診療録(カルテ)には、救急隊員が飯野歯科医師から聞き取ったと思われる内容が記載されていた。その記載によると、「噴出するように出血を認め、20分間圧迫止血を続けたが、14時59分ごろ血圧が低下しショック状態となり、意識障害出現。心臓マッサージを行い、AED装着するとショックアドバイスあり3回ショック施行」とある。

 外来診療録や退院時サマリーに基づき、聖路加国際病院到着後のAさんの容体の変化を追ってみよう。

 Aさんは病院到着後、心筋の収縮力を強めるボスミンという薬剤を投与され、病院到着から約20分後の5月22日午後4時20分に心拍が再開した。聖路加国際病院の記録では、推定心停止時間は1時間20分に及んだ。

 心拍は再開したものの、自発呼吸は再開せず、人工呼吸器が装着されたままだった。診療録には「瞳孔縮瞳傾向なく、対光反射も消失」と記載されている。入院後もインプラントの挿入部からの出血が持続したため、口腔外科の歯科医師が止血処置を行った。同時に、血圧が低下したため、赤血球濃厚液を輸血した。

 しかし、血圧にあまり変化は見られず、血圧を60台で維持するのがせいいっぱいの状態となる。尿量も低下し、同日夜、ボスミンの投与を始めるが、血圧の維持が困難となり、翌5月23日午前9時18分に死亡が確認された。

 司法解剖を行った東大の吉田教授作成の死体検案書によれば、直接死因は「窒息」で、その原因は「口腔底軟部組織出血・腫脹」とされた。出血・腫脹の原因は「右オトガイ下動脈断裂」と記され、「インプラント挿入時、血管を損傷したもの」との記載もある。

 オトガイ下動脈というのは、心臓から頭頸部に向かう動脈の一つである外頸動脈から枝分かれした顔面動脈の分枝で、舌の下側の「口腔底」に血液を送っている。口腔底に血液を送る血管には、このほかに舌下動脈がある。舌下動脈は外頸動脈から枝分かれした舌動脈の分枝である。詳しくは後述するが、飯野歯科医師が被告となった民事訴訟や、刑事裁判では、オトガイ下動脈や舌動脈がどこをどう走行しているかが大きな争点となった。

民事訴訟

 飯野歯科医師に損害賠償を求めたAさんの遺族は、インプラント体を埋めるためのドリリングの際には下顎骨の舌側を穿孔しないよう、あるいは万が一穿孔した場合にもドリルが舌下動脈ないしオトガイ下動脈を損傷しないよう、慎重に切削を進める注意義務を負っていた、と主張した。

 Aさんの事故が発生した下顎の第2小臼歯部分の舌側で動脈がどのように走っているか、血管と下顎骨との位置関係はどうなっているかは、飯野歯科医師が業務上過失致死罪に問われた刑事裁判で最大の争点となるが、民事訴訟でも主要な争点であった。

 原告側は「下顎の第2小臼歯部で舌側に傾斜させてインプラントを埋入する場合、下顎骨内側を穿孔して舌下動脈ないしオトガイ下動脈に到達するリスクが極めて高いことは、本件手術当時すでに指摘されていた」と主張した。これに対し、飯野歯科医師側は「(飯野歯科医師がAさんに対して処置を行った)第2小臼歯(右下5番)部においては、若干舌側に穿孔してもそれによりオトガイ下動脈を損傷するなどして生命に危険が生じるほどの出血性の偶発症が生じることはない、というのが一般的な医学的知見であり、本件事故を予見することは甚だ困難であった」などと反論した。

 飯野歯科医師が証拠として提出した陳述書(2010年4月6日付)には次のように記載されている。なお、原文で被害者の名前が記されている箇所は「Aさん」とした。また、下線部は筆者による(以下、同様)。

 裁判に提出されて初めて拝見したのですが、Aさんの死体検案書によれば「右オトガイ下動脈断裂」とのことで、前歯部であればともかく、まさか第二小臼歯部における若干量の穿通が原因でオトガイ下動脈を損傷するとは夢にも思いませんでした

 私はこれまで3万本以上のインプラント手術を行っており、(略)出血性の事故は今までありませんでしたし、そのような症例報告もこの部位に関しては耳にしたことはありませんでした。

 (略)私が申し上げたいのは、初期固定を得るために右下5番部の皮質骨を若干量穿通させたことは、「第二小臼歯部における若干量の穿通が原因で血管を損傷することはまずない」という医学的知見に基づいて意図した通りに行ったのであり、(略)誤って穿孔させてしまった結果ではないということなのです。

 双方が提出した歯科医師の意見書にも触れておこう。

 原告側の依頼で意見書を作成したのは、ブローネマルク・オッセオインテグレイション・センター(東京都千代田区)所長で東京歯科大学の臨床教授も務める小宮山彌太郎氏である。小宮山氏は、スウェーデンのブローネマルク博士が開発し、1965年に初めて人で臨床応用されたインプラント治療法(金属と骨の組織がしっかりと結合する「オッセオインテグレーション」と呼ばれる現象を利用した治療法)を日本に紹介し、約30年間のインプラント治療経験を持つ歯科医師であり、後に飯野歯科医師が業務上過失致死罪で起訴された刑事裁判でも検察側証人として法廷で証言することになる。

 前述したように、Aさんの遺族が起こした民事訴訟では、下顎骨の第2小臼歯部で皮質骨の穿孔によって動脈を傷つけるリスクがあると認識されていたか否か、が大きな争点になった。

 飯野歯科医師側は裁判所に提出した答弁書の中で、インプラント治療が専門で海外の事故事例などを紹介した古賀剛人氏の著書『科学的根拠から学ぶインプラント外科学 偶発症編』(Aさんの事故の5カ月後に発行)の「これまでに国際ジャーナルに報告された生命を脅かすような出血性偶発症の報告は、全て下顎前歯部(オトガイ孔間)であり、……」という記載を引用した。オトガイ孔とは下顎の骨の中を通ってきた神経と血管が骨の外へ出る所の穴のことで、通常は、左右の第1小臼歯の下のあたりにあるが、その位置には個人差がある。したがって、「オトガイ孔間の歯」と言った場合、下顎の左右のオトガイ孔の間にある歯を意味する。

 民事訴訟の争点は、後に開かれる刑事裁判でも主要な争点となるわけだが、小宮山氏は民事訴訟の意見書の中で、「小臼歯部分も危険であることは周知されている」としたうえで、Aさんが八重洲診療所を初めて訪れた時に撮影されたパノラマX線写真(※筆者注=すべての歯の並びを撮影したレントゲン写真)に基づき、出血が起きた埋入窩の場所は「オトガイ孔間に相当する」との見解を示した。

 これに対し、被告の飯野歯科医師側は日本大学松戸歯学部の渋谷鉱教授(歯科麻酔・生体管理学講座)の「報告書」(2007年10月17日付)を証拠として提出した。

 この報告書によれば、渋谷教授は、飯野歯科医師の母校である日本歯科大学の教授の調査依頼により、飯野歯科医師らとの面談に基づき、診療経過やAさんに対する救命措置などについて評価した。この報告書で渋谷教授は、「通常のインプラント処置においてこの部分の血管損傷はまず考えられない」としたうえで、「きわめて稀な下顎舌側部分の血管走行の異常による出血」から気道閉塞による「息苦しさ」を訴えた可能性も考えられる、との見解を示した。

 また、飯野歯科医師側は、「小宮山歯科医師への反論」と題する北村一・東京都歯科医師会医事処理常任委員会委員長の書面も証拠として提出した。北村氏は血管の走行について「一般的には日大松戸歯学部の渋谷教授による報告書にあるとおり、頤(※筆者注=オトガイと読む)孔前方に集中している場合が多く、下顎前歯部になんらかの外科的侵襲を加える際には充分な注意をはらうべきである。しかし、今回の事故のように5番より後方(略)については、あまり報告を受けていない」と記述し、Aさんの事故に関して「過失というより偶発的な事故と考えるべきであろう」と評価した。

 このように双方の主張は対立していたが、提訴から約3年後に和解が成立する。

 訴訟記録によれば、和解成立は2011年6月27日。その直前にAさんの弟と妹2人が訴えを取り下げ、和解はAさんの相続人である義理の息子と飯野歯科医師側との間で成立した。飯野歯科医師の刑事裁判の東京地裁判決によると、飯野歯科医師側がAさんの義理の息子に支払った和解金は約5935万円だった。Aさんの弟はのちに飯野歯科医師の刑事裁判に検察側の証人として出廷し、「和解では通常、原告側が刑事罰などを求めないと和解調書に記載するということを弁護士に聞いて、民事訴訟を続ける意味がないと判断して訴えを取り下げた」と述べたうえで、飯野歯科医師に厳罰を科すよう求めた。

刑事裁判

 民事訴訟の和解成立から約3カ月後の2011年10月3日、東京地検は飯野歯科医師を業務上過失致死罪で起訴した。

 「公訴事実」の要旨は次のような内容だった。

 平成19年5月22日、被害者(当時70歳)に対する歯科インプラント手術を実施し、ドリルを使用してインプラント体の埋入窩を形成するに当たり、ドリルを挿入する角度及び深度を適切に調整して埋入窩を形成すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠って、ドリルを挿入する角度及び深度を適切に調整せず、ドリルを口腔底の軟組織に突出させた過失により、その付近の血管をドリルで挫滅させるなどし、出血により口腔底等に発生した血腫によって気道閉塞を生じさせて被害者を窒息させ、同月23日、搬送先病院において、死亡させたものである。

 飯野歯科医師は「事故を予見することはできなかった」として起訴内容を否認し、無罪を主張した。

 検察側は、①下顎の舌側の口腔底には血管が豊富に走行し、その走行形態には個人差があることは大学の歯学部の教育で教えられていた②一般歯科医師が読む文献などで下顎の舌側皮質骨穿孔による血管損傷事故が報告され、注意喚起がなされていた――などを理由に、飯野歯科医師はオトガイ下動脈などの血管を損傷する危険性を容易に認識できたと主張した。

 これに対し弁護側は、下顎臼歯部の舌側皮質骨を穿孔することが生命の危険をもたらす大事故につながる危険な行為であることはインプラント治療を行うほとんどの開業歯科医師に認識されておらず、むしろ下顎臼歯部付近ではオトガイ下動脈や舌下動脈は下顎骨から離れた部分を走行しているから安全な場所であると理解されていた、という主張を展開した。

 争点は民事訴訟と同様、2007年5月当時の医療水準に照らして、Aさんがインプラント治療を受けた下顎の第2小臼歯付近で舌側の皮質骨を穿孔すれば、その先にある動脈を傷つけて患者を死亡させる危険性を認識できたか否か、であった。検察、弁護側双方は自らの主張を立証するため複数の証人を申請した。

 検察側の証人は東京歯科大学教授の阿部伸一氏(口腔解剖学)、鶴見大学歯学部の准教授で東大の吉田教授とともにAさんの司法解剖を行った佐藤慶太氏(法医歯学)、前述した歯科医師でインプラント治療の経験が豊富な小宮山彌太郎氏と古賀剛人氏ら、弁護側の証人は日本歯科大学教授の佐藤巌氏(口腔解剖学)らであった。

判決

 2013年3月4日、東京地裁(吉村典晃裁判長)は飯野歯科医師に禁錮1年6カ月執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。

 口腔底における動脈の走行について東京地裁は、検察、弁護側双方の提出した文献や証人の証言に基づき、「具体的な走行バリエーションの詳細は判明していなかったものの、動脈の走行パターンは多様であり、下顎骨を穿孔するなど、口底部(口腔底)を侵襲するのは危険であるという一般的知見はあったといえる」としたうえで、「小臼歯部であれば安全であるといったような知見があったとはいえない」との判断を下した。

 そして、インプラント手術で舌側の皮質骨を穿孔した場合の危険性に関する知見についても各種文献の記載や証人の証言に基づき、おおよそ次のように評価した。

  1.  海外では、1990年ころから2000年ころにかけて、オトガイ孔間における舌側皮質骨の穿孔による大事故がかなり報告されるようになった。1998年前後ころからそれらの知見が日本に紹介されるようになり、1998年4月には、下顎の犬歯から小臼歯部の舌側の骨膜には舌下動脈あるいは顔面動脈の枝が近接しており、傷つけると重篤な口腔底出血を起こすことがあるので、この部位の舌側皮質骨の穿孔には十分注意すべきである旨を明記する書籍が出版されるようになった。
  2.  2004年8月には、従来から下顎骨の舌側皮質骨を穿孔することの危険性を指摘してきた古賀剛人歯科医師が、自らの経験や海外の文献などを踏まえつつ、血管の走行状況や下顎骨の形態などの根拠を示しながら、オトガイ孔間の舌側皮質骨を穿孔することの危険性を詳細に論述した書籍を出版したほか、2007年1月には、別の著者によるインプラント手術の基本書が出版され、その中にはインプラントの埋入位置が第1小臼歯部であることを明示した症例などについての症例一覧表が具体的に示され、生命に危険を及ぼすほどの出血を生じる偶発症が犬歯部と第1小臼歯部で発生している旨が明記されていた。この基本書は飯野歯科医師自身も購入していた。
  3.  2006年3月には、古賀剛人歯科医師が、インプラント手術に携わる臨床歯科医師の多くが購読している商業誌に国際ジャーナルに報告された出血性偶発症の事例をまとめ、犬歯や小臼歯部におけるインプラントの埋入によって出血性偶発症が生じる根拠などを具体的に指摘した論文を掲載している。
  4.  比較的新しい書籍のうちでは、舌側穿孔による危険性の部位を切歯及び犬歯であると特定するものは少ないことがうかがわれる上、臼歯部における舌側穿孔は安全であることやその有効性を積極的に論証したものは、証拠上、何ら指摘されていない。
  5.  具体的な走行バリエーションの詳細は判明していなかったものの、口腔底における動脈の走行は豊富で多様であり、下顎骨を穿孔するなど、口底部(口腔底)を侵襲するのは危険であるというのが以前からの一般的な知見であって、手術中に口腔底を傷つけないように常に注意喚起がされ、そのための手法などがいろいろ言われていたのであるから、従来も、臼歯部の舌側穿孔は安全であると考えられていたわけではないことが認められる。

 東京地裁は舌側皮質骨をわずかに穿孔し、それを利用してインプラント体を固定させるという飯野歯科医師の手術法についても評価を加えた。

 飯野歯科医師は被告人質問で、Aさんの手術以前にもこのような方法でインプラント体を固定する方法を採った例が約500件ある、と述べた。このような方法について、検察側、弁護側双方が立てた、インプラント治療を行う歯科医師4人はいずれも聞いたことがないと証言した。飯野歯科医師自身も、意図的な穿孔に関しては、何らかの文献や他の歯科医師の症例報告などを見たり聞いたりしたことはないと述べた。

 東京地裁は「本件当時、インプラント治療に関する確立したガイドライン等は存在していなかったものの、下顎骨舌側皮質骨を意図的に穿孔し、その穿孔部を利用してインプラント体を固定する術式は、一般的には用いられていないものであって、被告人自身もそのことを認識した上で、独自に採用していた方法であるということができる」としたうえで、「被告人の述べる本件術式の有用性は、単なるイメージに基づくものであって、科学的根拠がない」との判断を示した。

 東京地裁は、意図的な穿孔によってインプラント体を固定するという、一般的に採用されていない方法を独自の考えに基づいて行うのであれば、その危険性などを十分に調査検討するべきであり、そのような検討を行っていれば、その術式に有用性がなく、危険性が高いことが容易に認識することができた、と指摘した。

控訴

 飯野歯科医師は有罪判決を不服として東京高裁に控訴したが、控訴審の審理は2014年1月現在まだ始まっていない。

 飯野歯科医師の弁護は、地裁段階とは異なる別の弁護士が担当することになった。筆者の取材によれば、新しい弁護士は、Aさんの死亡と飯野歯科医師の行為ないし過失との間には相当因果関係がなく、Aさんの死因を「窒息に起因する低酸素脳症及び多臓器不全」と認定した東京地裁判決は事実を誤認したものであり、「飯野歯科医師は無罪である」との主張を展開することにしている。地裁段階で最大の争点になった口の中の血管の走行や飯野歯科医師の手術方法についてはあえて争わないようだ。

 控訴審での弁護側の主張の根拠を簡単に説明すると、次のようなものだ。

 検察側が提出したAさんの死因などに関する鑑定書(2011年6月24日付、作成した鑑定人は吉田謙一・東京大学教授と佐藤慶太・鶴見大学准教授)では、死因は「窒息に起因する低酸素脳症及び多臓器不全」とされた。この鑑定書に基づいて東京地裁判決は飯野歯科医師の「罪となるべき事実」として、Aさんの死亡に至る経緯を「出血により口腔底等に発生した血腫によって気道閉塞を生じさせて(Aさんを)窒息させ、よって、平成19年5月23日午前9時18分頃、窒息に起因する低酸素脳症及び多臓器不全により、聖路加国際病院で死亡させた」と認定した。

 しかし、鑑定を行った2人がこの鑑定書作成前に作成した死体検案書や学会発表では別の死因を述べていた。例えば、2007年9月28日に吉田教授が作成した死体検案書では、直接死因は「窒息」とされ、「傷病経過に影響を及ぼした傷病名等」として「出血性ショック」と記載されていた。また、2008年5月24日に開催された日本法歯科医学会第2回学術大会で発表した内容を吉田教授、佐藤准教授らが論文にした「インプラント術中の死亡事例から考察された歯科診療関連死に関する諸問題」(日本法歯科医学会誌2巻1号、2009年)でもAさんの死因は「窒息」とされている。ところが、鑑定書では、「窒息」というそれまでの死因を「窒息に起因する低酸素脳症及び多臓器不全」と変更した理由はまったく明らかにされておらず、死因を新たに認定した根拠も示されていない。そのため、患者の死因について鑑定書の内容を真実と認めることはできない。Aさんの死因は聖路加国際病院での出血性ショックと考えられ、その死因と飯野歯科医師との行為との間には相当因果関係がないから、飯野歯科医師は無罪である。

診療行為を検証する必要性

 刑事裁判が最終的にどう決着するかはわからないが、同様の事故の再発を防ぐためにAさんの事故からどんな教訓をくみ取ったらよいのだろうか。

 Aさんの司法解剖を担当した東京大学法医学教室の吉田謙一教授と鶴見大学歯学部法医歯学研究室の佐藤慶太准教授は、Aさんの事故の1年後に開催された日本法歯科医学会第2回学術大会でAさんの事例を発表した。その内容をまとめた論文が、学会発表の翌年の2009年に発行された『日本法歯科医学会誌』に掲載された。なお、この論文では、Aさんの年齢・性別、手術を受けた時期、医療機関名、執刀医名などは伏せられていた。

 この論文には、死亡までの簡単な診療経過と解剖所見が記載された後、死因について「右オトガイ下動脈の損傷が口腔底、舌、頸部筋肉内に出血を与え、これに伴って生じた気道閉塞による窒息死と考えられた」と記されている。医療行為の妥当性については「事故を惹起した右下顎骨の切削部位のみならず、本件とは直接関係しない左下顎骨の4つの切削部位においても穿孔状態であり、何らかの目的で意識的にそのような切削術を執っていた可能性が疑われた。顎・口腔の解剖学的形態を熟知した歯科医師であれば、このような術式は極めてハイリスクである事が認識できていた筈と考えられる。その他、これまでも国内外において、本件と類似するインプラント事故や偶発症例に関する多数の報告等が為されており、担当医が常日頃から医療安全に関する研鑽を積んでいたのかは疑問として残る」と、のちに東京地裁判決も言及することになる「下顎皮質骨の意図的穿孔」という、飯野歯科医師の術式の問題点を指摘している。

 さらに、Aさんの事故を通して浮かび上がった歯科医療関連死の問題点として次の4点を挙げた。

  1.  歯科医師の救命能力に関する問題
     これまでに発生した歯科医療関連死では刑事事件に発展したケースは少なくないが、刑事罰が科せられたものは僅かであり、それ以外の殆どが不起訴となっている。この理由の最たるところは、歯科診療所の医療水準が低く評されていることで、つまりは、歯科は医療水準が低いので危険予見や危険回避の義務を問えないということである。その結果、歯科診療所で発生した致命的事故は、患者を総合病院等に搬送さえすれば一義的な救命責任は果たしているようである。本件においても、担当歯科医師が執った救命行動は前述の範囲内であり、現況においては妥当性が否定されないものであろう。しかし、歯科医療関連死の多くが喉頭・咽頭の浮腫や血腫による気道閉塞等に伴う窒息が原因となっている状況を鑑みれば、外呼吸の主たる器官である口腔の疾患を担当する医療職として、将来的に歯科医師の救命スキルを格段に向上させる必要があろう。そのためには歯科界を挙げての画期的な研修体制等の構築が急務である。
  2.  インプラント術式の診療指針に関する問題
     インプラント術式の標準化を考究し、診療指針を作成する必要がある。本件に観られる術式(特に切削行為)は一般歯科医学の見識からは医学適応性に疑問を抱くが、歯科用インプラント術に関する専門的な学術性による判断が必要である。しかしながら、現在のところもインプラント術に関する確固たる診療指針を確認することができず、本件がそれにある標準術式の範囲内か否かを検証することはもはや不可能である。鈴木(※筆者注=鈴木利廣弁護士)は、歯科においては診療ガイドラインが充分に存在しないため、歯科医事紛争の複雑化を招いており、近年ではインプラント術に関する訴訟が増加している点を指摘している。早急に術式を整備して、医療安全を担保したインプラント診療指針を作成し、広く歯科界に周知を図る必要がある
  3.  インプラント術にあたっての診断技術の向上と機器類の活用に関する問題
     本件においては、術前のエックス線診断として歯科用CT撮影は実施されていない。敢えて、本件に観られる下顎骨の穿孔が偶発的に生じたものとして考えると、歯科用CT画像によって細密な骨の情報を得ていれば、不測の事態を回避できた可能性が高い。本件の診療所においては、歯科用CT撮影は対応可能な状況であったようだが、一般に、高額な歯科用CT撮影装置を導入している診療所は少ないのが現状である。関連学会はインプラント術における歯科用CT撮影の重要性について説いており、歯科界としては、CT画像の安価な供給を可能とする体制を検討する必要がある。
  4.  担当歯科医師による医療関連死の届出に関する将来的な問題
     本件は、搬送先病院の担当医師によって異状死として警察に届出された。これは医師法21条に規定される検案を担当医師が実施し、その際に医療関連死としての異状を認識したことに基づく行動である。現在、厚生労働省が検討する「医療安全調査委員会設置法案大綱案」においては、診療所を含む全医療機関に対して、医療関連死が発生した場合の同委員会へ届出を義務付けている。診療所で発生した死亡事案の多くは搬送先病院で確認されると考えるが、同委員会への届出は当該医療を担当した歯科医師の診断責任の範疇にあるかも知れない。又同大綱案においては、診療所で発生した死亡事案は、地域等の専門職団体に相談等の体制を設けるよう記してあり、歯科界における対応について今から考究しておく必要がある。

 吉田教授と佐藤准教授らはこの抄録の最後に、インプラント手術による事故死の再発防止に向けて、①現在実施されているインプラント術式の種類、分布の程度や事故事例に関する調査②インプラント術式の標準化のための診療指針の策定と安全な術式の普及推進③インプラント術者に対する安全医療及び救命医療の技術修得のための専門学会等の体制確保と定期的な評価の実施④歯科用CT撮影の具体的な必要性の明確化と機器もしくは画像を供給しやすい体制の確保の検討――の4点を提言した。

 ちなみに、この論文にある「医療安全調査委員会設置法案大綱案」は、警察の医療現場への「介入」を嫌う医療界の求めに応じて厚生労働省が2008年にまとめたものである。しかし、その案に対して医療界からさまざまな異論が出され、結局、医療事故の調査を行う第三者機関を国に設置するという大綱案は立ち消えとなり、事故を起こした医療機関が第一義的に調査を行うことなどを柱にした新たな事故調査制度案が採用された。現在、厚生労働省が新たな事故調査制度導入のための医療法改正に向けた作業をしている。

 吉田教授らはこの論文で、下顎骨の穿孔という、インプラントを埋入するための術式について特に重要視し、CTを撮影しなかったことも問題点として指摘している。術式の妥当性が飯野歯科医師の刑事裁判の主要な争点になったことは前述した通りだが、一連の診療行為を振り返ると、術式やCT撮影以外にも、再発防止の観点から医療行為の妥当性に関する検証が必要と思われる点が少なくない。

 第一は、Aさんの手術が初診からわずか4日後に行われていることである。

 公益社団法人・日本口腔インプラント学会が2012年に初めて策定した「口腔インプラント治療指針」は、出血を伴う外科的処置であるインプラント治療について「通常の歯科治療以上に詳細な全身状態の把握が必要である」としたうえで、治療の前に問診や血液検査などの各種検査を実施し、必要に応じて患者が受診している内科医へ照会することの重要性を述べている。例えば、糖尿病の患者はインプラント手術のリスクが高いとされる。感染を起こしやすかったり、インプラント体と骨の結合が阻害されたりする可能性があるためである。

 Aさんの遺族が起こした民事訴訟で飯野歯科医師側が日本大学松戸歯学部の渋谷鉱教授の「報告書」(2007年10月17日付)を証拠として提出したことは前述したが、この報告書にはAさんの「既往歴」として「肝臓疾患(非ウイルス性)」などが記載されている。

 Aさんが飯野歯科医師を受診した2007年5月18日は金曜日で、土、日をはさんで同月22日の火曜日に手術を受けているが、手術の実施と実施日は、前述したように、初診の18日に決められた。インプラント手術では、担当の歯科医師がリスク要因をさぐるために患者の全身状態を問診や検査、他の医師への照会などで十分に把握したうえで、治療計画を立案し、十分な説明を行ったうえで患者の同意を得るインフォームド・コンセントが必要とされている。Aさんの受診から手術までの手続きが適切であったか否かは検証の必要があると言える。ちなみに、先に紹介した日本口腔インプラント学会の治療指針では、次の10項目をインフォームド・コンセントに最低限必要な事項としている。

  1.   インプラント治療と他の可撤性義歯(※筆者注=取り外しできる義歯のこと)、ブリッジ、接着性ブリッジ、移植や再植などの治療法との比較や利点、欠点
  2.   残存率(他の治療法との比較を含め、※筆者注=残存率は一定期間後まで埋入したインプラントが残っている率のこと)
  3.   治療期間
  4.   治療にかかる費用
  5.   麻酔法、痛みや手術後の状態
  6.   治療の方法やそれに伴う骨移植、軟組織移植などの前処置の有無や侵襲
  7.   経過不良のリスクや合併症
  8.   経過不良の場合のリカバリー法
  9.   回復後の状態
  10.   メインテナンスと術後の管理法、費用

 第二は、手術前のAさんの血圧がかなり高かったことである。

 前述した日本大学松戸歯学部の渋谷鉱教授の報告書によれば、Aさんが飯野歯科医師を初めて受診した2007年5月18日の血圧は、上の収縮期が154、下の拡張期が92であった。手術当日の5月22日、血圧や血液中の酸素飽和度をチェックするためのモニター類を装着した午後1時54分ころの血圧は、収縮期が202、拡張期が102、脈拍は94だった。左下の下顎へのインプラント体の埋入が終わった午後2時25分ころの血圧は、収縮期が217、拡張期が95、脈拍は97だった。

 渋谷教授は報告書で「(手術開始時の)血圧および脈拍数は正常値を逸脱していることから何らかの対処が考慮されるべきであったと考える」と指摘している。

 前述した日本口腔インプラント学会の治療指針は、「コントロールされていない高血圧症は手術のリスクが高い」と記載し、高血圧症の患者にインプラント治療を行った際に発症する可能性のある合併症として、脳出血・クモ膜下出血、脳梗塞や狭心症、腎障害などを挙げている。筆者はインプラント治療や口腔外科を専門とする歯科医師の何人かに意見を求めたが、異口同音に「血圧が200を超えた状態で手術を行うことは考えられない。まず内科医への受診を勧めるのが一般的だ」と答えた。

 第三は、手術中の出血への対応である。

 刑事裁判の東京地裁判決における事実認定によれば、飯野歯科医師がAさんの右下顎骨にインプラント体を埋入した際、Aさんに異常な反応が見られた。飯野歯科医師が口の中を見ると、口腔底が盛り上がっていたことから、出血があったと考えた飯野歯科医師がインプラント体を取り外したところ、ドリリングした穴から出血があった。飯野歯科医師が出血部分にガーゼをあて、両手の指で圧迫止血すると、10分ほどで穴からの出血が止まった。そこで、再びインプラント体を埋入したところ、まもなく、Aさんがうなり声を上げて体をばたつかせ、やがて、その腕の力が抜けて垂れ下がった。

 インプラント体を埋めるための穴からの出血が圧迫によって止血したと考えて手術を続行したことは妥当であったのだろうか?

 この点は特に刑事裁判で争点にはなっていないが、飯野歯科医師の公判に検察側証人として出廷した古賀剛人歯科医師は、Aさんの事故の1年以上前に臨床歯科医師向けの商業誌『月刊ザ・クインテッセンス』(2006年3月号)に掲載した論文「インプラント手術に関連する偶発症①出血――生命を脅かす口腔底出血の検証」の中で次のように書いている。

 ドリリング時の舌側への穿孔は、重大な出血の偶発症を招く恐れがある。とくに舌側への回転切削器具による穿孔は、生命を脅かしかねない深刻な偶発症になる恐れがある。ドリリング時の舌側への穿孔は、インプラント手術の骨形成で低速な回転を使用しているために、かえって動脈を一定量ドリルに巻き付けた後で切断し、動脈が後方へゴムひものように戻り、出血部がみつけにくいという問題がある。(略)出血源が術野から消失するのは、おそらくドリルに動脈を巻きつけて切断し、後方へもどるのが原因と考えられるが、この種の偶発症では出血点をみつけることが極めて困難であることは、臨床家が必ず押さえておくべき知識である。(略)止血を試みている際も、患者を病院に搬送する準備をスタッフに命じてしておく。口腔底における出血性偶発症の最大のリスクは、失血による生命のリスクではない。生命を脅かすのは、口腔底部への大量の血腫によって結果的に生じる気道閉塞(airway obstruction)による窒息である。よって、パルスオキシメーターによるSpO2(※筆者注=動脈血中の酸素飽和度のこと)の監視は極めて重要である。SpO2あるいは患者の訴えにより気道閉塞を感じたら、すぐに専門医療機関に救急車で搬送するべきである

 Aさんが緊急搬送された聖路加国際病院の診療録によれば、Aさんの出血は同病院到着後も続いており、止血したように見えても実際には出血部位が特定できず、完全に止血できていなかった可能性がある。ちなみに東京地裁判決は、前述した古賀歯科医師の論文が掲載された『月刊ザ・クインテッセンス』を飯野歯科医師が購入していたと認定した。

 第四は、飯野歯科医師らによる救命措置の妥当性である。

 東京地裁判決によれば、飯野歯科医師が圧迫止血を行った後に再びインプラント体を入れて間もなく、Aさんがうなり声を上げて体をばたつかせ、やがて、その腕の力が抜けて垂れ下がった。Aさんの異変に気づいた飯野歯科医師は自ら救命措置を講じるが、すぐに救急車を呼ぶことはしなかった。

 Aさんの遺族が起こした民事訴訟で飯野歯科医師が提出した陳述書によれば、出血後にインプラント体(フィクスチャー)を再埋入した後の経過は次のようなものだった。

 私は再度右下5番部にフィクスチャーを埋入したのですが、その直後、Aさん(※筆者注=陳述書では本名)が苦しいと突然動き出しました。止血からフィクスチャーを再度埋入するまでに10分くらいかかったと思いますので、おそらく午後2時50分頃のことだと思います。

 手術室の中には、私の外に3名の衛生士がいたのですが、Aさんが突然動き出し、パルオキシメーター(原文ママ)も指から外れてしまいましたので、私も含め全員で懸命にAさんがチェアーから落ちないようにAさんの体を押さえ,Aさんを制止しました。また、私としてもこの様な事態を経験したことは全くありませんでしたので、「歯科医師が自分一人では手不足だ。」と考え、東京医科歯科大学口腔外科に所属している長男●●(陳述書では本名)を電話で呼び出してもらい「急いで手伝いに来て欲しい。」と伝えてもらいました。

 私としては、既に止血は終了したという認識であり、むしろAさんが初診の際「以前歯科医院で失神した経験がある。」とおっしゃっていたことから、過度の緊張等が原因かとも思ったのですが、仮に出血に関するトラブルであれば口腔外科医が歯科医の中ではもっとも経験豊富だと考えたこともあり、無論人手を増やす意味合いでも●●に来てもらったのです。

 このように全員でAさんが動かないよう制止していたところ、5分位してAさんは突然静かになりました。そこで、再度パルオキシメーター(原文ママ)を装着し酸素飽和度を確認したところ、パルスオキシメーターは48%を指していて窒息の様相を呈していました。このため、私はすぐに酸素ボンベを持ってくるように指示し、ただちに酸素吸入を開始しました。この時点ではAさんにまだ呼吸がありました。

 それからさらに5分ほどが経過した午後3時ころ、今度はAさんの唇がチアノーゼ状態を示し、脈もふれなかったため、私は心停止していると考えて心臓マッサージを行い、受付を担当していた妻には当院備え付けのAEDを実施してもらいました。

 そうしているうちに、●●が到着し、気道確保を行うとともにバッキューム用の管を用いて人工呼吸を行ったところ、Aさんの胸部及び腹部がふくらんだため、私はその間タイミングを合わせて心臓マッサージを行いました。また、このころ妻に119番通報してもらい、救急車の出動要請を行いました。

 民事訴訟において遺族側の説明要求に対して飯野歯科医師側が回答したところによれば、飯野歯科医師の長男は応援要請の電話を受けた当時、文京区湯島1丁目の東京医科歯科大学付属病院麻酔科外来(7階)にいた。同病院はJRお茶の水駅の近くにあり、飯野歯科八重洲診療所があった中央区八重洲1丁目の最寄り駅のJR東京駅からは中央線快速電車で2駅目に当たる。飯野歯科医師側の準備書面には、応援要請を受けた飯野歯科医師の長男は「自動車にて急行した」「3時5分くらいに到着したものと記憶している」と記載されている。

 飯野歯科医師は最終的には救急車を要請しており、この点について、前述した吉田東大教授らの論文は「(担当歯科医師の救命行動は)現況においては妥当性が否定されないものであろう」としている。

 しかし、医療事故が発生した場合に患者を救命できるか否かは極めて重要である。

 自分と同じ歯科医師である長男を呼んで救命措置を手伝わせる前に、救急車の出動を要請し、歯科診療所よりはるかに医療スタッフや医療機器が充実している救急病院に搬送しなかったのはなぜか。Aさんの容体の変化と飯野歯科医師の行動の妥当性について、再発防止の観点から歯科医師会や関係学会による検証が必要であろう。

 Aさんの事例は聖路加国際病院が警察に届け出を行い、遺体が司法解剖されたため、当時、厚生労働省の補助金によって関係学会が東京など限られた地域で実施していた診療関連死調査分析モデル事業の対象にはならなかった。

 このモデル事業は、診療行為に関連して死亡した患者の遺体を解剖し、当該患者の病気や治療に関係する学会の関係者らが診療行為の妥当性や問題点を分析するものである。仮に、Aさんの死亡事故がこの事業の対象になっていれば、刑事裁判の争点となった、インプラント体を埋入するために下顎骨を穿孔した治療行為の妥当性に限らず、一連の診療行為全体が再発防止の観点から検証され、その概要が公表されることで、今後のインプラント治療の質の向上に貢献した可能性がある。

 日本口腔インプラント学会理事(教育委員長)で同学会の「口腔インプラント治療指針」策定に関わった矢島安朝・東京歯科大学教授(口腔インプラント学)は次のように話している。

 スウェーデンのブローネマルク教授によるオッセオインテグレーションの概念が1980年代に世界中に伝わることによって、それまで長期的に見た治療成績の面で信頼性の低かったインプラント治療が初めて優れた治療法となる可能性が出てきました。開業の歯科医師は臨床実感としてその良さを十分に理解し、臨床に採り入れていったので、インプラント治療は開業医の手によって普及していきました。大学の歯学部で教育できるレベルのエビデンス(科学的な根拠)が揃うまでにはある程度の時間が必要だったので、大学の歯学部がインプラント学講座を設置するなどして系統立った教育を始めるまでに時間がかかりました。それがインプラント治療の標準化が遅れた理由の一つだと思います。患者さんの死亡事故も一つの契機となって、日本口腔インプラント学会では安全・安心の口腔インプラント治療が実現するよう、歯科医師がインプラント治療を行う場合の基本的な指標を明らかにする目的から治療指針を定めました。今後も新たなエビデンスを取り込みながら、随時内容を改訂していく予定です。現在、大学での学生実習用の統一テキストや模型のほか、インプラント治療を行うための器具の一式セットであるインプラントシステムの作製にも取り組んでいます。また、他の学会とも協力しながら、インプラント治療で発生した医療事故の原因調査や事故情報の共有化にも取り組んでいきたいと考えています。

(次回につづく)