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虎の門病院で薬の過量投与で患者死亡、薬剤師の責任

出河 雅彦

 医師が出した処方箋(せん)の内容をチェックし、薬が正しく使われているか目を光らせるのが、薬剤師の仕事である。薬剤師法24条は「薬剤師は、処方せん中に疑わしい点があるときは、その処方せんを交付した医師、歯科医師又は獣医師に問い合わせて、その疑わしい点を確かめた後でなければ、これによって調剤してはならない」と定めている。ところが、「処方監査」と「疑義照会」が適切に実施されなかったために、薬の過剰投与や別の薬との取り違え事故が発生し、患者が死亡するという事故がこれまでに何件も起きている。筆者が直接取材した分だけでも、財団法人・癌研究会付属病院(現・癌研有明病院)で1999年12月に発生した抗がん剤の過剰投与事故▽岐阜県立多治見病院で2007年12月に発生した抗がん剤の過剰投与事故▽青森県五所川原市の公立金木病院で2008年6月に発生した血糖降下剤の誤投薬による事故などがある。これらの事故ではいずれも患者が死亡した。薬の量や種類を間違えたことが原因で起きる医療事故は多く、とりわけ慎重な取り扱いが求められる危険薬の量や投与方法を間違えると、患者に深刻なダメージを与え、時に生命にかかわる場合が少なくない。過去の事例の中には、医師への遠慮から調剤を担当した薬剤師が疑義照会をためらったために、誤投薬によって患者が亡くなった事故もあった。薬剤師が自らの役割を自覚するとともに、医師も薬剤師の専門性を尊重し、「チーム医療」の推進を図らなければ、同種の事故を根絶することはできない。今回は、薬剤の過量投与事故で亡くなった患者の遺族が、病院を運営する組織や処方をした医師だけでなく、調剤や処方監査を担当した薬剤師にも損害賠償を請求する訴訟を起こした事例を取り上げる。

事故発生

 訴訟を起こしたのは、2005年に肺がん治療のため入院していた虎の門病院(東京都港区)で、肺炎の薬を過剰に投与され死亡した大学教授の男性(当時66、以下Aさんと言う)の遺族である。Aさんの妻と長男、長女は2008年3月に提訴した。被告は、虎の門病院を開設している国家公務員共済組合連合会▽同病院呼吸器センター内科部長▽同病院呼吸器センター内科医師▽Aさんの診療を担当していた臨床経験3年目の研修医▽同病院薬剤部の3人の薬剤師――だった。

 2011年2月10日に言い渡された東京地裁判決などに基づき、Aさんの入院から死亡までの経緯を簡単に振り返ってみる。

 Aさんは2005年3月、虎の門病院に入院して検査、診察を受けた結果、膵臓がんで肺やリンパ節に転移していると診断された。翌4月、原発は肺で、膵臓とリンパ節に転移していると最終診断された。同病院呼吸器センター内科で入院しながら抗がん剤による治療を受け、同年7月2日に退院した。翌8月29日、同病院に再入院し、2日後の頭部CT検査で脳への転移がわかった。

 その後、抗がん剤の投与や、脳腫瘍に対する放射線の全脳照射などが行われた。9月には外泊許可を取って何日か自宅に戻り、勤務先の大学に行って仕事もした。

 9月27日に受けた頸部、胸部のCT検査の結果、リンパ節腫大の悪化と副腎への転移が新たにわかった。検査2日後の9月29日から新たな抗がん剤の投与が開始された。

 10月10日から38度を超える発熱があり、同月14日に胸部のCT検査を受けた。その結果、両方の肺にスリガラス状の陰影が認められ、抗がん剤の副作用による肺炎が疑われた。14日から3日間、肺炎に対するステロイドパルス療法が行われ、熱も一時的に下がった。

 ところが、10月18日、Aさんは再び39度台の高熱を発した。主治医はAさんの肺炎について薬剤性肺障害よりもカリニ肺炎を疑い、バクトラミンという薬剤の点滴による治療を開始することを決めた。

 この薬の投与によって肺炎は改善傾向にあったが、薬の副作用で嘔吐症状が悪化した。そのため、呼吸器センター内科では10月28日、Aさんの肺炎に対する治療薬剤をバクトラミンからベナンバックスに切り替えることを決めた。

 Aさんの主治医は、10月25日から27日までは長崎県での学会、引き続いて28日から11月4日まではカナダ・モントリオールでの学会に出席することになっていた。主治医が不在の間、呼吸器センター内科の別の医師がAさんの主治医代行を務めた。

 カリニ肺炎の治療薬をバクトラミンからベナンバックスに変更することを決めたのは呼吸器センター内科部長の判断だった。

 ベナンバックスは「劇薬」に区分される薬で、重度の低血圧、低血糖などが表れることがあるので治療期間中は血圧や血糖値を測定し、重篤な低血圧や低血糖が表れた場合にはただちに投与を中止し、再投与しないよう添付文書に記載されている。

 薬剤変更の決定に基づき、Aさんを担当していた研修医が10月28日夕、薬剤部に対し、10月29日から31日の3日分のベナンバックスの調剤を指示した。処方内容は、3日間とも、朝昼夜の3回それぞれ1時間かけて点滴でベナンバックスを300㍉グラム投与(1日分の合計900㍉グラム)するというものだった。

 虎の門病院の医薬品集によると、ベナンバックスを患者に投与する場合の用量は、体重1㌔グラム当たり4㍉グラムとされていた。Aさんの当時の体重は約45㌔グラムだったので、正規の用量は1日180㍉グラムだった。したがって、研修医の指示内容は正しい用量の5倍に当たる量だった。

 研修医は処方箋を作成する際、病院の医薬品集を開け、ベナンバックスの欄を見て、体重によって処方量が違うことがわかったので、医薬品集を裏側にして頁が変わらないようにしておいて、看護師詰め所に置いてある温度板に書いてあるAさんの体重を確認しに行った。Aさんの体重が45㌔グラムであることを確認した後、病棟に戻り、再び病院の医薬品集を見た際、参照すべき欄を見誤り、反対側の頁のバクトラミンの欄を見て、その量で、ベナンバックスの点滴をオーダーした。

 虎の門病院での注射薬の処方オーダーから投与までの流れはこうだ。

 まず、医師が注射の処方オーダーをパソコンに入力する。その後、薬剤部で出力される処方箋に基づき、薬剤師が注射薬を取りそろえる調剤を行う。調剤された注射薬に誤りがないかどうか別の薬剤師が監査を行い、看護師へ薬剤を受け渡す。看護師は、医師のオーダーによって注射指示を受け、薬剤師から薬剤を受け取り、オーダー入力によって出力される注射処方箋控えと薬剤を確認し、点滴を行う――。

 虎の門病院の「注射調剤業務基準」(2005年度)には、「注射薬を監査するにあたっては、別物調剤がないこと、用量・用法(1回投与量、1日投与量)が正しいことを細心の注意を払って確認してください。(略)調剤されたもののなかに必ず間違いがあるのだという気持ちで監査を行ってください」と記載されていた。

 Aさんに投与されるベナンバックスは、10月28日午後7時25分ころに薬剤部のX薬剤師によって調剤され、午後7時30分ころ、Y薬剤師が調剤済みのかごにあった1日目、2日目分の薬を取り出し、監査を実施した。さらに、午後8時20分ころ、X薬剤師が3日目分のベナンバックスを調剤し、Z薬剤師がそれを監査した。

 Z薬剤師はその後、「1日1回4mg/kg…」などと用法・用量が記載された病院の医薬品集を見たが、調剤された薬が過量であることに気づかなかった。

 虎の門病院では当時、医師が注射の処方オーダーをパソコンに入力する「オーダリングシステム」を採用し、システム上、過剰な量の処方内容が入力されると警告表示が出るようになっていた。しかし、その警告機能は1回量について設定されていたが、1日量については設定されていなかった。

 ベナンバックスについては、1回量の300㍉グラムが設定されており、システム上、過剰投与を示す警告は表示されなかった。Aさんの治療に用いるベナンバックスの調剤、監査を行った虎の門病院の薬剤師らは、オーダリングシステム上、用量については警告機能が働いているものと理解しており、1日量の設定がないことは知らなかった。

 薬剤部はベナンバックスの用量超過に気づかないまま、看護師に薬剤を渡した。

 Aさんは10月29日から正しい用量の5倍量のベナンバックスを投与されたが、吐き気は持続した。翌30日も同じように吐き気が続いた。

 31日になると、血圧が低下し、意識障害が表れた。血液検査で腎機能障害も認められた。胃のチューブから茶褐色ないし赤色の液体が排出されたため、消化管出血による血圧低下と判断され、赤血球濃厚液の輸血が行われた。しかし、Aさんの血圧は安定せず、午後からは名前を呼ばれても反応がなくなった。投与3日目になっても病院側は過剰投与に気づかず、31日午前7時50分ころと午後3時ころに、それぞれベナンバックス300㍉グラムをAさんに投与した。その後、血圧の低い状態が続き、意識障害も継続した。

 病院側が過剰投与に気づいたのは31日の夜遅くになってからだった。

 同日午後10時ころ、Aさんの病状が改善しないことに疑問を感じた看護師が呼吸器センター内科の医師に相談した。その医師がAさんへの投薬内容を確認した結果、過剰投与が判明し、この日3回目のベナンバックス投与は中止された。その医師は、午後6時段階の血液検査のデータから、Aさんがベナンバックスの過剰投与で著しい低血糖の状態になっていることに気づき、症状を改善するため、ただちにブドウ糖の投与を指示した。ブドウ糖の投与で血糖値は上昇したものの、意識障害は改善しなかった。

 その後、低血圧を回復させるための治療などが数日間にわたって行われたが、症状は改善しなかった。Aさんは腎機能や肝機能の低下が進み、過剰投与が判明してから10日後の11月10日午後10時6分、死亡した。直接の死因は、低血糖による遷延性中枢神経障害、肝不全、腎不全であると診断された。

事故調査と再発防止策

 Aさんの死亡から2カ月後の2006年1月に虎の門病院がまとめた事故調査報告書によると、同病院は過剰投与が判明した翌日の2005年11月1日午後5時に呼吸器センター内科部長が家族に薬剤の過剰投与の事実と低血糖、低血圧、腎障害の副作用について説明し、謝罪した。11月2日に東京都、同7日に警察に事故を報告した。病院は同7日に報道機関に事故を公表し、翌8日には記者会見を開いて事実関係を説明した。

 調査委員会は同年12月26日まで9回開催され、事故の原因を分析し、再発防止策を検討した。薬剤の誤投与を防止するため、次のような対策を実施することにした。

  1.  研修医(※筆者注=医師法で「2年以上」と規定された臨床研修を受けている医師)及びレジデント(※筆者注=臨床研修終了後、より専門的な研修を受けている医師。ベナンバックスを過剰に処方してしまったAさんの担当医は臨床経験3年目の医師で、レジデントにあたる)が初めて使用する薬剤や不慣れな薬剤を処方する場合は、上級医のダブルチェックを受けることを義務化する。
  2.  注射オーダリングシステムでは、過去に1回量でチェックしていたものを、1日量でもチェックすることにする。
  3.  経口薬剤も含めて、添付文書に「警告」が記載されている薬剤と、これ以外の「危険である」と院内で認められた薬剤については、過量投与の入力をシステムが拒否するようにする。

提訴

 Aさんの遺族が起こした訴訟の被告は、前述したように、虎の門病院を開設している国家公務員共済組合連合会のほか、同病院呼吸器センターの内科部長と同センター内科所属でAさんの主治医が学会出張中に主治医代行を務めていた医師、Aさんの診療を担当していた臨床経験3年目の研修医、同病院薬剤部の3人の薬剤師だった。

 遺族側は3人の医師と3人の薬剤師について次のような過失があると主張した。

 ●研修医の責任

 ①臨床経験3年目の研修医(レジデント)であり、本件事故までベナンバックスの投与経験はなかったのであるから、処方を行うに当たり、あらかじめ正しい用法・用量を確認するべきで、病院医薬品集の精査をすることでそれが容易に把握可能であったにもかかわらず、ベナンバックスの規定投与量の把握を怠った過失がある。

 ②投与3日目の2005年10月31日午前6時ころの時点で血圧が70mmHg程度にまで低下して重篤な低血圧状態に陥り、意識レベルの低下も確認されたのであるから、低血糖や低血圧などが生じる危険性のあるベナンバックスの副作用であることを疑い、投与量の確認や投与中止を検討することが可能であったにもかかわらず、漫然と投与を継続し、同日午後10時30分ころに別の医師の指摘を受けるまで過剰投与に気づかなかった。薬の副作用を看過し、これに対する処置を怠った過失がある。

 ●主治医代行の医師の責任

 ①主治医代行として治療について責任を負うべき地位にあったのであるから、臨床経験3年目の研修医が担当する治療行為には細心の注意を払って適切な指示や指導助言を行い、これを監督すべき高度の注意義務があった。ベナンバックスは重篤な副作用を生じる恐れのある劇薬であるから、自らその用法用量、副作用等について把握し、研修医に対してあらかじめ副作用が生じた場合の処置について指導助言すべき注意義務を負っていたにもかかわらず、ベナンバックスが劇薬である事実や副作用が起きた場合の処置等について、研修医には何らの指導助言を行わなかった。

 ②2005年10月31日午前6時ころの時点で血圧が70mmHg程度にまで低下して重篤な低血圧状態に陥り、意識レベルの低下も確認されたのであるから、低血糖や低血圧などが生じる危険性のあるベナンバックスの副作用であることを疑い、投与量の確認や投与中止を検討することが可能であったにもかかわらず、漫然と投与を継続し、同日午後10時30分ころに別の医師の指摘を受けるまで過剰投与に気づかなかった。薬の副作用を看過し、これに対する処置を怠った過失がある。

 ●呼吸器センター内科部長の責任

 ①呼吸器内科部長として、同科における治療行為全般を統括・監督すべき地位にあり、個々の患者に対する治療行為の具体的内容にわたって生命・身体に対する危険が生じることのないよう監督する義務を負っていたほか、自ら患者の治療行為にも携わっていたのであるから、自らが直接携わる治療行為については当該患者の生命身体に危険が生じないよう細心の注意を払うべき注意義務を負っていた。(Aさんに対する)ベナンバックスの投与を決定し、その処方を行う者が研修医である事実を認識していたのであるから、適切な指導助言を行って研修医の指示内容に誤りがないかを監督し、誤りがあればただちにこれを是正すべき注意義務があったにもかかわらず、ベナンバックスが劇薬である事実や副作用が起きた場合の処置等について、研修医には何らの指導助言を行わなかった。

 ②2005年10月31日午前6時ころの時点で血圧が70mmHg程度にまで低下して重篤な低血圧状態に陥り、意識レベルの低下も確認されたのであるから、低血糖や低血圧などが生じる危険性のあるベナンバックスの副作用であることを疑い、投与量の確認や投与中止を検討することが可能であったにもかかわらず、漫然と投与を継続し、同日午後10時30分ころに別の医師の指摘を受けるまで過剰投与に気づかなかった。薬の副作用を看過し、これに対する処置を怠った過失がある。

 ●X薬剤師の責任

 薬剤師法24条は、処方箋の記載内容を正確に読みとらなければならないという形式的な確認義務と、薬剤師がその薬学上の知識、技術、経験を活かして、その処方箋が患者の生命・健康の安全に害を及ぼさないようにしなければならないという実質的な確認義務を定めたものであり、当該薬品の用量というのは、薬剤師が薬学上把握しておくべき極めて基本的な知識に属するものである。したがって、医師からの処方箋により3日分のベナンバックスを調剤する際に、その用量についての知識を把握し、処方箋記載の用量が1日当たりの用量を超過していないかどうかを確認し、超過している疑義を持てば、ただちに医師に疑義を照会すべき注意義務があった。ところが、このような注意義務を怠って漫然と調剤業務を行い、規定量の5倍のベナンバックスの調剤であることを看過し、その用量に疑義を抱かず、医師に照会するなどの処置を採ることもしなかった。適切な調剤確認を怠った過失がある。

 ●YおよびZ薬剤師の責任

 虎の門病院では、医師の指示に従って調剤が行われた後に、調剤を行った薬剤師とは別の薬剤師がこれを監査し、用法、用量について誤りが生じないようにするシステムが採られていた。したがって、監査を行う薬剤師には、細心の注意を払って医師の調剤指示の内容及びこれによって調剤された薬剤の内容や用量に誤りがないかを調査し、誤りがあった場合にはただちに是正措置をとるべき注意義務がある。ベナンバックスの用量については、病院の医薬品集を確認すれば容易に正確な監査が可能であった。にもかかわらず、このような注意義務を怠って漫然と監査業務を行い、規定量の5倍のベナンバックスの調剤がなされていることを看過し、その誤りを是正することも医師に確認をとるなどの処置もしなかった。適切な調剤監査を怠った過失がある。

判決

 2011年2月10日、東京地裁は虎の門病院を開設する国家公務員共済組合連合会ならびに研修医、3人の薬剤師に対し、Aさんの遺族に2365万円の賠償金を支払うよう命じる判決を言い渡した。原告側は、研修医の上司に当たる呼吸器センター内科部長や主治医代行の医師にも過失責任があると主張していたが、東京地裁は2人の上級医には「過失があったとは認められない」との判断を示した。

 東京地裁は研修医の過失については次のように認定した。

 臨床経験3年目の後期研修医であったけれども、医師法の定める2年間の義務的な臨床研修は修了していた。また、後期研修医といえども、当然、医師資格を有しており、行える医療行為の範囲に法律上制限はない。しかも、医薬品集の左右の頁を見間違うという通常起こり得ない単純な間違いを行ったもので、医師としての経験の蓄積や専門性等と直接関係ない人間の行動における初歩的な注意義務の範疇に属するものである。

 そのうえで、東京地裁は研修医の上級医であるAさんの主治医代行の医師の対応についておおむね次のように評価した。

 (研修医から)投与量について相談された際に、書いてあるとおりでよいと、概括的ながら、添付文書や医薬品集に記載されている投与量で投与する旨の指示は出している。特別の事情がない限り、研修医が医薬品集などで投与量を確認し、その記載量で投与するであろうことを期待することは、むしろ当然であるといえる。本件事故は、研修医が、医薬品集の左右の頁を見間違えて処方指示をしたという初歩的な間違いに起因するものであるが、このような過誤は通常想定し難いものであって、このような過誤まで予想して、研修医に対し、あらかじめ、具体的な投与量まで指示をすべき注意義務があったとはただちには認められないというべきである。

 また、過剰投与があった以後の対応についてみると、10月29日及び30日はルーティンが入っていなかったため、病院に出勤しておらず、31日には、午前10時ころ、研修医から、(Aさんの)血圧が低下していること、胃管から黒い胃液が引けて、ヘモグロビンが急激に下がっていることから、消化管出血による血圧低下が疑われることなどの報告があり、これに対し、胃管からの出血、ヘモグロビンの低下、ステロイド性の潰瘍、胆癌などを総合的に判断し、癌の末期の合併症としても比較的よくみられることから、消化管出血による出血性ショック、血圧低下と評価し、輸液を行うことで良いことなどを指示している。このような診断は、不適当であったと認めるに足る証拠は存せず、少なくとも、この時点で、ただちにベナンバックスの過剰投与に気づかなければならなかったとはいえない。

 さらに、呼吸器センター内科部長の対応についてはおおむね次のように評価した。

 (Aさんの)診療を直接に担当していたわけではなく、主治医や担当医の報告を受けて、治療方針を議論するなど、各医師への一般的な指導監督、教育などの役割を担っていたといえる。10月28日に研修医から(Aさんの)容態について報告を受け、薬剤をベナンバックスに変更することを指示している。その際、ベナンバックスの投与量や投与回数、副作用への注意などについては、特に研修医に対して具体的な指示をしていない。しかし、研修医は3年目の後期研修医であって、処方できる薬剤にも制限はなく、ベナンバックスも単独で処方ができる薬剤であったこと、実際にベナンバックスを投与するに当たっては、当然、担当医である研修医が医薬品集などを確認し、自ら投与量や副作用などについて確認することが前提とされており、そのように期待することがむしろ当然であること、医薬品集の左右の頁を間違えるなどということは通常想定し難いことなどからすると、呼吸器内科部長がこのような過誤まで予想して、研修医にあらかじめ投与量や副作用などについて直接指示しなければならなかったとまではいえず、注意義務違反があったとまではいえない。過剰投与の事実が判明した後の対応も、腎センターのオンコール医師に連絡を取り、ベナンバックスを体外に排出する方法を確認するよう指示し、翌日には、安全管理者に報告がされており、過剰投与に対する処置についても、不適切な点があったとは認められない。

 では、薬剤師の責任について裁判所はどう判断したのだろうか(下線部は筆者による。以下、同じ)。

 判決はまず、薬剤師法24条の規定について「医薬品の専門家である薬剤師に、医師の処方意図を把握し、疑義がある場合に、医師に照会する義務を負わせたものである」との解釈を示した。そして、

 薬剤師の薬学上の知識、技術、経験等の専門性からすれば、かかる疑義照会義務は、薬剤の名称、薬剤の分量、用法・用量等について、網羅的に記載され、特定されているかといった形式的な点のみならず、その用法・用量が適正か否か、相互作用の確認等の実質的な内容にも及ぶものであり、原則として、これら処方せんの内容についても確認し、疑義がある場合には、処方せんを交付した医師等に問い合わせて照会する注意義務を含むものというべきである。また、調剤監査が行われるのは、単に医師の処方通りに、薬剤が調剤されているかを確認することだけにあるのではなく、前記と同様、処方せんの内容についても確認し、疑義がある場合には処方医等に照会する注意義務を含むものというべきである。

と述べた。

 こうした薬剤師の法的義務を前提にしたうえで、判決は、虎の門病院の医療事故をめぐる訴訟で被告となった3人の薬剤師の責任についておおむね次のような判断を示した。

 ●X薬剤師

 特に、ベナンバックスは普段調剤しないような不慣れな医薬品であり、劇薬指定もされ、重大な副作用を生じ得る医薬品であること、処方せんの内容が、本来の投与量をわずかに超えたというものではなく、5倍もの用量であったことなどを考慮すれば、医薬品集やベナンバックスの添付文書などで用法・用量を確認するなどして、処方せんの内容について確認し、本来の投与量の5倍もの用量を投与することについて、処方医に疑義を照会すべき義務があったというべきである。

 ●Y薬剤師およびZ薬剤師

 処方せんで指示された薬剤と調剤された薬剤とを照合し、処方せんに記載された処方内容と(Aさんの)薬袋ラベルなどとを照合しているが、それだけでは十分とはいえず、ベナンバックスが普段調剤しないような不慣れな医薬品であり、劇薬指定もされ、重大な副作用を生じ得る医薬品であること、処方せんの内容が、本来の投与量をわずかに超えたというものではなく、5倍もの用量であったことなどを考慮すれば、医薬品集やベナンバックスの添付文書などで用法・用量を確認するなどして、調剤された薬剤の内容に疑義を抱くべきであり、処方医に対し、疑義について照会すべき義務があったというべきである。

 虎の門病院では薬剤の処方にオーダリングシステムが採用され、用量を超えた処方内容については警告を発する機能が組み込まれていたものの、事故当時は「1回量」の上限が設定されていただけで「1日量」の上限が設定されていなかったことは前述した。このシステムを前提に、被告となった薬剤師たちは裁判で「オーダリングシステムを信頼していた」と主張したが、東京地裁はその主張を退けた。その理由の概要は次の通りである。

 オーダリングシステムの導入は、薬剤師と同システムとのダブルチェックによる過誤の防止という点で効果を発揮するにとどまらず、そのシステムの設定・活用の仕方次第で、機械的なチェックに馴染む画一的な事項については、システムによるより迅速で確実、網羅的なチェックが可能となり、数多くの医薬品について、限られた時間で、調剤・監査を行わなければならない医薬品の調剤・監査業務の事務処理を全体としてより合理化し得るものとして、重要な意義を有するものということができる。したがって、オーダリングシステムを導入する病院において、調剤・監査業務に関与する薬剤師等が、そのシステムの機能や具体的なチェック項目等について十分理解し、明確な認識を持った上で、当該システムが正常に機能することを信じて業務を行い、かつ、当該システムが正常に機能する技術的担保があるなど、これが正常に機能することを信じるにつき正当な理由がある場合には、薬剤師は、同システムが正常に機能することを信頼して自らの業務を行えば足りる<・u>ものと解するのが相当である。

 しかしながら、本件では、事故当時、病院のオーダリングシステム上1回量の設定しか行われておらず、これについて、被告病院の医師及び薬剤師らの間で明確な認識は共有されていなかったことが認められる。オーダリングシステムの設定自体の問題や病院内での当該システムの機能の周知体制などにも問題があったことは否めないものの、他方で、被告薬剤師らが、同システム上いかなる項目がチェックされているかについて明確な認識を持っていたものとも認められない上、1日量の設定がされていると信じていたという点についても、設定者や病院の責任者等から明確な説明を受けているなど合理的な根拠に基づくものではなく、正当な理由は認められないといわざるを得ず、被告薬剤師らの主張は採用できない。

「逸失利益」への裁判所の判断

 遺族が提訴した大きな理由は、Aさんのがんの見通しについて生前に病院側から受けていた説明内容と事故で亡くなった後に受けた説明が食い違っていたことや、Aさんの死後の病院側の対応に誠意がない、と感じたからだった。

 訴状によれば、遺族は2005年11月1日に呼吸器センター内科部長らから事故についての報告を受けたが、その際、実際にだれが過剰投与をしたかという話はなかった。処方を間違えた研修医はその場に同席しなかった。病院は11月8日に記者会見して事故の内容を説明したが、遺族は会見に関する報道に接して初めて、過剰投与が研修医によるものであることを知った。翌2006年3月11日にAさんの妻の自宅を訪ねた病院の事務職員は、事故の報告書を郵送するとともに、その後の話し合いの段取りの案を作成して郵送すると約束したが、いずれも郵送されてこなかった。そのため、遺族側から、事故に関する説明の場を設けてほしいと要望した結果、同年4月9日に虎の門病院で説明が行われることになった。

 当日、遺族は病院の会議室で病院関係者7人から説明を受け、事故の報告書も受け取ったが、遺族が入院中の疑問点を述べたところ、病院側の関係者はそれをメモしようともせず、後日、文書で郵送すれば回答する、と述べた。遺族はこの説明会での病院の対応から、質問状を送っても誠意ある回答は得られないだろうと考え、一度は質問状を送ることを断念した。しかし、病院から渡された報告書を読んだところ、あまりにも疑問点が多く、憤りを感じたので、同年6月12日に質問を記載した書面を病院に送った。それに対して病院側からは7月10日付の回答書が送られてきた。

 その回答書には、Aさんが肺がんのステージⅣで長期生存が難しいと診断されていたことが一度も説明されていなかったことについて、「完全に治癒しますというような説明はせずに、『完治は難しいので、抗癌剤でうまくコントロールしましょう』というような表現でご説明させていただきました。Aさん(※筆者注=訴状では実名)ほどのインテリジェンスのある方であれば、このようなご説明でも十分過ぎるほど、病状の深刻さはご理解いただけたものと思っておりました」と記載されていた。これを読んだ遺族は、「感情を逆撫でするような不誠実な回答」と受け止めた。病院側は補償額として500万円を提示したが、遺族側は不誠実な病院とは和解することはできないと判断し、提訴を決意した。

 遺族は、研修医が事故後一度も遺族に会って謝罪しなかったことにも強い怒りを感じていた。

 研修医はのちに法廷で、

 ご家族と個人的にお会いすると感情的にこじれてしまうから、理性的な交渉ができるようにするために、接触してはならないと何度も言われました。事故調査委員長を務めた副院長からは『(遺族との交渉は)大変うまくいっているので、安心して病院に一任しておきなさい』と言われました。しかし、2007年7月ころになって、交渉がこじれて訴訟になりそうだと聞きました。突然のことだったので、それまでの経過を病院の(代理人の弁護士の)先生に教えてもらい、書類などを見せてもらいました。そこで、私が一度も謝罪に行っていないことが問題になっていると言われました。書類のやり取りを見て、病院側がいかにご家族に冷たい対応をとったのかということがよく分かりました。その経過と、私が聞かされていた事実がまったく異なっていて、信じられない思いでいっぱいになり、(病院の弁護士とは別の弁護士に)私の代理人をお願いすることにしました。今回は、私の見間違いによる処方ミスで、結果としてこのような残念なことになってしまったことを大変申し訳なく思っております。結局、直接謝罪させていただくチャンスも持てないまま、このような場まで来てしまったことを大変申し訳なく思います。

と述べた。

 Aさんの遺族は、Aさんが医療事故に遭わなければ得られたであろう給与や年金などの逸失利益と慰謝料など約1億円の損害賠償を求めた。

 これに対し、東京地裁は「ステージⅣの肺腺癌を患い、脳転移、ニューモシスチス肺炎を合併している」ことを理由に、Aさんの生命予後は「極めて厳しいものといわざるを得ず、本件事故がなくても、生存できたのは、長くても2ないし4か月程度と認められ、再び就労することは不可能であったと言わざるを得ない」との判断を示して、Aさんの逸失利益は認めなかった。そして、Aさんと遺族の慰謝料、葬儀費用、弁護士費用などとして、計2365万円の賠償を命じる判決を出した。

 原告、

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