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連載小説7回裏:「ぼくは口が堅いのだけが取り柄なんだ」

滝沢 隆一郎

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 2日後の江口は最高だった。中島はバックネット下、1塁ベンチ脇の半地下にある球団関係者席、通称金魚鉢を出て、1塁側内野スタンドで観戦した。露骨に嫌な態度を取る久松優社長が試合を見に来ていたからというわけではない。純粋に一ファンに戻って、野球観戦を楽しみたくなったのだ。もちろん、実際に投げる球を受けた江口の美しい投球を見てみたい。今日はドームの屋根は開いていないが、スタンドに座って、緑の人工芝が鮮やかな広いグラウンドを俯瞰するのは気持ちがよい。

 試合前、久松社長から声をかけられた。

 「おお、まだ神戸にいたんかいな。調査委員会の結論は、わっしの言うたとおりになりそうやろ。疑惑なんて最初からあらへんのや。営業もせんと試合見物とは、さっすが本社の人間はちゃうなあ。そない暇なら、来年の球団カレンダーでも作ってもらおか。カレンダー屋さんよう」

 そう言うと、久松はにっと前歯を見せて笑った。

 球場で働くスタッフたちを中島が観察していると、久松の前では極端にへりくだった態度を取る者が多かった。神戸に来てから話をするようになった何人かの職員に水を向けると、久松が恐いのだという。

 彼らの話を総合すると、久松は、自分に恭順の意を示す社員には親しく接し意見も取り上げるが、一旦嫌われてしまうとパワハラまがいのいじめを受けて退職していった者も少なくないのだという。人間だから好き嫌いもあるだろうし、社長への陰口や不満の類なので話し半分に受け止めるとしても、望ましいことではない。

 その点、木村亜矢子はそつなく応対して久松の信頼を得ているようだ。しかし、久松は、木村亜矢子のことを狙っているんではないか、いや、2人は特別な関係にあるのではないかと言った職員もいた。その話を聞いたときには、中島もいい気はしなかった。これも嫉妬心なのだろうか。しかし、木村亜矢子に言い寄ろうとにやつく久松の顔を想像するだけで、おぞましく思えた。

 中島は、今は久松のことを頭から追い出し、試合を楽しもうと決めた。このあと仕事の予定はないので、1杯なら生ビールを飲んでもよいだろう。短パンにソックスというユニフォーム・ルックで、各ビール会社の売り子がはつらつと行き来している。

 多くは女子高生のアルバイトだが、やはり見かけが可愛く愛嬌のある女の子はお得意さんのファンがついて、売り上げが多いらしい。彼女たちは10キロ以上あるビール樽を担いで、1500円程度の日給プラス売り上げベースの歩合給である。歩合給は1杯30円かける販売数で、1日の販売数は50杯程度の売り子から200杯を超える名物娘までそれぞれらしい。

 階段にかがんで生ビールを注ぐ彼女たちの膝は自然と汚れる。それは投手の膝が土で汚れたり、スライディングをした選手のユニフォームの汚れと同じに思えてくる。売り子たちも、試合中に自分の持ち場で必死に戦っているのだ。

 試合の序盤は投手戦だった。ドラゴンズの若手投手もよかったが、江口はさらによかった。4回表まで、打たれたヒットは1本。三振はすでに7個奪っていた。

 4回裏、ベイライツも4番、5番が凡退し、6番、あんまんこと安田満。シーズン後半の疲れと打撃不振によりこのところ打順を下げられている。前半戦の量産でホームラン数はトップを維持しているが、8月の終わりに36号を打って以来、今月は1本も打っていなかった。36号が出たのは、飛ぶボール疑惑が報じられた試合だ。ボールのせいというわけではないだろうが、疑惑を払拭しようと焦り、結果を求めて強引に打ちに行き、打撃に迷いが生じていることは素人の中島にも明らかだった。

 安田は、二、三度軽く素振りをすると打席へ向かった。1球目、ゆるいカーブを見送りストライク。明らかに速球を待っている。2球目、外角のカットボールに手を出し、ファール。あっと言う間に追い込まれた。

 プロの打者といえども2ストライクを取られた後は打率が落ちる。しかも、安田は調子がよくない。セオリーどおり、3球目は内角高めにボールになるストレートで打者の体勢を起こしておいて、4球目、低めに落ちる変化球で討ち取れる計算ができる。上体が起きてしまい踏み込んで打てない上に、直前の速球の残像が残り、わかっていても低めの球をとらえられないのだ。

 しかし、若い右投手が内角高めに速球を投じたとき、ヴェテラン捕手の谷繁はどうして外角に1球外さなかったのか後悔したはずだ。安田が巨体を独楽(こま)のように回転させると、白球は高く高く舞い上がり、放物線はレフトスタンドへと消えた。

 1対0。

 今夜の江口は1点あれば十分に見えた。左バッターにはアウトコースへ逃げていくスライダーがきれていたし、右打者の外角低めへの変化球の出し入れも絶妙だった。何よりも中島が実際に捕球した右打者内角へのストレート、いわゆるクロスファイアーに失投はなかった。6回表、当てるのがうまい1番打者を見逃しの三振に仕留めた。

 6回裏の攻撃前は、いつものようにベイライツ・ガールのダンスタイムだ。もし本当に、この時間を利用して飛ぶボールにすり替えられていたとしたら、それを知った彼女たちは激しく怒るだろう。

 果たして、ベイライツはドラゴンズの投手陣を打ち込み、2点を追加した。しかし、今夜はミラクル・シックスとは言われないだろう。なぜなら、すでに5回の裏にも4点を取って、先発投手をノックアウトしていたからだ。

 スタンドは前半の投手戦に息を呑み、後半の猛攻に1塁側のファンは久しぶりに溜飲を下げた。応援する選手の一投一打に盛り上がる。安田が打ち、ショートの飯谷は難しいゴロを確実にアウトにした。中島はこれこそが野球観戦の醍醐味だと改めて思う。この半月、チームはファンの期待にまったく応えられなかった。それではプロ失格である。

 試合は終わってみれば、10対0、江口は1安打無四球完封、三振は15を数えた。

 江口がヒーローインタビューに呼ばれる。今の気持ちや調子がよかった球種などを質問され、最後にファンへのメッセージを聞かれる決まったパターンだ。

 「皆さん、これまでベイライツは不甲斐ない試合をしてきて、ご心配をおかけしました。昨日選手全員で集まりました。飛ぶボールじゃないから打てないとか、勝てないと言われるのはもうたくさんです。そんなこと、言い訳になりません。これから1試合1試合すべて勝つつもりです。はっきり言います。ベイライツは必ず優勝します」

 江口の口から飛ぶボールという言葉が出ると、球場内から大きなどよめきが起きた。さらに、必ず優勝という言葉にファンは大歓声で反応した。

 ベイライツは江口の言葉どおりドラゴンズに3連勝して2位を奪い返した。しかし、首位東京ジーニアスとの差は5ゲームのままだった。ジーニアスも、スワローズに3連勝したのだ。残り試合は20試合、ジーニアスに優勝マジック16が点灯した。ベイライツが逆転するには相当難しい数字である。

    4

 ぎょろり。大きな三白眼でひと睨みされた。目そのものに圧倒的な威圧感がある。目の下の涙袋のたるみが、目ぢからを強調している。

 「ベイライツの飛ぶボール疑惑の真相を教えてください」

 「どあほ。教えてくださいと言われて、教えるやつがおるか。知っとったって教えんぞ。第一、現場を離れて長いから、ぼくは知らん」

 目の前に座っている老人は、中島の質問をにべもなくはねのけた。

 根岸達夫。人は彼を「球界の寝業師」と呼ぶ。ライオンズ、ホークスの監督やチーム編成責任者を歴任し、他球団の裏をかくドラフト指名や中心選手の大トレードを次々と実現させ周囲を驚かせつづけた策士である。

 これはと見込んだアマチュア選手に、大学進学や社会人チームへの入団を表明させておいてドラフト単独指名するのは序の口。逸材の高校生を球団直近の高校に転校させた上、球団職員として採用し、他球団が手を出せないよう囲い込んだ上で、ドラフト単独指名するなどやり方が徹底していた。

 中島は、江口から、根岸の名前を聞き、一縷の望みをかけて自宅に押しかけたのだった。

 「勝手に人の名前を出しおって、江口のやつにもお灸をすえないかんな」

 根岸の人脈の広さは有名だ。超高校級の素材だった江口とも何らかのつながりがあるのだろう。有望なアマチュア選手に関する独自の情報網が日本中に張り巡らされていることは言うまでもない。根岸は、野球界に限らず、政財界にも知己は多く、また、右翼団体や暴力団幹部とのつきあいも隠そうとしなかった。そのこともあって、現在は、球界の第一線を離れ隠居の身であるが、根岸がこのまま大人しくしていると信じる野球人はいない。

 「あなたは、どれくらい野球を知っておるのか」

 「見るのは好きですが、何しろ素人ですので」

 「そんな言い訳しないで、勉強せな」

 「はい。いろいろ教えてください」

 「また、すぐ教えろや。人に頼らず、自分の脳みそで考えんか。何か面白いことを言うたら、こっちも何か教えたる」

 中島はどう答えたらよいか困った。稀代の策士が面白いと思うような話など知らない。もちろん、根岸は野球の話を要求している。追い込まれたときは、他人と違う発想で行け。植田オーナーの教えでもある。中島は、昨シーズン終了後に、セ・リーグの順位表を見たときの感想を思い出した。

 「えーっと、去年までベイライツは3年連続最下位です。しかし、去年は玉原監督が就任し、善戦しました。最終的に、首位ドラゴンズとのゲーム差は9.5。今季優勝するにはこの差を埋める必要がありました。
 そのためには、どうすればよいか。年間に10試合くらいは、勝っていた試合、勝たなければいけない試合を自分のミスで落としています。全部勝つのは無理ですが、せめて半分の5試合、去年なら落としていた試合を白星に変えることができれば、勝ちが5増え、負けが5減るので、ゲーム差にして5、上位に行きます。
 もしドラゴンズが、勝っている試合を5つ取りこぼせば、5ゲーム分下がります。と言うことは、昨年のドラゴンズとの対戦成績7勝16敗1分を、5つひっくり返して12勝11敗1分にすることができれば、数字上は、首位ドラゴンズと順位が入れ替わることになります。勝ち越し1つなら、できないことはありません」

 「なかなか面白いことを言うねえ。それで飛ぶボールを仕込んだやつが出てきたのかも知れんなあ」

 根岸は愉快そうに笑いを浮かべた。飛ぶボールへの言及が冗談なのか本気なのか、わからない。

 野球は数字の競技でもある。チームも選手もあらゆる成績が数値で表される。データマニアの中島が昨年ふと思った考えを聞いて、根岸が話をしようかという気になったのは事実だ。

 「プロ野球の歴史はなあ、スター選手のホームランや剛速球が表の世界だとすると、裏の世界は騙し合いと言ってもええ。天性の才能、技術に劣る者は、いかにここを使うて相手を倒すかや」

 そう言って、根岸は自分の頭を指さした。

 「例えば、今でこそセもパも予告先発になっておるが、昔は、まず相手の先発投手を予測し、相手は裏をかくところから、戦いは始まっとる。球場で先乗りスコアラーが相手チームの様子を探るなんての当たり前や。ぼくらの全盛期には、相手エースを尾行し、自宅まで張り込んで、先発するかどうか生活パターンを調べ上げたこともあったで。おかげで、相手選手のスキャンダルはみんなわかっとった」

 根岸は往事を思い出したかのように口元をゆるめた。シーズン終盤の首位決戦直前に、根岸のライバルチームの監督や主力選手の不祥事が週刊誌に報道され、優勝争いから脱落していったことも確かに何度となくあった。

 「それからな、名前は言えんが有名な某監督が得意だったのは、相手ベンチのサイン盗みやった。敵チームの3塁コーチのブロックサインをビデオに取って解明してな、試合中にスタンドから双眼鏡で覗かせて無線でベンチに知らせるわけや。
 そんでもって、彼の方は自分のサインは盗まれないように、いっつもベンチの壁に隠れるようにして見えたり見えなかったりしておったわ。やつの下で働いた作戦コーチたちは、他球団への再就職で重宝されてなあ。どの球団もサインの盗み方を知りたがったってわけよ」

 テレビの野球ニュースでは語られない話に、つい聞き入ってしまう。根岸には、会って直接話を聞いた人を信用させてしまう天性の才能があると中島は思った。他球団を欺くドラフト指名も、当の選手本人が根岸を信頼しなければ成り立たない話だ。

 「少し前だって、ドームランって言うんのか、東京ジーニアスの球場はホームランが出やすいなんて、まことしやかに言われとったやろ。やれ密閉式で天井をふくらませているドームだから気圧が高くてボールが飛ぶとか、攻撃中だけホームからセンター方向にものすごい空気の風を流しているとかあることないこと言われとった。本当かどうか根拠があるかは知らんよ。でも、ぼくはラビットボール、つまり、よく飛ぶボールを使ってるんじゃないかとにらんだシーズンもあったけどな」

 60半ばを過ぎているはずの根岸は、ぼくという一人称を使ったが、気持ちが若いせいか、不思議と違和感がない。

 「結構、飛ぶボールのような話や自分のチームに有利なようにすることもあるものなのですね」

 「ぼくに言わせれば、ボールに限らず、似たようなことはどのチームも多かれ少なかれやっていると思うよ。結局、勝負の世界は、勝った者勝ち。負けた者は何を言っても言い訳になるってことよ」

 「しかし、今回、もしルール違反した事実が明らかになれば、ベイライツは失格というか、成績をはく奪されてしまう可能性はありませんか」

 「今までに、そういう処分を受けたチームはなかったはずや。確たる物証がない以上、日本プロ野球機構には、そこまで踏み込む度胸はないと思って見てるよ」

 それを聞いて、中島は少し安心した。

 「それにしても、江口は惜しいことしたな。ぼくが大学進学するって言わせてたのに、ベイライツが強行指名してしもてな。そしたら、やつは何と言ったと思う」

 「わかりません」

 「どの球団に入っても、相手は自分が投げる球を打てません。どうせなら、強いチームより弱いチームで投げる方が早くエースになれるでしょ、根岸さんもベイライツに来て、一緒に強いチームを作りませんかと言いよった。ベンチの野球は頭でするけど、選手はやっぱりここの強さやね」

 根岸は、中島の目を見ながら、右手のこぶしで自分の左胸を叩いた。

 「ところで、あなた、目利き千人という言葉を聞いたことがあるか」

 「いえ、ありません」

 「世の中には、目利きと呼ばれる人が千人はいる。腐らず一生懸命がんばっていれば、必ずいつかどこかで、見ていてくれて評価してくれる人がいるという意味だ。いろいろ悩んだり困ったりしているのかも知らんけど、そういう気持ちを忘れたらいかんで。選手のことは自分の子どもだと思って、ぼくはそういう言葉をかけてきたんだ」

 「ありがとうございます。御礼ついでに、飛ぶボールの件は何かヒントだけでもいただけませんでしょうか」

 「おお、今日はその件で来たんだったな。やはり、物事は見えているようで、見えていない。目の前のものを見ているつもりになると、別のものが見えない。思い込みとは厄介なものだ」

 これではまるで禅問答だ。何が言いたいのか中島にはわからない。

 「ぼくは、これでも口が堅いのだけが取り柄なんだ。本当のことを言うと、死人が出るからね」

 根岸が口にした「死人が出る」という言葉に中島は驚いた。それは、神戸に着いてすぐ、受け取った脅迫文のフレーズだったからだ。根岸は、飛ぶボールの真相を知っているのか。中島を見据えた大きな三白眼は笑っていなかった。まさか根岸自身が事件の黒幕なのだろうか。

 中島は、茫漠たる思いのまま、根岸の自宅を辞去した。(次回につづく

 ▽この物語はフィクションであり、登場する人物や会社、組織などはすべて架空のもので、実在のものとは異なります。