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連載小説8回裏:ゲームの世界の架空通貨と景品表示法

滝沢 隆一郎

     3

 東京本社に戻った日、中島は植田オーナーの秘書にアポイントを求めた。すぐに植田の方も急用があるからと呼び出しが来た。閑職とはいえ、この1ヶ月以上、本籍地の新規企画部の方は後輩に任せっぱなしになっている。オーナー特命だからと言って、担当業務をおろそかにするわけにはいかない。後輩や部長と意見交換を行い、神戸からの手土産は欠かさないようにした。自己保身と言えばそれまでだが、男社会の思わぬ嫉妬を買って、足を引っ張られるのも困る。

 16階へ上がると、植田はにこやかに中島を迎え、握手を求めてきた。オヤジの機嫌がいいときは気をつけろ、側で仕える先輩から口酸っぱく言われた日々を思い出し、中島は口元をほころばせた。

 「わしの前で思い出し笑いとは、けしからんやっちゃな」

 植田の目は笑っている。

 「CEO、お変わりなさそうで、何よりです。暑い夏が終わって朝夕は冷え込みますし、疲れも出やすいのでお体お気をつけください」

 「人を年寄り扱いすな。そんなことより、神戸ではご苦労だった。調査委員会の報告書も読んだ」

 「恐縮です」

 中島は一礼した。飛ぶボール疑惑については、その後新たな事実はなく、物証は見当たらずという調査委員会の報告書をもって一応の収束を見せた感がある。

 「実はその件で、おおよその真相が見えてきそうで、今日はCEOに特別にお願いがあって参上しました」

 「やはり、まだ何かあるのか。そうか、わかった。わしの方の用はな、例の3Dsの寺川君が急に会いたいと言ってきてな」

 中島は、3Ds、ドゥンガ・ディメンション・デパーチャーの寺川旺太朗社長の太縁メガネと自信に満ちた笑顔を思い出した。勝ち組中の勝ち組エリート、弱肉強食、栄枯盛衰はげしいITネット業界の生き残り。

 最近も週刊誌の自宅拝見コーナーに、渋谷区松濤にあるマンションの広いリビングからガーデニング庭園を優雅に眺める姿を披露していた。そのあたりは東京の中でも超のつく一等地で、億ションどころか数億円はするだろうという物件である。あんな風に何でも手に入れて生きられたらどれほどよいだろう。しかし、人間は自分の生き方しかできない。自分は自分、寺川は寺川、ただそれだけのことだ。

 「それでは、寺川社長から、正式に球団買収の金額提示があるのですか」

 「特に用件は言わなかったが、そうかも知れんな」

 「と言うことは、CEOは、ベイライツを売却するとお決めになっているんですか。今、彼らは初めてのリーグ優勝のために、力の限り戦っています。この時期に身売り話が本格化することは避けるべきです。せめてペナントレースが終わるまで、正式発表をお待ちいただくわけにはまいりませんか」

 「お、ずいぶん熱くなっとるやないか。まあ、そうあわてるな。まずは寺川君の話を聞いてからだ」

 植田が右手で制した。笑顔が消えたところを見ると、本意ではない苦渋の決断ということなのか。

 「日本プロ野球機構の方からも、結構プレッシャーがあるのですか」

 「調査報告書を出しておいたから、今のところ表立った動きはないようだ。しかし、寺川君は、東京ジーニアスのワタゲジさんから球団買収の了解を取りつけたそうだ。そうなると、反対できる者はおらんやろ」

 ワタゲジは、オーナー辞任後も実権を握っている東京ジーニアスの最高名誉会長だ。姓の渡瀬と太い眉毛から、そう呼ばれている。

 プロ野球の試合を初めて見たワタゲジは、打った後、左の方に走ることはできないのかと質問し、お付きの者は発言の意味がわからなかったという逸話が残っている。真偽のほどは不明だが、ワタゲジは「左の3塁に向かって走れば、セーフになったかも知れないのに」と口走ったほどの野球音痴らしい。

 「自分の球団の譲渡までワタゲジごときの差配に従うとは、相手が大きければ大きいほど闘争心をむき出しに向かってきたCEOらしくありません」

 「こいつ、本人に向かってよう言うわ。彼の周りにいる人間が、飛ぶボール疑惑の安田を東京ジーニアスに引き取ってもよいとか、球団売却を拒否しても、FA資格を取得した江口を引き抜くとか、うるさくってな」

 「FA選手との事前交渉はタンパリングと言って禁止されています」

 「おいおい、東京ジーニアスがやれば、黙って見逃すのが日本のプロ野球界の憲法第1条だというのを知らん君じゃあるまい」

 中島は沈黙した。優勝争いをつづけている玉原監督や江口ら選手たちには何と説明すればよいのだろう。飛ぶボール疑惑の騒動を大ごとにせず、どうにか抑えてきた努力は無駄だったのか。

 ややあって秘書が寺川の到着を告げた。

 「植田会長、それに、えーっと」

 「中島です」

 「ああ、どうも。会長、急にお伺いさせていただき、誠に恐縮です」

 笑顔もなく表情が固い。秘書がお茶を出す時間も待てずに、寺川は応接机に両手をつくと、いきなり平身低頭した。

 「植田会長、このたびの球団譲渡のお話は、少し長めにお時間を置いていただけませんでしょうか」

 「いきなりどうしたんですか」

 植田が黙っているので、中島が質問した。

 「それが、詳しいことは今私の口からは」

 「それでは、当方も事情がわかりません。もう少し納得のいく説明をしてください」

 「申し訳ありません」

 寺川は頭を下げたままだ。これでは、らちがあかない。

 「寺川社長、すでにワタゲジさんの了解も取りつけて、金額提示をいただく段階と聞いておりましたが」

 「渡瀬最高名誉会長様にも、先ほどお詫びのごあいさつに伺ってきたところです」

 「ばかもん。ワタゲジのところへ行く前に、まずわしのところに来るのが筋だろうが。もうわかったから、帰りたまえ」

 植田気合いの一喝に、寺川が顔を上げた。

 「会長、今回は一旦撤退いたしますが、いつか近い将来必ず、もう一度ベイライツをお譲りいただけるよう参上させていただきます」

 「いつでも待ってますよ」

 笑みを浮かべて鷹揚に答える植田も大人物だが、起業家のIT社長は、さすがにめげないなと中島は感心した。恨みがましい捨て台詞(ぜりふ)というよりも、清々しささえ感じさせる表情に思えた。

 寺川が退出した後、中島は植田と向き合った。

 「CEO、いったいどういうことでしょうか」

 「わからん。2、3日したら、わかるやろ」

 「と言うことは、球団売却は白紙に戻ったということですね。ありがとうございます」

 「世の中わからんぞ。寺川君に限らず、ベイライツがほしいと手を上げる企業がまた出てこんとは限らん。うちのいちばんの人気商品だな。わっはっはっは」

 植田が快活に笑った。

 「それで、最初に申し上げたお願いごとですが、カード事業部に頼みごとがあって、オーナーのご許可とご指示をいただきたいのです」

 「わかった。担当執行役員に伝えておく」

 理解のあるトップに恵まれた自分のサラリーマン人生も捨てたものではなかったなと、中島は深々と御辞儀をした。

    4

 ベイライツがカープに三タテを食らわせ、連勝を9に伸ばした翌日、朝刊各紙は、3Dsに関する記事を一斉に報じた。消費者庁は、3Dsが運営している携帯電話ゲームの課金方法が景品表示法に違反しているとして行政指導を行ったのだ。

 正式な法律名は、不当景品類及び不当表示防止法という。商品やサービスの品質、内容、価格等を偽って表示を行うことを規制し、また、過大な景品類の提供を防ぐことで、消費者がつられて実際には質のよくない商品やサービスを買ってしまう不利益を防ぐ重要な法律である。

 3Dsの携帯電話ゲームでは、強力なカードやアイテムと呼ばれる装備品を入手するために、何度もくじを引かなければいけない方法を取っており、ユーザーの間で、「完全ガチャガチャ」と言われている。ガチャガチャは昔の駄菓子屋などにあったカプセル入りのミニおもちゃのことだ。

 ゲームの世界では架空の通貨が使われ、後日、携帯電話料金と一緒に請求されるため、ゲームに熱中しすぎて何度もくじを買った子どもの親に常識を超える高額請求がなされる場合も多く、消費者庁には完全ガチャガチャの苦情が寄せられていたと記事に書いてあった。

 その日から3Dsの株式は投げ売りされ、ストップ安となった。当然、今後の売り上げは大幅に減少することが予想され、企業イメージも悪化してプロ野球参入どころではなくなった。

 東京都町田市にある自宅に帰った中島は妻のさゆりに完全ガチャガチャの話をした。

 「うちの子は、そういうのにはまっていないのかい」

 神戸に行くようになったせいもあるが、このところ娘と話をする機会がほとんどなくなっている。いや、この1年でどのくらい話しただろうか。妻からは、同級生との人間関係で少し悩んでいるとも聞いていた。思春期という言葉で片付けるわけにはいかないが、男親は立ち入りにくい領域である。

 「ミツオ君、娘のこと、何にも知らないんだから。携帯電話のことは大丈夫。友だちのことは、本人が親に話せる気持ちになるまで待ちましょうよ」

 「そうかなあ」

 「あの子は大丈夫よ」

 「なんでわかるんだい」

 「ミツオ君と私の子だからよ。信じてあげましょう」

 中島はそんな根拠があるかいと思いながら、妻の話を聞く。たいていの夫は一日の仕事で疲れて、帰宅後、妻の話を聞きたがらない。妻はずっと夫と話をしたかったのだから、ただ聞いて「そうだよね」と共感してほしいだけだ。妻の話を聞くのは夫の責務、いや愛かな。夫と妻が話す量は1対3くらいの割合でちょうどよい、それが難しいんだけどと中島は思う。

 「少し前にも無料ゲームってテレビCMで宣伝しながら、実際にはゲームに勝つために有料で武器とか買わなきゃいけないのが問題になってたわよ」

 「え、知らなかったな」

 「子どもや若者相手に、無料って誘って、高額の請求をするなんて、ぼったくり詐欺みたいなものじゃない」

 「一応社会的に認められている企業なんだから、そこまで言うなよ」

 「あら、ミツオ君は、いつからそんな日和見な人間になったの。結婚相手を間違えたかしら」

 妻は言いたい放題である。確かに、普通に考えればあまり誉められた商売とは言えないかも知れない。数字としての売り上げを増やすことしか考えないなら、法律で明確に禁止されていないことは何をしてもよいと考える企業が出てきてもおかしくない。

 しかし、そんなことをしていて企業は長くつづくのだろうか。顧客から信頼され愛好される企業になれるのだろうか。自分の子どもには勧められない商品やサービスを売っていて従業員は働きがいを感じるのだろうか。そんなことを考えるから、お前は評論家だと社内で言われるのかなと中島は省みる。

 「きっと、植田さんは、おかしな宣伝とか、今回の何とかガチャガチャだって、いつか問題になるとか、そういうのお見通しだったんじゃないかしら」

 「また、そんな根拠のないことを言って」

 妻の植田贔屓(びいき)は何度も聞いてきた。近くで働いているこちらは、無理難題を押しつけられたり左遷されたり、ひどい目にあってるんだぞと言い返したいところだ。しかし、歴戦の強者である植田のことだ、消費者庁や消費者団体にもそれなりのルートや情報源を持っていてもおかしくないなと思い直した。妻が業界

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