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連載小説9回表:飛ぶボール疑惑の真相

滝沢 隆一郎

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 10月8日、晴れ。

 首位東京ジーニアス、143試合、74勝59敗10分、勝率5割5分6厘。

 2位のベイライツ、143試合、72勝59敗12分、勝率5割5分0厘。

 ゲーム差は1あるが、今日、ベイライツが勝ち、ジーニアスが敗れれば、勝率で1厘上回ってベイライツが逆転する。引き分け数の差が勝率に影響するのだ。リーグ優勝となれば、新球団なってに以来初めてのことだ。

 ベイライツは、ホームでタイガース戦。予告先発はカーペンター。外国人投手に大事な試合をまかせて大丈夫か。しかし、外国人は自分のプレッシャーを楽しむと言われるし、何よりチーム2位の13勝をあげている。タイガースは4位だが、クライマックス・シリーズ出場にわずかな望みを残しており、捨て身で勝ちにくるだろう。

 ジーニアスも同じくホームでカープ戦。カープはすでに最下位が確定し、モチベーションが高いとは言えない。予告先発はジーニアスが沢田。今やローテーションの柱に成長している。一方、カープは二軍から上げたばかりの若い投手だった。来シーズンに向けて一軍経験を積ませたいという育成意図が見える。とはいえ、最初から試合結果を捨てているようなものだ。首位のジーニアスは勝てば優勝。取りこぼしはほとんど期待できない。

 ベイライツの親会社、コンビニ事業を営む株式会社スポライの新規企画部次長、中島光男は思う。2位で終わっても健闘は讃えられるだろう。特にシーズン終盤、飛ぶボール疑惑から立ち直った勢いは見事だった。もちろん、この後のクライマックス・シリーズを勝ち上がって、日本シリーズへ駒を進める可能性だってある。

 しかし、2位は2位だ。3月下旬から足かけ8ヶ月、144試合を戦い抜いた結果の1位と、合計10試合にも満たない短期戦で勝ち上がったチームと、どちらが真の強者の座にふさわしいだろうか。

 リーグ優勝チームは前者と定められ表彰される。ペナントレースの優勝チームは球史に永遠に残るが、2位のチームは来年には忘れられる。だからこそ今夜勝って、何としても優勝したい。

 今日は、スポライのCEO代表取締役会長でベイライツのオーナーであるコンビニ王、植田力が東京本社から駆け付けることになっている。植田にとっても優勝は悲願である。

 試合開始は午後6時だが、中島は朝早くから球団事務所に出ていた。球団職員たちが最終戦の企画イベントの最終チェックで動き回っている。当然大入り満員が予想される。指定席はすべて売り切れ、わずかだが自由席を当日券として販売することにした。早い時間から、両チームのファンが球場周辺に集まりだしているのが事務所の窓から見える。それぞれ自分が好きな選手の背番号と名前を入れたレプリカ・ユニフォームを着た集団が盛り上がっている。

 プロ野球界も各チームも彼ら彼女ら無数のファンの応援があって成り立っていると中島は改めて実感した。ときに、そのことを忘れた一握りの権力者が自分に都合のよい要求を押し通そうとするから、おかしな騒動が起きる。ファンあってのプロ野球、ファンのためのプロ野球、ファンが喜ぶプロ野球。お題目のように唱えられても、結局一番大事なファンは置き去りにされてきたのだ。

 午後4時予定の開門時間を30分早めることにした。外野自由席を中心に、ファンがスタンドに殺到する。せっかくの野球観戦で将棋倒し事故が起きないよう整序するのもスタッフの重要な仕事だ。

 「木村室長、久松社長は、どちらにいらっしゃいますか」

 「えーと、事務所にいないようでしたら、球場の方だと思います」

 中島は木村亜矢子社長室長を見つけると声をかけた。今日の試合が終われば、彼女と会うことはもうないかも知れない。ほんの短い関わりではあったが、閑職に追われ傷を負った中島の心の中に小さな灯りを点したことは間違いない。感謝の気持ちである。

 「そうですか。今日は忙しいですしね」

 「久松社長にご用ですか」

 「実は、飛ぶボール疑惑の真相がわかりまして、今後の対応について、直接ご相談させていただきたいと思いまして」

 「えーっ、私にも教えてください」

 「何しろ内容が内容ですから、久松社長に、午後7時に、ベイライツ・ホテルの私の部屋、2826号室でお待ちしていますとお伝えください。これが真相をまとめた調査資料です」

 中島は木村室長にそう伝えて、資料が入った大判封筒を渡した。

 試合開始前の球場では、両軍応援団のトランペット部隊も張り切って、各選手の応援ソングを吹奏している。グラウンドでは先にベイライツが、そしてその後にビジターのタイガースが練習を行う。

 ベイライツは、ロッカールームでシーズン最終戦のミーティングを行った。中島は監督付きということで特別に入室を許されている。ジーニアスとの3連戦で2度登板したエース江口史隆は今日もベンチ入りしていた。

 最初に、打撃コーチが相手の先発投手について攻略方針や狙い球の確認を手短に説明する。その後、われらがチャンプ、玉原一郎監督が立ち上がった。

 「選手たちは1年間よく戦ってくれた。私はそのことを誇りに思うと同時にみんなに感謝する。今日も1球1球おろそかにせず、最後まで全力で戦おう。悔いが残らないよう選手交代は早め早めに行うので、全員、総力戦を覚悟しておいてくれ。
 それから、他の球場の途中経過は気にしないでもらいたい。それは自分の努力ではコントロールしようがないことだからだ。仮にジーニアスが大量リードしているからと言って、われわれが目の前の試合で手を抜いていいわけはない。
 自分は、自分にできる目の前のことに全力でぶつかろう。ベストを尽くして勝利を収めたとき、われわれは顔を上げ、堂々と胸を張ってシーズンを終えることができるはずだ。以上」

 玉原監督がぽんと手でたたいて演説を終えると、あちらこちらの選手たちから「うぉー」「よしっ」などと声にならない気合いがもれ出た。

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 午後5時30分、球場内に先発メンバーがアナウンスされる。ベイライツの玉原監督は、左投手の能見に対し、あんまんこと安田満を4番に戻し、8番ショートにはレギュラーを獲得した飯谷裕三を入れた。

 ベイライツは気合い十分で臨んだはずであったが、開始早々、タイガースに2点を先取された。四球やエラーが出たのだ。気持ちばかり空回りして、動きが固くなっていることは明らかだった。

 中島はベイライツ・ホテル28階の部屋に戻って、午後7時になるのを待った。

 思えば、最初から不思議な事件だった。自分が探ろうとしても真相は見えず空回りばかりした。果たして久松社長は来るだろうか、それとも別の人か。自分がやろうとしていることは、会社の利益になることだろうか。今さら考えても仕方ない。そのときそのとき一番よいと思う判断をしていれば、結果について後悔する必要はない。

 室内のテレビをつけてみる。試合は0対2のまま3回表だった。このままずるずると回を重ねるのはよくないなと思う。午後7時ちょうどに部屋のチャイムが鳴った。ドアロックを外してドアを開ける。来訪者は中島が予想した人物だった。

 「試合中ですし、久松社長は植田オーナーのお供で時間が取れないとのことで、私が代役でまいりました」

 そう言うと、木村亜矢子は中島の脇をすり抜けて自分から室内に入っていった。甘くさわやかな香りが鼻腔をくすぐる。彼女の香水に気づいたのは初めてだ。セミロングの髪が揺れるストライプ入りの紺スーツの上下。スリットが入ったスカートと形のよいふくらはぎが見える。靴は黒いヒール。完璧な戦闘服だ。

 「まあ、いい眺め」

 左手の山側から右手の港湾部まで神戸の夜景が一望できる。

 「湾の灯り、ベイライツか」

 中島は応じた。眼下のすべてが自分の所有物になったかのように錯覚し、自分にはできないことはないという万能感を覚える。木村亜矢子も以前、この高層階からの眺めを見て、そのような思いを抱いた瞬間があったのだろうか。

 「私の調査報告書はお読みになっている前提でいいですね」

 窓を背にして向き直った彼女に、中島は声をかけた。

 「ええ。どうして私が飛ぶボールに取り替えた真犯人なのですか」

 「それを私の口から説明しないとお認めいただけませんか」

 「それはそうです。何しろ私は重大な犯罪者扱いされているのですから」

 木村亜矢子は笑いを浮かべて首を少し傾げてみせた。

 「調査委員会は、6回裏の逆転劇は、飛ぶボールが使われているという噂を信じたプラセボ、偽薬だったと判断しました。しかし、エースの江口は私に、ボールが変われば自分はわかる、それは気分がよくないと言って、ボールが取り替えられた体験があることをほのめかしてくれました。実際、噂を信じただけであれば、あれほど多くの試合で逆転したり、ホームランが出るものなのでしょうか。選手の間に噂を広めるためには、噂を信じる根拠が必要なはずです」

 「それは、シーズン当初に、たまたま6回裏の逆転試合がつづいたからだって結論でしたよね」

 「そうです。私もベイライツの試合はケーブル・テレビを録画してだいたい見ていますから、その当時はさすがミラクル・シックス、すごい偶然だと思っていました。でも、それが誰かが意図的に仕掛けたものだとしたら」

 「ちょっと待ってください。仮定の話で私を疑ってるんですか」

 木村亜矢子は中島を見下すように言った。

 「最後まで聞いてく

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