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震災支援機構に出向して岩手県沿岸部で働いた経験

戸田 裕典

被災地を巡って

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
弁護士 戸田 裕典

㈱東日本大震災事業者再生支援機構への出向

戸田 裕典(とだ・ゆうすけ)
 2006年3月、慶應義塾大学法学部卒。2008年3月、慶應義塾大学法科大学院修了(法務博士(専門職))。2009年12月、司法修習(62期)を経て弁護士登録(第二東京弁護士会)。2010年1月、当事務所入所。2012年2月から2014年2月まで株式会社東日本大震災事業者再生支援機構に出向。2014年3月から地域経済活性化支援機構に出向中。
 平成24年1月、私のもとへ出向の話が舞い込んできた。出向先は㈱東日本大震災事業者再生支援機構(以下「震災支援機構」という。)であった。
 震災支援機構とは、東日本大震災による被害で過大な債務を負ってしまったが、被災地域で事業の再生を図ろうとする事業者に対して、金融機関等が有する債権の買取り等を通じ、債務の負担を軽減しつつ、その再生を支援することを目的として国が設立した株式会社である。かねてから私は事業再生に興味があった。また、東日本大震災が発生し、弁護士として出来ることが何かないかと模索していた。だから私は出向の話を快諾した。勤務地としては、仙台と東京という2つの選択肢があったが、被災地に少しでも近いほうがより被災地の実態を理解し、復興に貢献できると考え、仙台を希望した。
 被災地のために何かできないかと考えていたものの、恥ずかしいことに、震災後、被災3県といわれている福島県、宮城県、岩手県に直接足を運んだことがそれまでなかった。そこで、震災支援機構における業務が開始される前に被災地を訪問しておこうと思い、事務所のパートナー弁護士から知人を紹介してもらい石巻を訪問することとなった。
 東京駅から東北新幹線に1時間半乗ると仙台駅に到着する。仙台に到着した時は、街は活気にあふれ復興を果たしているかのような印象を受けた。ところが、仙台駅からさらに電車に1時間半乗り、石巻駅に到着し、知人の車で、沿岸部に足を踏み入れたとき、言葉を失った。街そのものがなくなっていた。広大な土地には建物はほとんどなく、がれきは残り、道路の真ん中に、海岸沿いの工場にあったタンクが横たわっていた。津波の脅威は想像を絶するほどすさまじく、初めて被災現場を見た衝撃は今でも鮮明に覚えている。東京にいる時の被災地に対するイメージとのギャップは大きく、誤解を恐れずに言えば、このようなところで事業が再開できるのか疑問を抱かずにはいられなかったというのが正直な感想であった。

業務開始

 平成24年3月5日から業務が開始された。震災支援機構の業務内容は、主に被災事業者の二重ローン対策にある。具体的には、被災したため追加の借入が必要になった事業者に対して、震災支援機構が、最長15年間の事業計画の策定を支援し、震災前の借入に対応する部分を金融機関から時価で買い取り、返済猶予、利息の減額、(場合によっては)一部債権放棄などを行い、返済負担を軽減させることによって事業を改善させる。その他、新規融資のための保証やつなぎ融資、出資などの機能も備えている。
 業務開始当初は、官公庁や地元の金融機関、商工会議所、商工会を巡り震災支援機構の周知に駆け回った。いくら立派な支援制度があったとしても、利用してもらえなければ何の役にも立たない。被災地の事業者は、震災支援機構の存在を知らないことがほとんどで、国が支援制度を創設するだけでは無意味であり、制度を周知させることの重要性を強く認識した期間であった。今では、官公庁や地元の金融機関の協力もあり、事業者に対する認知度もある程度上がり、平成26年3月末時点において、相談件数はゆうに1,500件を超え、支援決定件数も400件を超えた。

 私は岩手県の担当となり、主に沿岸地域に足を運ぶことで、数十社の事業者とかかわりを持たせてもらった。岩手県沿岸地域の被災状況はすさまじく、石巻沿岸部と同様、街そのものがなくなっていた。しかしながら、震災支援機構へ相談に来た、地元の多くの事業者は自分の仕事に誇りを持ち、震災からわずかな期間で、自らの力で立ち上がり、事業を再開しようと奮闘していた。被災をしていない私には想像もつかないような覚悟がそこにはあったのだと思う。被災地の事業者の話を聞き何度も目頭が熱くなった。
 震災支援機構にいる間、担当先の事業者の事業計画を作成するため、何度も沿岸地域に通った。仙台駅から盛岡駅まで新幹線で行き、そこからバスで2時間半もかかる場所であったため、出張の数は必然的に多くなった。多いときは月曜日から金曜日まで滞在することもあり、仙台に住居を備えていることに疑問を持つことも少なくなかった。
 事業計画策定に必要な資料が津波で流出していたり、利害関係人の調整が複雑だったりし、決して楽な仕事ではなかったが、支援を決定した事業者から感謝の言葉をかけられると今までの苦労はどこかに飛んでしまうほど充実感を得ることができた。支援決定後の事業者の明るい笑顔を見ると、私が震災支援機構に出向した意味を再確認することができ、次も頑張ろうと心から思うことができた。

出向を振り返って

 震災支援機構は、メガバンクをはじめ、全国の地銀、法律事務所、監査法人、整理回収機構など様々な職場からの出身者で組織され、地域ごとにチームを組み業務を進めている。同じ案件を見ても、出身母体が異なれば様々な意見が出てくるので、私自身も非常に勉強になった。夜遅くまで案件のまとめ方について意見をぶつけあった数はもはや数えきれない。
 売却損を抱えることになる金融機関も事業者を救いたい気持ちはあるものの、同時に被災者でもあり、納得できる計画でなければ、事業再生計画に対する同意を得られず、震災支援機構による支援を行うことができない。一方で、事業者の資金繰りも決して楽ではないことから、早期の支援決定が求められていた。スピードが要求される中、「Debt Debt Swap(DDS)」を利用すべきかどうか、債権放棄額をどうするか、無税償却が可能か、第二会社方式を採用するかなど、多くのことについて様々な専門家と毎日のように意見をぶつけあわせ、案件をまとめていった。一見すると対立する利害関係者を同じ方向に向かせる事業再生業務はまさに人と人のぶつかり合いであり、非常にやりがいがあった。
 被災地の復興という一つの目標のもと一体となって業務に取り組むことで、震災支援機構の中だけにとどまらず、かけがえのない仲間に出会うこともできた。各人の出向期間も終わり、元の職場に戻る人間も多いが、今後も継続して付き合っていけたらと心から思っている。

最後に

 みなさんに心に留めておいてほしいことがある。被災地には、防潮堤や区画整理、地域の嵩上げの問題など、まだまだ解決しなければならない問題が山積している。被災地を巡っていた者として一番恐れているのは、被災地以外の人々が震災を風化させてしまうことである。風化させてしまうことで、被災地の数々の問題解決が棚上げされ、どんどん被災地が全国から取り残されていってしまう。取り残されてしまえば、過疎化はさらに進み産業の衰退を招いてしまう。このような負のスパイラルに陥ることは避けたい。私自身も目で見て触れたことを覚えていたいと思う。
 ここで、事業者から言われた言葉で強く印象に残っている言葉を書き留めておきたい。
 「私たちは被害者ではない。私たちはリスクを承知でこの街が好きで住んでいた。だから、自分の力でできることは必死でやらなければ、助けてくれた人に申し訳ない。」
 平成26年2月26日をもって出向期間が終了し、事務所に戻ってきたが、あれほどの大災害に見舞われても、こうした思いを胸に頑張っている人がいることを忘れないためにも被災地には通って、遠くからでも支援を続けていきたいと思う。この記事が、みなさんが被災地への関心を持つきっかけになることを願う。