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異文化出身者たちがオープンに議論し、ともに悩み、楽しむ

清水 茉莉

若手企業法務弁護士の悩み:留学で得たもの

 

清水茉莉

清水 茉莉(しみず・まり)
 2004年3月、東京大学法学部卒。2006年3月、東京大学法科大学院修了 (法務博士 (専門職))。2007年12月、司法修習(60期)を経て弁護士登録(第一東京弁護士会)。2008年1月、当事務所入所。2010年4月から2011年3月まで東京大学法科大学院非常勤講師。2012年5月、米国New York University School of Law (LL.M.)。
 私はいわゆる企業法務弁護士として仕事を始めて現在で約7年半になる。この間、まず法律事務所に3年半勤めた後、米国に1年留学、企業の法務部に1年出向し、現在は経済産業省の国際経済紛争対策室に在籍している。直近の4年ほどはあまり事務所にいなかったことになるが、ふらふらしているようなこの道のりにも、国際仲裁や通商紛争等の国際紛争を自分の専門としていきたいという自分なりの理由があり、現在進行形で日々奮闘している。

 企業法務に関わる若手弁護士は、ある程度細分化された専門分野を自ら選択し、クライアントに認識してもらえるように特に努力していかなければならない。留学前の私は、手元の案件に取り組むだけで精一杯で、早く「自他ともに認める」専門分野を定めなければ、という、曖昧だが強い将来への不安があった。4年前の初夏、目前の外国生活に浮かれつつも、再び日本の地を踏むまでにいっぱしの専門分野を決めると決意して、留学先に旅立ったのだった。

 まず、ちょうどその年から毎夏パリで開催されるようになったInternational Academy for Arbitration Lawという、国際仲裁に関わる若手実務家・研究者のための3週間のセミナーに参加した。その年は雨が多く、毎日、夏とは思えないほど寒かった。とにかくインターネットがつながらず、毎朝、マクドナルドに駆け込んだ。それでも、初夏のパリは日が長く美しかった。パリ第2大学やパリ政治学院の瀟洒な教室や中庭、商事仲裁・投資仲裁それぞれのメッカであるICC(国際商業会議所)やICSID(国際投資紛争解決センター)の建物に入れるだけで興奮した。ICSID条約のコンメンタールの著者として何度も文献で名前を見たSchreuer教授の非常に整理された明快な講義も印象深かった。セミナー外でも、クラスメート達の宿泊していた学生寮のあるパリ北部の(観光地とは異なる)独特な雰囲気、ホームステイ先で寝苦しくて目が覚めたらお腹の上で寝ていた黒猫、パリ祭の花火やその行き帰りの道を歩いて帰る熱気溢れる人々、セミナー終了後1人連日さ迷い続けたルーブル美術館など、3週間の出来事は小さなことまでひとつひとつが思い出深い。だがやはりそれ以上に、多様な国籍の若手実務家・研究者のプライドや意気込みの清々しさ、また、仮にも「国際」仲裁を志向して集まった者同士だからこそと思われる、異なる文化出身の者に対して互いに徹頭徹尾オープンな姿勢に強い刺激を受けた。

NYUロースクール(Vanderbilt Hall)の中庭
 ニューヨーク大学(NYU)での留学生活でもやはり、同級生たちからもっとも感銘を受けたのは、それぞれの専門家としての強い自負と、(全員というわけではなく、また、アメリカという国であること、留学生ばかりからなるLL.M(法学修士)のプログラムであることなど環境による面も多いにせよ)あまりにも自然に国籍の壁を超えてくることだった。国籍、人種、文化、性別等にかかわらず、大勢で楽しむのが好きな人もいれば1人もの静かにするのが好きな人もいること、ニューヨークの誘惑に負けやすい人もいればストイックな人もいること、きれい好きな人も雑な人もいること、多かれ少なかれ仕事や家庭について同じような悩みを持っていることといったあまりにも当然のことたちを、私自身も、留学中にようやく身構えることなく自分の感覚として 理解することができたと思う。

ワシントンスクエア:春夏秋冬・日夜を問わずNYUロースクール生の憩いの場
 ニューヨーク州司法試験の勉強中、深夜、図書館から寮への帰り道で、突然トルコ人の友人が「運動不足だからどうしてもハドソン川まで散歩したい」と言い出し、試験勉強中特有のテンションのせいか 躊躇もせずによれよれの格好のまま散歩に出かけたことがあった。勉強時間を1時間無駄にするのも焦りを感じ始める時期だったし、NYU周辺は基本的に治安が良いとはいえ時間も時間である。あっちの道が明るい、こっちの道は人通りがあると騒ぎながら、眠っているようなグリニッジビレッジを西に早歩きで進んで行った。そのうちに仕事とプライベートの両立か何かについて話すなかで、友人がふと「友達が言うには、この人と結婚するというのはその人に初めて会ったときに分かるものらしいよ」と力強く言ったのである。そもそも伝聞なのであまり説得力はなく、深夜にジャージ姿で息を切らしながら話すにはある意味もったいない話でもあったが、彼女のきらきらした目を見て、私は、そういうものかもしれないし、彼女にはそうであって欲しいと思ったのだった。私たちはハドソン川の対岸に浮かび上がるニュージャージーの夜景を見て、外国人留学生らしくひとしきり興奮した後、同じ道を転がるように寮に帰った。深夜の散歩はその1回きりだったが、私にとって、異国から来た同級生たちと同じことに悩み、同じものを楽しい・美しいと感じたことが凝縮された忘れ難い思い出である。

 NYUで履修した授業で一番きつく、かつ、楽しかったのは、Silberman教授の「国際訴訟・仲裁」だった。当初定員に入れなかったところを、もう1人の学生とともにしつこく粘ってねじ込んでもらったのはいいが、ペアを組んだJ.D.(法務博士)コースの学生も教授も頭の回転が速すぎて、議論に口を挟むことすらままならない。相方の学生は、どうしても英語に詰まる私の議論にも辛抱強く付き合ってより良い議論を導いてくれるような、とにかく優しく賢い紳士だったが、模擬口頭弁論の日、(これだけはやりたくなかったが、もう原稿を読み上げるしかない、と私が青ざめている横で)彼は長文の原稿をひととおり暗記したうえに、小一時間身振り手振りを交えたプレゼンテーションの準備まで入念に行っていた。ここまでしなくてもある程度出来るはずの人がここまで努力することに驚き、私が今後国際紛争でネイティブと戦うことがあるなら、これ以上に努力しなければ敵わないとも思った。他方で、クラスメートがにやにやしながらいかにも面白そうに、君たちの準備書面はinterestingだったと言ってくれたことや、学生との真剣な議論をいつも心から喜び楽しんでいることが伝わるが迂闊に褒めることはない教授が、あなたは(最初は酷かったが)見ていて進歩が分かったと言って励ましてくれたことは、涙が出るほど嬉しかった。

 日本に帰ってからなぜ国際仲裁に関わりたいのかと聞かれたときに、こういう人々のことを思い出しながらうまく答えられないことが多かったのだが、改めて考えると、まったく異なる国・文化に属しているはずのそれらの人々と同じフィールドで働けるかもしれないということが一番強い動機になっていると思う。国際仲裁の世界では、異なる法文化に所属する各国の弁護士が、少なくとも理論上は、同じ紛争手続きのフィールドに完全にイーブンな立場で立つことができ、かつ、自国の法文化の理解はそれぞれの固有の強みになるはずである。そういった経緯で、私は、自分の専門分野を作るならこの方面しかないと思い込んでしまったのだと思う。

 帰国後新しい環境や困難な仕事で支えになっているのは、仕事自体への愛着のほかに、仕事の難しさも一瞬忘れられるような思い出の数々である。つまり、日本やニューヨーク州の司法試験 の勉強中に母親並みに相手を心配し合う友人達であったり、ルーブル美術館で夕陽のなか希望に燃え上がるように見えたフラゴナールの「若い芸術家の肖像」であったり、ケニアのサバンナで見た紺碧の空に浮かぶ真っ白な月であったり、深夜残業の合間に食い入るように見たPerfumeのキレキレの曲「NIGHT FLIGHT」であったりする。異国や出向先にいたこの数年間は、いつもと違う環境にいるという緊張感がそうさせるのか密度が濃かった。そういう幸せな記憶を忘れなければ、この先何でもなんとかやっていけるのではないかと思う。また、3つの職場を転々とするなかで、何気ない折々にそれぞれの職場の同僚や上司の思い出、それと密接に関係するような信念の一端に触れられたとき、出向によって様々な方々に出会うチャンスを多く得られていることを非常に幸福だとも感じる。

 この4年を振り返って、留学前の不安は結局払拭できたわけではないものの、将来何が起きるか分からないことにポジティブな気持ちよさも感じるようになった。これまで出会った人々にもまたいつか会えるかもしれないし、これからも同じように予想外に素晴らしい出来事や人との出会いがあるかもしれないわけだから。力ではなく論理で勝負する法律の世界は大好きだが、 結局のところ国籍や年齢や職業に関係なく尊敬する人々に出会えたことが、今の仕事を続ける理由だと思う。自分の好きなことをすることで、そういう人々が取り組んでいることに自分も貢献できるのならなお嬉しい。これまで迷走しつつも続けて来た企業法務をこれからもとにかく一生懸命続けていき、 出会った人々とのつながりを無駄にしないような良い仕事をしていきたいと、何かと怠けがちな自分に対する深い自戒も込めて改めて考えている。