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カンニングできる環境でカンニングしない自主ルール

楽 楽

バージニア留学記:留学で得たもの

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
楽 楽

楽 楽(らく・らく)
 2005年3月、東京大学法学部卒。2007年9月、司法修習(60期)を経て弁護士登録(第一東京弁護士会)、当事務所入所。2012年5月、米国University of Virginia (LL.M.)。2012年9月から2013年7月までニューヨークのCravath, Swaine & Moore法律事務所勤務。2013年8月、当事務所復帰。
 私は2011年の夏から翌2012年の夏まで約一年間、米国東海岸のUniversity of Virginia, School of LawのLL.M(法学修士)コースに留学した。2007年の秋にアンダーソン・毛利・友常法律事務所に入所してから、4年弱で留学に行ったことになるが、同期の中では早い部類である。もともとグローバルに活躍できる弁護士に憧れていたこともあり、留学には早く行きたいとずっと思っていた。また、入所して3年経つと任せられる仕事の量が増え、求められる質も高くなっていたので、留学を機に1、2年間海外逃亡を狙っていたのも事実であった。

 正直、バージニア大学(UVA)については、留学の出願を考えるまで全く知らなかった。出願をするのに際して、先輩方からいろいろ情報を収集する中で、UVAの存在を知った。早速、ウィキペディアで調べてみると、ワシントンDCから車で2時間くらいのシャーロッツビルという人口4万人の街にあり、アメリカ合衆国建国の父の一人、トーマス・ジェファーソンが創立した大学であることが分かった。そして、ジェファーソンの家があるモンティチェロと合わせて、大学自体がなんと世界遺産に指定されている。また、シャーロッツビルは、アメリカで最も住みやすい都市にも選ばれたことがあるようであった。妻も同じく弁護士であり、同じタイミングでの留学を考えていて、かつ子供も生まれる予定であったため、二人で学校に通いつつ子供を育てる必要があったこともあり、なんとなく、ニューヨークやロサンゼルスといった大都市よりも、暮らしやすいところがいいと考えていた。そのため、UVAに非常にいいイメージを持ち、そのまま出願した。幸い、私も妻も合格することができた。

 そして、2011年7月、いよいよ出国の日がやってきた。米国での生活を少し落ち着かせてから子供を迎えに行こうということで、まずは私と妻の二人で米国に向かうこととなった。ワシントンDCに着いてからはレンタカーを借りて、シャーロッツビルまでドライブすることにしたが、ワシントンDCを出てから、シャーロッツビルまでは100キロ近く続く一本道であった。両側は家がほとんどなく、辺り一面には牧草地が広がっていた。アメリカに来たなという感じがした。

 シャーロッツビルは想像以上にきれいでかわいらしい街であった。ほとんど高い建物はなく、ダウンタウンはレンガ色と白によって統一されていて、緑も豊かで、晴れた夏の日の日差しの中で街全体がキラキラしていた(私の記憶の中で美化されている部分もある)。そこから、既に日本で契約を済ませていたアパートに向かったが、ロースクールのすぐそばにあるアパート群の中の一室で、思ったよりもきれいで、しかも広い。100平米ほどあって、家具がまだなかったこともあり、東京で住んでいたマンションに比べると何とも解放感があった。本当にいいところに来たものだと妻と二人で騒いだ。

 しかし、そこから事態が少し悪い方向に向かった。夕方ころ、長旅の疲労や時差も加わって、だいぶ体がだるくなってきたので、どこかで夕食を食べてから、ホテルで早めに休もうと思った。車に乗り込んだ時から、雨が降り始めて、近くのレストランに着いたころには雨足がどんどん強くなり、雷も鳴り始めた。そして、食事の途中で、ついに停電となった。テーブルのろうそくの火を頼りになんとか食事を終え、外に出てみると、既に豪雨になっていた。昼間にはあまり気が付かなかったが、街にはほとんど街灯がなく、辺りはほぼ真っ暗になっていた。ホテルの場所は近くのはずだが、辺りが真っ暗の上、豪雨のせいで、いくらワイパーを動かしても前がほとんど見えない。ホテルを探すことに気を取られているうち、ふと気が付いたら習慣で左車線を走っていた。幸い、豪雨のせいか、対向車が全くなかった。さまよった挙句、何とかホテルに辿り着いたが、駐車場からホテルのフロントに行くまでの間にだいぶ濡れてしまった。シャワーを浴びようと思ったものの、ホテルも停電中であったため、シャワールームの電気がつかない。結局、携帯電話の明かりを頼りに何とかシャワーを浴びて泥のように眠った。今思い返しても、印象深い留学初日であった。

正面から見たUVAロースクール
 生活のセットアップに四苦八苦しながらも、サマースクール(夏の間の語学教室みたいなもの)を終え、8月中旬ころにロースクールでの授業が始まった。始まっていきなり、ロースクールのJ.D.(法務博士)コースの一年生(ほとんど米国人)とLL.M生(ほとんど米国外からの留学生)共同のボランティアがあった。ロースクールのエリート学生がいきなりボランティアをするというのは、なんともアメリカらしいと思って参加した。数百名の参加者がいくつかのグループに分かれて、老人ホームの手伝いに行ったり、壁のペンキ塗りをしたりした。私のグループは街の郊外の農家の手伝いであった。壊れたフェンスの修理、豚小屋の掃除など、これまでやったこともないものばかりであったので、はじめは新鮮な気持ちで取り組んだ。しかし、やはり、汚いし大変な作業なので、そんな面白半分な気持ちだけで続けられるものではなかった。しばらくすると、もうやめたいなと思い始めた。しかし、初対面の他のLL.M生やJ.D.生の手前、頑張っているところを見せなくてはと思い、そのまま作業を続けた。ほぼ作業が終わるころに、周りを見渡してみると、作業をしていた人数はかなり減っていて、多くの人はだいたいどこかで話をするか、休んでいた。特にLL.M生を見渡すと、まだ作業をしていたのは、日本人とドイツ人だけだった。ステレオタイプかもしれないが、こういうところでも国民性が出ているのかな、と思った記憶がある。

 ロースクールの授業がいざ始まってみると、語学の問題ももちろんあるが、大量の裁判例や文献を授業の前にあらかじめ読み、(程度の差はあるが)授業でディスカッションをしていく米国のロースクールのスタイルに当初全然慣れなかった。予習の時間がいくらあっても足りないように思われた。しかし、そんなとき、陽気な南米人のLL.M生と一緒にお酒を飲むと、悩んでいる自分がばからしく思えてくる。決して彼らが勉強をさぼっているというわけではなく(むしろヨーロッパから来た学生に比べると、南米から来た学生のほうが、米国にそのまま残りたいという願望が強いため、勉強に対するモチベーションが一般的には高いように思われる。)、単に性格が明るく、大体のことは何とかなると思っている人たちが多いだけ、という話である。

 また、ロースクールのテストの仕方に非常に驚かされた。テスト期間は10日ほどあり、いくつかの教科を除いては、いつ、どの教科を受けてもいいのである。自分がテストを受ける時に問題用紙を受け取り、テストの後に問題用紙を返すが、もちろん問題の内容は覚えている。そのため、その気になれば、問題の内容をこれから同じ教科を受ける友人に教えることは簡単にできる。また、テストの回答は自分のノートパソコンで作成するが、その際には、ノートパソコン内の他のファイルを開くことやインターネットに接続することもできる。そのため、例えば、インターネット上で問題の回答を検索しようと思えば、それができてしまう。学校によっては、テストの前にノートパソコンに特殊なソフトを入れて、他のファイルやウェブサイトへのアクセスを制限するところもあると聞いているが、UVAではそのようなことはなく、完全に学生の自主性に任せられていた。UVAには1840年代から、学生自身が運営する自主管理制度(Honor System)が存在し、全米最古の歴史を持っている。その中のルールの一つとして、"On my honor, I pledge that I have neither given nor received help on this assignment."というものがある。学生たちはそれを自らの意思で守っているというわけである。もちろん、このような自主ルールが100%守られているとは思われないが、それでも、学生たちが自らルールを決め、それを学生たちが自主的に守り、また、学校側がそれを認めるということを、150年以上前から続けているというのにはやはり驚嘆を隠せなかった。

 留学での出来事を長々と書いてきたが、まだまだ、留学での思い出は多くある。最後に一点。日本に戻ってくると、よく友人や後輩から留学に行ってよかったのかと聞かれる。見聞を広げた、外国の友人ができた、英語がうまくなったなどと一通りのことはすぐに思いつくし、実際、そうだった。英語については、自分の思うことをすらすら伝えられるレベルには達していないが、留学に行く前と比べると物怖じしなくなり、相手にわかってもらえるまで、粘り強く話すことを恥ずかしいとは思わなくなった。しかし、個人的には、それらのこと以上に、家族と一年間アメリカの小さな街で、ゆっくりした時間を共有したことが何よりも大切で、幸せだったと思う。留学の後、さらに一年間、ニューヨークの法律事務所での研修を終え、昨年日本に戻ってきたが、覚悟していたものの、やはり生活のリズムは速く、プレッシャーも大きい。しかし、それでもめげずに仕事に取り組むことができるのはやはり、楽しい思い出があるからだと思う。その意味で、幸せな思い出ができたことが留学の一番の収穫であったと思う。