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米国での出産で身にしみた米医療制度の現実

中西 洋文

アメリカでの出産体験記

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
弁護士 中西 洋文

中西 洋文(なかにし・ひろふみ)
 2004年3月、京都大学法学部卒業。2005年10月、司法修習(58期)を経て弁護士登録(第二東京弁護士会)、当事務所入所。2012年5月、米国University of Southern California (LL.M.)卒業。2013年6月、ニューヨーク州弁護士登録。
 私は2011年の夏から2013年の夏まで、最初の1年をアメリカのロサンゼルスにある南カリフォルニア大学(USC)のLL.M(ロースクール)に留学し、次の1年をニューヨークにて投資運用会社に勤務する機会を頂いた。私の所属するアンダーソン・毛利・友常法律事務所の弁護士は入所してから数年後に欧米に留学する者が多いが、私のように留学後もアメリカでもう一年生活する機会を頂けることはそれほど多くない。さらに言えば、私のようにその間にアメリカで子供をもうける経験をしたという話はほとんど耳にしない。このような貴重な機会を頂いたわけであるが、異国の地で妻の出産に立ち会うには当然苦労もあった。

 何よりもまず医療保険制度の違いである。ご存じの方も多いと思われるが、アメリカでは日本と異なり、国民全員が必ずしも公的医療保険に加入しているわけではなく、高齢者や低所得者等を除き国民は民間の医療保険に加入していることが通常である。したがって、提供される保険ごとにその保険料、医療費、保険でカバーされる疾患の範囲が異なる。そして、企業に勤めている場合には企業が提供する保険に加入するのが通常だが、企業に勤めていない場合には、自分で保険を調べて適切な保険に加入する必要がある。この企業が提供する保険と個人で加入する保険とはその保険内容が大きく異なる(企業提供保険のほうが内容が良いようである)。企業によって提供する保険が異なることから、アメリカでの就職においては、「この会社はちょっと給料は安いけど、保険がすごくいいから就職することに決めた」などという選択も出てくるそうである。さて、私の場合であるが、アメリカへの留学に向けて日本で渡航準備をしている際に、加入する保険については当然検討をした。法律事務所に在籍する弁護士が留学する場合、日本の保険会社が提供する留学生や駐在の会社員向けの保険に加入するか、留学先のアメリカの大学が提供する大学生向けの保険に加入するかの2つが一般的な選択肢である。この2つの保険の相違点は多いが、ここでは日本の保険については妊娠・出産に関する治療費はカバーされない保険が一般的であるという点を指摘したい。私は、渡航当時はアメリカでの出産について特に考えていなかったこともあり、同僚の多くが加入する日本の保険会社が提供する保険に家族ともども加入し、留学先の大学の保険に妻は加入させなかった。これがそもそも苦労の始まりだったと今では思う。

 留学後のもう一年をニューヨークで働くことができそうだとわかってからアメリカでの出産を考えるようになった。アメリカでの出産で一番大変なのは実際に出産をする妻であるが、幸いにも妻もアメリカでの出産に前向きであった。むしろ、出産するのであれば日本よりもアメリカでという気持ちだったようである。私もロサンゼルスで過ごすにつれ、開放的で子供に優しいアメリカ人たちにすっかり魅了されてしまい、アメリカで出産・子育てができればどんなに素敵だろうと思っていた。さて、そうすると問題は保険である。妻の妊娠・出産をカバーする保険に入っていなかったし、私は留学中の身であり企業に勤めているわけではない。そこで、選択肢としては個人で加入する保険しかなかった。幸いロサンゼルスには日本語で対応してくれる保険アドバイザーがいたので、色々と質問をすることができた。アドバイザーの回答からわかったことは、私の妻が加入できる妊娠・出産をカバーする保険はあるが、その保険は保険内容がそれほど良くないこと、その保険で妊娠・出産をカバーするには妊娠する前に保険に加入しなければならないこと、保険は州ごとに異なる(ニューヨークに移った後はニューヨーク州の保険に加入しなければならなくなる)ことであった。加入できる保険があるとわかって安心はしたものの、問題が残った。それはニューヨークに移った後の保険が引き続き妊娠・出産をカバーしてくれるのかという点であった。ロサンゼルスで妊娠をした場合に、ニューヨークに移った後に加入する保険が、妊娠後の加入だからということでその妊娠・出産はカバーしないということになれば大問題である。私が質問をした保険アドバイザーは(おそらく何らかの法規制があるようで)カリフォルニア州の保険についてしか回答できないということであったので、ニューヨーク州の保険については自分で調査するほかなかった。調査の結果、幸いにも私が勤務する予定のニューヨークの会社が提供する保険は、加入前に妊娠していたとしても、その妊娠・出産をカバーするものであることがわかった(企業が提供する保険は、個人が加入する保険と異なり、加入前に妊娠していたとしてもその妊娠・出産をカバーするのが一般的なようである)。なお、私が当時調べた限りではニューヨーク州で個人が加入する民間保険は保険料が非常に高額で、月額10万円を超えるような保険料もあったと記憶している。

 保険アドバイザーに話を聞いた後、早速妻をカリフォルニア州の個人保険に加入させた。いつ妊娠するかわからないのに保険料を前もって支払い続けるのはお金がもったいない気もしたが、アメリカで出産できるのなら安いものであった(と思うようにした)。幸いそれから間もなく妻が妊娠をし、ロサンゼルスの病院で数回検診をした。検診のたびに日本円にして2,3万円を支払ったが、これも気にならなかった(気にしないようにした)。この金額が実は大きな出費であったことがわかったのはニューヨークに移ってからである。

 ニューヨークに移り、そこで勤める会社の保険に加入した。まず驚いたのはその月額保険料の安さである。ロサンゼルスで支払っていた保険料の半額ぐらいだった。さらに驚いたのは会社の人事部に妻の妊娠のことを話し、出産費用の点について質問したときのことだった。「あなたはラッキーね。たぶんあなたの出費はゼロよ。うちの会社の保険はすごく良いんだから。」まさかと思ったが、これは事実だった。保険会社のウェブサイトにて請求に関するステートメントを見ることができるのだが、医師からはかなりの額が保険会社に毎回請求されているのだが、私が実際に負担する支払額はいつもゼロであった。ロサンゼルスで検診のたびに数万円払っていたのと大きな違いである。

 もう一つ、私がアメリカでの出産で驚いたのは、妊娠中の検診をしてくれる医師と出産をする病院が異なるという点である。妊娠中の検診をしてくれる医師はいわゆる町医者という雰囲気で、個人又は数人の医師と共同でビルの一室に病院を構えていることが多い。その医師たちには提携している病院が存在し、その提携先の病院で最終的に出産することになる。医師と出産病院はセットなのである。私たちがお世話になることにした医師の提携病院はニューヨーク大学(NYU)の病院であった。医師も病院も大変評判が良く、安心して通院していた。しかし、2012年10月にハリケーン・サンディがニューヨークを襲った。私が勤めている会社でも、緊急事態ということで自宅勤務になったり、逆に自宅の電気が何日も点かないという同僚もいた。私の住むアパートには幸いまったく被害がなかったのだが、私たちにとっての問題は、ニューヨーク大学の病院がハリケーンの影響で使用できなくなってしまったことだった。担当医師からハリケーンの影響で出産病院はニューヨーク大学ではなくダウンタウンにある病院に変更するという話を聞かされ、私たちは非常に悩んだ。というのも、ニューヨーク大学の病院に満足していたのはその評判の良さもあるのだが、自宅から近いということも大きな理由だったからである。一方、ダウンタウンの病院はもしかすると渋滞になったら自宅からタクシーでも1時間以上かかるかもしれないような場所にあった。初めてのアメリカでの出産なのに、もし私が会社で働いているときに妻が自分だけで病院に行かなければならなくなったら。私はこの長時間の移動がとても心配になった。

 「病院を変えよう。」私は妻に話した。妻も訪れたこともないダウンタウンの病院への変更という点をとても不安に思っていたようで賛成してくれた。しかし、前述の通り担当医師と出産病院はセットなので、病院を変更するということは通院している医師を変更することにもなる。このとき既に出産予定日の1週間前だった。まずは通院先の医師に相談したが、やはり出産病院は変えられないということだった。仕方なく私たちは自宅から近くて評判が良さそうな病院を探し、急いで連絡をした。マンハッタンのセントラルパーク近くのいかにも高級そうな病院であったが、駄目で元々という気持ちで連絡をした。対応してくれた女性はとても親切な方であったが、予定日一週間前という話をしたらさすがに難しそうな様子であった。どうやら通常は出産直前の医師の変更というのは認められないようであった。しかし、「保険はどこの会社?」そう訊かれて保険会社名と保険プランを伝えたら女性の様子が変わった。「それなら○○先生に訊いてみてあげる。その保険ならたぶん大丈夫。」結果、私たちは担当の医師を変更することができ、その医師に1回検診をしてもらった後、その翌日に変更した病院で出産をすることができた。ここでも私は保険の威力を見せつけられたのである。

 思えば、アメリカの保険に振り回され、アメリカの保険に救われた出産であった。初めてアメリカ国籍の子供を持ち、日本のパスポートとアメリカのパスポートの手続をし、アメリカでの子育ても経験できた。アメリカ国籍を持つ子供の顔を見るたびに、出産までにお世話になったアメリカの人たちのことを思い出す。出産の報告を本当に喜んでくれたニューヨークの会社の同僚たちの笑顔も忘れられない。妊娠前から出産まで色々あったがおかげで他の誰も真似できない経験をすることができた。これもアメリカで出産することを決断してくれた妻のおかげである。また、ニューヨークでの研修を紹介してくれた事務所のパートナー弁護士にも本当に感謝している。

 ところで、出産から数カ月後に保険会社のステートメントを見て、自分の目を疑った。ニューヨークでの出産にかかった費用として医師と病院から想像以上の高額が請求されていたのである。確かに病院は非常にきれいで職員も優しく出産の環境としては申し分のない病院だったが、日本での出産費用の相場からはかけ離れた金額である。アメリカの出産にはお金がかかるとは聞いていたが、それは真実であった。おそるおそる自分の支払負担額を見てみると、、、やっぱりゼロ。ああ、良かった。