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多言語主義のEU首都で信じてもらえなかったこと

安井 允彦

ビールとチョコレートと言語の街ブリュッセル

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
弁護士 安井 允彦

安井 允彦(やすい・まさひこ)
  2004年3月、東京大学法学部卒。2006年10月、司法修習(59期)を経て弁護士登録(第二東京弁護士会)、当事務所入所。2013年5月、米国University of California, Berkeley (LL.M.)。2013年9月から2014年6月まで ベルギー・ブリュッセルのShearman & Sterling法律事務所に勤務。2014年6月、ニューヨーク州弁護士登録。2014年8月、当事務所復帰。
 「ブリュッセルについて語ることは、言語について語ることである」と言われることがある。私は2013年9月から2014年6月まで、ベルギー・ブリュッセルの法律事務所で研修をした。ブリュッセルにいると、ビールとチョコレートが常に頭から離れず、その誘惑と日々戦うことになるのだが、確かに、「言語」というものもとても気にかかる。

 ブリュッセルではフランス語とオランダ語が公用語とされており、また、ベルギー東部地域の公用語であるドイツ語を目にする機会も少なくない。イスラム系の移民も多い。英語もよく通じる。私は、現地の幼稚園に通っていた娘や、現地の病院で生まれた息子を通じて、地域社会と関わりを持つことも少なくなかったが、どこに行っても誰かしら流暢に英語を話す方がいた(もっとも、居住地域による差はあるだろう)。また、ブリュッセルには、欧州委員会、欧州議会、北大西洋条約機構といった国際機関が多数存在することから、欧州諸国を中心に世界の様々な国から様々な言語を話す人が集まっている。

 様々な言語が使用されている状況には、赴任当初は戸惑うこともあった。アントワープという街を訪ねた時のことだ。私が見ていた地図にはAntwerpen(オランダ語表記)とAntwerp(英語表記)が書いてあったため、AntwerpenないしAntwerp行きの列車を探したのだが見つからない。困った私が駅員に尋ねると、駅員は目の前にあるAnvers行きの列車を指さした。私は、例によって私の発音に問題があるのだと思い、「Antwerpen、 Antwerp」を試行錯誤しながら発音してみたが、駅員はその列車を指さし続ける。しばらくして合点がいった。Anversというのはアントワープのフランス語名であった。アントワープはオランダ語圏にあるため、私の見ていた地図にはオランダ名のAntwerpenと英語名のAntwerpしか記載されていなかったが、私がいた駅はフランス語圏にあったため、Anversと表記されていたのだった。

 私の所属していた法律事務所にも、欧州の様々な国から弁護士とスタッフが集まっていた。基本的に英語が使用言語とされていたものの、その時々その場に集まっているメンバーに応じて、色々な言語が使用されていた。英語よりもフランス語の方が得意なイタリア人とスペイン人が話すときはフランス語が使われるし、そこにフランス語よりも英語の方が得意なオランダ人が加われば英語に切り替わる。英語をはじめとしたヨーロッパ系言語(インド・ヨーロッパ語族の言語というべきであろうか)と日本語の違いに比べれば、ヨーロッパ系言語内の違いは小さいのかもしれないが、そうだとしても、ヨーロッパの弁護士達の言語能力には日々圧倒された。

 彼らにとっては、母国語に加えて、周辺諸国の言語を理解するのは当然のことのようだった。私も、研修開始当初は、周囲の同僚から当然に中国語や韓国語も理解するだろうと思われていたようである。そもそも、日本、中国、韓国でそれぞれ違う言語を用いているという認識のない同僚もいたかもしれない。そのため、私の部屋に中国語や韓国語の書類が持ち込まれることもしばしばであった。私が「中国語や韓国語は分からない」といってもなかなか信じてもらえないこともあり、何だかとても申し訳ない気持ちがした。

 欧州委員会内部も、私の所属していた法律事務所と同じように、英語を中心に様々な言語が用いられる環境のようである。私の所属していた法律事務所は独禁法を主な取扱分野としていたが、ブリュッセルで独禁法を取り扱う弁護士の中には、欧州委員会での勤務経験のある弁護士が少なくない。彼らによれば、欧州委員会内部では、英語、フランス語、ドイツ語が主な使用言語とされており、中でも英語が主に用いられている。数十年ほど前まではフランス語が最も使用されていたとのことであるが、英語が世界を席巻するに伴い、すっかり英語が逆転したようだ。もっとも、ルクセンブルクにある欧州司法裁判所内では、今でもフランス語が第一の使用言語であり、フランス語の習得は欧州司法裁判所で働くための必須条件となっているらしい。私が欧州司法裁判所を訪れた際も、ほとんど英語を解さない職員の方がいたので少々驚いた。

 日本で生まれ育った私にとって、様々な言語が使用されている状況はとても刺激的であった。私もこのような環境で育っていれば、言語というものに対する感覚が今のそれとは全く異なっていたであろうと、現地の子供達を見て羨ましく思うこともしばしばであった。しかし一方で、複雑な言語事情により生じる有形無形のコストは、ブリュッセル、ベルギーにとって大変なものであろうと思えた。実際、使用言語の異なる地域間の対立は、今でもベルギーの社会問題の1つである。また、弁護士としては、翻訳・通訳にかかるコスト・リスクも非常に気にかかる。

 ブリュッセルは、公用語がフランス語とオランダ語の2つであることから、多くの文書が両言語で用意されている。さらには、ドイツ語、英語が加わることも少なくない。私は、様々な案件を担当する中で、契約書、開示書類などの英訳・和訳を日常的に取り扱うが、日本語と英語を一致させることの難しさには日々頭を悩ませている。ブリュッセルでは、あらゆる局面でその作業を行わなければならないのだから、そのコストは大変なものであろう。また、誤訳リスクも無視できないはずだ。しかし、公用語が2つしかないブリュッセルの苦労など、EUの苦労に比べれば、知れたものなのかもしれない。

 EUの公用語は、本記事の執筆時点で24言語である。前述のとおり、欧州委員会等の内部では使用言語が限定されているようだが、基本的に、EUは多言語主義(マルチリンガリズム)を採用しており、EU域内における言語の多様性を確保しようとしている。例えば、EU市民は、いずれかの公用語でEU機関に書面で質問し、同じ言語で回答を受け取る権利を保障されている。また、一定の重要な文書については、全公用語に翻訳されることになっている。そして、EUは、すべてのEU市民が母国語以外に少なくとも2つ以上のEU公用語を使うことができることを目標として掲げている(もっとも、予算の制約等から、必ずしも目標の達成に向けて順調に進んでいるわけではないようである)。そのようなEUの多言語主義を日本にいながらにして体感するには、全24公用語に対応した欧州委員会のホームページを見るのが手っ取り早い(なお、全てのページが全公用語に対応しているわけではない)。使用言語の選択肢がずらりと並ぶ様子は、EUの多言語主義の象徴といえるであろう。

 このような多言語主義にかかるコストは莫大である。EUの発表によると、1年間でEUの総予算の約1パーセントにあたる費用がEU機関での翻訳・通訳等に費やされている。また、やはり、誤訳が問題視されることもある。翻訳者の少ない言語同士で翻訳する場合、一度英語等を介することもあるらしいが、そうなると伝言ゲームのように内容に違いが生じてしまいかねない状況は容易に想像がつく。そのようなコスト・リスクを負ってでもなお、EUが多言語主義政策を維持することについて考えるとき、言語の違いが引き起こしてきたであろう対立・軋轢の歴史、そして、それを乗り越えようとする試みの未来に、思いを馳せざるを得ない。