(18)東京佐川急便事件、金丸5億円ヤミ献金事件
2014年12月19日
ロッキード事件、リクルート事件など戦後日本を画する大事件を摘発し、「特捜検察のエース」と呼ばれた吉永祐介元検事総長が亡くなって1年が経った。それを機に、吉永さんを長く取材してきた元NHK記者の小俣一平さんと元朝日新聞記者の松本正さんに、吉永さんと特捜検察、さらに検察報道の今と昔、それらの裏の裏を語ってもらった。第18回の本稿では、自民党中心の戦後政治に幕を引くきっかけとなった金丸信自民党副総裁の5億円闇献金事件とその捜査をめぐる検察への逆風について振り返る。
村山:バブルが弾け、あふれていたカネの水位がすーっと下がると、経済の惨憺たる状況が明らかになりました。著名企業が、暴力団に食い荒らされ、政治家も好き放題にカネをむしっていた。東京佐川急便事件はその典型ともいえる事件でした。
東京地検特捜部は1992年2月14日、佐川グループの告訴を受け、東京佐川急便の渡辺廣康元社長ら4人を特別背任容疑で逮捕しました。債務保証や融資で不正に流出させたカネは約795億円に上りました(起訴額)。
さらに、特捜部は、警視庁などと協力し、同社から広域暴力団「稲川会」系企業に同様の手口でカネを流出させた特別背任罪で渡辺元社長を摘発します。特捜部は裏付けのとれた157億円分を起訴しましたが、同社から稲川会に流れた資金は数千億円に上るともいわれました。
問題は、渡辺元社長が稲川会側に巨額資金を流出させた動機でした。それは竹下登元首相の政権誕生と密接に関連していたのです。
竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の3人の有力政治家が名乗りを上げた1987年秋の自民党総裁選で、竹下さんは右翼団体「日本皇民党」の「ほめ殺し」攻撃に悩まされていました。
特捜部の調べでは、金丸さんの意を受けた渡辺さんは、石井進稲川会会長に封じ込めを要請。石井会長の働きかけに皇民党は竹下さんが田中角栄邸を訪問し総裁選出馬の挨拶をするのを条件に活動を停止しました。竹下さんは中曽根康弘首相から後任の自民党総裁に指名され首相に就任しました。
村山:一方、渡辺さんは、佐川急便グループ内での地位保全のため、当時政界で力のあった竹下さん、金丸さんをはじめ、派閥の領袖クラスの大物政治家に近づき、湯水のように献金をしていた。中でも、渡辺さんは特に懇意にしていた金丸さんには5億円の闇献金をしていました。その金丸さんから頼まれ、暴力団を使って竹下さんに対するほめ殺しを封じた。その見返りに暴力団に数千億円ものカネを垂れ流した疑いがある、と捜査関係者は見ていたわけです。
小俣:バブルの時代だったとはいえ、今から見ても、とんでもない事件でしたね。金丸さんは古い自民党の利権を代表し、また象徴する存在だった。その金丸さんが刑事事件に問われ失脚する。それが引き金になって、自民党最大派閥の竹下派は、小沢さんのグループと反小沢のグループに分裂し、小沢さんは自民党を脱党する。それが1955年以来、政権与党の座にあった自民党が政権を失う結果につながる。壮大なドラマでした。
一方、検察の方も、金丸さんに対する5億円闇献金事件の処理で、本人を取り調べず上申書をとっただけで罰金処理したり、右翼団体幹部から聴き取った裏付けのない政治家の実名調書を法廷で朗読したりして、国民から厳しい批判を受けました。検察は威信を失って落ち込んだところを、国税の協力で翌1993年3月、金丸さんの巨額脱税事件を摘発し、見事に復活し、また走り出す。こちらもドラマチックな展開でした。
そういう歴史的な場面に立ち会えたことは、記者として幸せでした。
松本:金丸さんの5億円闇献金の事実を取ってきたのは、検察担当の市川誠一(現東京報道局付)、山中季広(現特別編集委員)、秦忠弘(現ブランド推進本部次長)の3記者でした。かなり前から渡辺さんがそういう供述をしていることを私たちはつかんでいました。ただ、供述によると、カネの受け渡しの時期が政治資金規正法の量的制限違反に問う場合の3年の時効をすぎていた。だから事件にならないと思っていたのです。
同時に、新潟県の金子清知事に対する政治資金規正法違反容疑も浮かんでいました。私は、これも事件にならない、と思っていました。吉永さんの教えが判断基準になっていたのです。贈収賄の疑いがある政治家への資金提供はいくつか浮かんでいたが、職務権限や請託を認定するのが難しく、贈収賄事件には発展しないことが見えていましたから。
1000万円を超える贈収賄でなければ原則として政治家は摘発しないというのが吉永哲学です。それで、もう政界ルートでの立件はない、と自分で判断していたのです。
ところが、その金子事件が動き出すのです。確か、読売など他紙に先行された。市川記者らにも「検察が政治資金規正法違反などでやるわけがない。書かせとけばいい」と言っていたのです。そうしたら、市川、山中両記者が「松本さん、それは見方が間違っている。検察はやる気ですよ」という。えっ。本当か、と。やるなら、負けるわけにはいかない。
それで、劣勢を一挙に逆転しようと思って、金丸5億円闇献金を書こう、となるのです。政治資金規正法が検察の武器になるのはあの事件からですよね。
村山:確か、特捜部が夏休みに入る7月末か8月はじめに、朝日新聞の元検察担当記者が、渡辺さんが金丸さんへの5億円闇献金を供述している、との話を関係者から聞いた、と連絡してきた。それで、朝日新聞の司法記者クラブでは、これは、情報が漏れ始めている。じゃあ、書こうか、という話になったように記憶しています。
松本:市川、山中両記者には、そういう気持ちもあったかもしれません。8月19日の夜中に、当時は日本プレスセンタービルの8階にあった朝日新聞の拠点で大論争をするのです。市川記者らは「すぐ打ちましょう」という。私は「打てない」と反対してやりあうのです。村山さんは、その場にいなかったっけ。
村山:論争があったことは側聞していましたが、その場面には、私は同席していませんでした。その記事を書けば、金丸さん側から名誉毀損で訴えられる可能性があり、従来の判例に照らしたら負ける。だから、慎重に、というのが松本キャップの立場ですよね。現場は、早く書かないと、他社に追いつかれる、先んじられてしまうからすぐ打ちたい、という。
記事に対する名誉棄損訴訟での勝敗を分けるポイントは、書いた側が、記事の「真実性」ないし「真実相当性」の証明ができるかどうか、です。記事の事実が現に存在すれば、何の問題もない。ただ、仮に事実がなかったとしても、書いた側が「真実だ」と信じてもおかしくないだけの取材をしていれば、裁判所は「記者が事実と信じるに足る理由があった」としてメディア側に軍配を上げてきました。
事件報道では毎度のことですが、メディア側には情報源の秘匿義務があり、5億円闇献金の場合も、情報源は明かせない。名誉毀損で訴えられても、複数の関係者から聞いた、という匿名証言メモを法廷に提出するぐらいが関の山です。それだけで、裁判所が十分取材を尽くした、と見てくれるかどうか、それが記事を打てるかどうかの判断の分かれ目でしたね。
松本:渡辺さんの供述はあっても、当時、聞いていた渡辺供述では、5億円の提供は、1989年7月の参院選前の同年6月で、1992年8月の時点ですでに3年間の公訴時効が完成しているから、検察は事件にできません。法廷で、5億円献金の事実が明らかになることもない。そうすると、記事にして金丸さん側から名誉棄損で訴えられたときに、裁判で勝てるのか。5億円の闇献金が存在したという真実相当性の証明、つまり、記者側が真実だと信じる相当の理由があるといえるか。
供述した当の渡辺さんは拘置所にいて取材できません。もらったとされる金丸さん側が認めるはずがない。しかし、市川、山中、秦の3記者は、粘り強い取材で、5億円授受の生々しい様子まで取材でつかんでいました。
それによると、問題の5億円は社長だった渡辺さんが、札束で車に積み込み、自ら運転して東京・永田町の高級マンション「パレ・ロワイヤル」まで運んだ。5億円はとても手では抱えられないので、駐車場内で台車に乗せた。その台車がゴロゴロとうるさいので人目に付かないようなるべく音を殺しながら押し進み、エレベーターに乗って、そのまま上の階にある金丸事務所へ行った。渡した相手は、秘書の生原正久さん。事前に電話で訪問を伝えてあった。少しだけ話をしてすぐ引き上げた、という驚くべき話でした。
ただ取材と報道は別です。迫真の事実はいくつも入手してきてはいました。渡辺氏は車の運転ができるのか、5億円を運んだと供述している日時に渡辺氏は東京にいたのか、パレ・ロワイヤルの状況と食い違っている点はないか、など我々で渡辺供述を裏付けられる作業は全てしましたが、支えになるのは検察情報です。事実無根だとして金丸さんから朝日が名誉棄損で訴えられた場合、大切な情報源が、あえて民事裁判に出廷して「5億円授受を認めた調書は存在する」と証言してくれるか。してくれるはずがありません。
実際、市川記者と山中記者が、取材源に「書く」と通告したとき「検察はお前たちを守らないぞ」と言われたといっていました。
これは後になって明らかになるのですが、5億円の授受は実際は渡辺供述から半年後のことでした。そうなると、供述をもとに我々が調べた渡辺氏の当日の行動確認は、何の意味もなかったことになります。
村山:その通りですね。「検察はお前たちを守らないぞ」という話は、松本さんの横にいて市川記者らから聞いた記憶があります。
松本:真実性、真実相当性の証明ができないとして裁判で負けてしまえば、記事は結果として誤報となる。そう考えたときにまた、吉永さんの教えがよみがえるんです。ロッキード事件のときの検察と同じで、誤報となった場合の朝日新聞の受けるダメージは計り知れない、と。当時の金丸さんは首相を決めるほどの力を持った政界の最高実力者だった。それだけに、自民党から凄まじい攻撃が来るだろう。そういうことを考えると、その記事は、それまでに取材で得られているファクトでは、とても打てない、と言うしかなかったのです。
村山:その話はよくわかりますね。事件がらみの調査報道では、常につきまとう問題です。手元に確実な証拠があって絶対間違いない、と信じられる場合でも、事情があってその資料を法廷に出せないことがある。資料を提出できない以上、裁判は不利になる恐れがあるが、事実は間違いない。ジャーナリストの正義感は、「裁判闘争を覚悟して書くべきだ」と囁く。
そういうとき、我々は、情報源の秘匿と真実性・真実相当性の証明との関係で悩む。情報源を守らねばならないが、記事は出したい。訴えられた場合の法廷立証を詳細にシミュレートしつつ、当事者、周辺関係者に対してぎりぎりの取材を尽くして決断するのですね。
村山:当時の新聞社は特ダネ原稿を出稿する場合、印刷工場から遠い地域に配達される12版ではなく、東京の郊外や神奈川県などに配達される13版から入れるのが普通でしたね。それだと、刷り上がりが最終版締め切りの後になり、他社に漏れる心配が少ないからです。
松本:ところが、その13版に原稿が入らなかった。それでデスクに「どうしたんだ」と聞いた。そうしたら、「松ちゃん、打てないよ」という。理由は「裁判で負けるから」だった。編集局長室、整理部長も同じ意見だったというのです。
原稿を出した以上、その日に組み込めなかったら、その原稿は永久に載らない。そういうものなのです。新しい証拠が出るわけではない。次のデスクは、より尻込みするのです。出した以上は、その日に勝負するしかなかった。最終版の締め切りまで1時間余りしかありませんでした。
その時点で初めて会社の顧問弁護士を叩き起こすのです。原稿をファクスで弁護士の自宅に送り、電話でやりとりしました。
「松本さん、これはだめだ。勝負にならない。供述したことを真実相当性の争点にしても勝ち目はない」
原稿を読んだ弁護士はそういいました。
「あきらめざるを得ないですかね」
私はそういった。数秒の沈黙があった。
弁護士は後に「私は、最後までやめろ、といったんですよ」と話していましたが、実は、そのときの記憶では、私にこう言ったのです。
「でもね、朝日の読者としては、明日の朝刊でこの記事を読みたいですね」
そして、「行きましょうか」と。
「裁判で負けたら、私は責任をとって朝日新聞を辞めなければなりませんね」
「それは、松本さんの考えだ。その覚悟があるのなら、新しい判例を作るつもりで報道しましょうよ。ただし、金丸さん側の否定の見出しをなるべく大きくとってください」
これで、私の腹は決まった。
すぐにデスクに電話しました。
「おい、顧問弁護士は、全然、大丈夫といっているぞ。金丸の否定談話を通常より、大き目にしておいてくれ、とさ。それさえやっとけば大丈夫だ、と。そう編集局長に言ってくれ。ノープロブレムだと」。
こうして、最終版の1面トップに記事は載ったのです。その見出しを見て市川、山中両記者が怒った。「『金丸氏側に5億円』と供述」という主見出しと「金丸氏秘書は全面否定」という見出しが同じ縦5段で並んでいたからです。私もこれはやりすぎ、過剰反応だとは思ったけれど、「今日のところは載ればいい」と2人をなだめました。
村山:その金丸さん側への取材が大変だったのですね。
松本:21日の夜の10時ころ、市川記者に、金丸邸の居間の電話に連絡させました。その電話番号はもちろん外部には秘となっていたものだけれど、取材班の誰かがこれを入手していて、電話口に出たのは金丸さんの長男の嫁で竹下登元首相の長女の一子さんでした。そこで記事の内容を説明し、「明日の朝刊に載せます。誤報だというのであれば、修正します。掲載をやめることも考えます。金丸さんにそうお伝えください」と言わせた。これもまた裁判になったときの対策でした。金丸さん側の言い分を最後まで聞こうとした姿勢、その痕跡をしっかりと残しておく。それは我々にとって一つの有利な材料になる、と思ったからです。
5分ほどして一子さんから電話があって、「父は寝ています」。「では、明日の朝刊に載るということお伝えください」とさらに念を押しました。
村山:金丸さんの秘書の生原正久さんには、山中記者がアプローチしたのでしたね。
松本:生原さんは、金丸さんの金庫番で、5億円の現金を受け取った本人だから、コメントは絶対必要でした。しかし、夏休み中でなかなか連絡がつかなかった。山中記者に今回たしかめたところ、生原さんの自宅を朝晩、何度も張り込んだが、なかなか会えなかったそうだ。手紙をポストに放り込んだり、金丸事務所に電話をかけたり、思いつく限りの手を尽くした。
何日も棒にふって、最終的にようやく生原秘書ご本人をつかまえた。
向こうは最初からけんか腰というか全否定モードでした。山中記者が「東京佐川急便の渡辺広康社長からあなたは5億円を受け取りましたね」と切り出すと、「そんなのあり得ない話だ」とさえぎる。「記憶にないという意味ですか」と問うと、「記憶にないなんて言ってないだろ。記憶にないんじゃなくて、事実がないということだ」と強く言い、「誰がそんなことを言ってるんだ。そんなの漫画だ。漫画みたいないい加減な話だ。勝手にシナリオを作っているだけだ」と大きな声をあげ、取材はそこで打ち切られたそうです。
村山:この5億円闇献金報道では、確か、記事を書く数日前に、松本さんから裏付け取材を頼まれましたね。5億円供述の信憑性と捜査方針についての確認だった。私は、銀座の牡蠣料理屋に取材源を呼び出し、ランチをとりながら、取材しました。5億円供述が固いこと、近々、政界資金について情報が最高検に上がることなどを聞いた。それをすぐ松本さんに報告したと思います。
松本:前日の8月21日朝刊で「『政治家10人余に21億円』 東京佐川事件で最高検に捜査報告」という記事を出したのは、その村山さんの情報が支えでした。これは先ほども言ったとおり、5億円闇献金の記事を出すための布石でした。また、後手を回っていた新潟県知事の政治資金規正法違反事件の捜査についても、それとなくここで他紙と並んでおこうということで、その見通しについても触れました。その後は、新潟県知事の捜査でも最後まで抜き続けました。市川と山中、それに秦。あのときの3人の検察担当記者の取材力は、本当にすごかった。
小俣:私は、あの朝日新聞の特ダネについては、悔しい思いをしたんです。当時、私はNHKの司法記者クラブのキャップをしていました。実は、NHKの司法クラブの松坂千尋君も同じ話をキャッチしていました。松坂君のほうが早かった、なんて今更言ってもしかたがないんですが(笑い)、中野谷公一、草場武彦両君も裏付け取材をして、確か朝日新聞がスクープする2日か3日前だったと記憶していますが、さぁと出そうという段になって、上から「ちょっと待った」がかかった。だから、朝日新聞が朝刊で報じると、NHKは朝からすぐ報道できたのです。まあ、相手が政界のドンですから、NHKが朝日を出し抜いて独自報道できたか、というと疑問ではありますが。現実にはダメだったわけで、いまも変わりないか、もっとひどくなっていると思いますよ。組織自体が政治家—政治部に牛耳られているのがNHKですから。国民が「公共放送」と「報道の自由」について考えるようにならない限り、この構図は変わらないと思います。
村山:あとから、生原さんに聞くと、NHKが旅行先まで電話してきた。献金の詳しい内容を知っていて、これは、検察の情報が洩れている。逃げ切れない、と思って金丸さんに対応を相談した、と言っていました。相次ぐ取材、報道で観念した金丸さんは、5日後の8月27日に記者会見し、受領を認めたうえ、その時期が1990年2月の総選挙の「事前」だと明らかにしたのです。
小俣:NHKの報道が背中を押したともいえるわけですね。こんなこと言うと、変というか、負け惜しみみたいで嫌なのですが、私は自分が知らない話、ネタで抜かれるのは本当に嫌いでした。でも知っている話、NHKじゃ無理かなという話の時は、意外とサバサバしていましたね。NHKにいると結構多いんですよ。きっと今の社会部の諸君も同じ苦々しい思いを何度もしていると思います。その象徴が金丸5億円事件だったのです。
松本:そのことについて、一つ話しておくと、最終の14版に金丸5億円の記事が組み込まれたことを確認した時点、つまり、大刷りが出た時点で、山中記者に言ってNHKの松坂記者に「5億円を打つ」と電話で連絡させました。それはNHKに22日朝のニュースで報道してほしかったからです。NHKも報道すれば、他のメディアも追いかける。そうなれば、出入り禁止も避けられるという思いもありました。
小俣:もしそうだとしたら、山中君は自分のエリアを取材していて、松坂君が5億円情報をすでにキャッチしたと知ったということは、二人のネタ元がバレてしまいそうですね(笑い)
松本:それにしても、あの金丸さんの会見は衝撃だった。あのころは、会社の近くのホテルに泊まり込んでいたのです。夕刊が終わってホテルの部屋で仮眠をとろうとしていたら、午後3時ごろポケットベルが鳴った。携帯電話がまだなくて、連絡はポケットベルでした。山中記者が「すぐテレビをつけてください」と。テレビを見ると、金丸さんが会見を開いていた。司法記者クラブに飛んで帰ると、クラブ員がブースで「やった」と大喜びしていた。山中記者は「すごい展開になりました! いつ金丸さんから訴えられるかとびびっていましたが、その不安が今日で終わった。書いてよかった」と心底感動していました。
本音は「金丸さんは神様」ですよ。記事の事実を認めてくれたうえ、カネの受け渡しの時期についても89年6月ではなくて衆院選直前の90年2月だったという事実まで明かしてくれた。それで時効の問題がなくなった。事件は生き返り、検察が訴追する方向になって、朝日の記事の裏付けを検察がやってくれる形になったからです。
ついているときは、最後まで順調に回っていく。つまずくと最後までつまずき続ける。そういうものなんです、事件報道というのは。
村山:この会見での「事前」は、総選挙の「直前」と解されました。それだと、1992年8月27日から逆算して3年以内になる。時効が来るまでに時間があることになるわけですね。
ちょうど、あの会見が生中継されたとき、都内の右翼団体の事務所に取材に行っていたんです。そこのテレビを見て、部屋を飛び出し、検察関係者に電話したんです。その人も、テレビを見ていました。その人は「うーーん」と唸り、「これは捜査するしかないですね」と言い切りました。
小俣:ただ、金丸さんの会見は、今から考えると、不思議な「自白」でしたね。渡辺さんは特捜部に対し、89年6月に渡したと供述していた。それだと政治家である金丸本人の違反は3年の時効が完成しているんです。朝日の報道もそのころの授受になっていました。なのに、金丸さんは、不利になるのが確実な授受日での受け取りを告白した。常識では考えられないことです。だから、謀略説が流れた。
村山:5億円闇献金問題で金丸さんの相談を受け、記者会見のおぜん立てをしたのは小沢さんだった。だから、野中広務さんなんかは、小沢さんが竹下派を乗っ取るため、金丸さんを罪に落とした、という趣旨の説を主張しました。
渡辺さんの弁護士は、小沢さんに対し「渡辺元社長は、検事から別の派閥の領袖のことをしつこく聞かれている。金丸先生に対する5億円の献金について供述はしているが、ある事情があって事件にはならない。よって供述が法廷などで問題になることはない」との趣旨の話をしていたようです。
ある事情とは、同弁護士事務所に対する検察側の違法捜査があり、それを問題にしない代わりに、5億円提供の立件はしない、との「約束」があったという趣旨です。
それが事実なら、金丸さんは、会見で「よけいな事実(90年2月の総選挙の前の授受)」を認める必要はなかった。しかし、金丸さんは会見で明言した。小沢さんは、金丸さんが会見で「真相を語る」のを止めませんでした。
小沢さんは後に国会の証人喚問で次のように述べています。
「(金丸さんは)それ(5億円を受け取ったのは90年の衆院選の際だった)が事実だと言われたわけでございます。うそをついたり虚偽を言ったりして守ることが守ることだとは思いません」(93年2月17日衆院予算委)
小沢さんは、司法試験の勉強をしていたこともあって、法律に強いといわれていました。その小沢さんが、政治家本人に対する寄付の量的制限違反(受領罪)規定の存在を知らなかったということがあるのか。それとも、知っていて、仮に罪に問われる可能性はあっても、大政治家である金丸は真実に帰依する道を選ぶべきだと考えたのか。あるいは、政治家本人が政治資金規正法違反で起訴されることは金輪際あるはずがない、と思い込んでいたのか――。なぞが残っています。
松本:金丸5億円の報道では後に新聞協会賞を受賞することになったのですが、捜査が終わった直後に朝日新聞社から社賞として100万円が取材班に出た。これはまあ、金丸さんにもらったようなものです。ならば、金丸さんをお招きして取材班と酒を飲み、一晩で使ってしまおうと思って、政治部の次長を通して金丸さんに声をかけたのですが、当然、断られました。そこで、ということで金丸さんの側近で、自民党を離党する直前だった小沢さんに声をかけたところ、それに応じてくれて飯田橋界隈の寿司屋の二階で車座になって深夜まで酒を片手にいろいろと政治談議をしたことがありました。村山さんも同席していましたよね。小沢さんはそこでもこの点については多くを語らなかったのですが、あのようなことは、そもそも事件にはならない、事件にはならないことを検察が事件にした、といった趣旨のことを話していたように記憶しています。金丸さんが正直に事実を明かしたことについては、「中曽根さんを見習え」といったことも話していましたね。その意味は、政治家は授受なんて認めるべきではないのだ、と言っているのだなと私は受け止めましたが。
小俣:五十嵐さんは最高検や法務省の意向に振り回された面があったのではないかと思います。法務省は相当、捜査に口先介入していたと思います。法務事務次官だった根来泰周さんに対する反発が捜査現場にはあった。
小俣:確かに根来さんは立場上、政治家と関係が深いと見られていた。根来さんと梶山さんで「NKライン」。これって私が週刊文春に書いた記事で使ったのが最初だと思う。我ながら造語がうまい。リクルート事件のとき「特捜四天王」って名づけたのも、自分で言うと変ですが、結構気に入っていました。ああいうキャンペーンには必ずキャッチコピーが必要なんです。NKラインという私の造語をみんなが使うようになってね。悪い気はしなかった。
村山:NKラインは、やはり小俣さんの造語だったのか。私の本「小沢一郎vs.特捜検察 20年戦争」でも使いましたよ。でも、小俣さんは、どうして根来さんを敵視するようになったのですか。根来さんは、性格的にもそれほどワルだとは思えない。法務省や検察庁にはもっとえげつない人がたくさんいたと思いますが。
村山:河上さんと根来さんは10期同士のライバルでしたね。
小俣:河上さんは総長候補だったのですか。
村山:総長候補だったかどうかはわかりませんが、同期だし、それぞれ、東京と大阪の特捜部にも在籍していましたから、いろんな面で競争意識はあったのではないでしょうか。
小俣:堀田力さんも総長候補という点では同じでしょう?
松本:堀田さんは13期では、エース的存在でした。ロッキード事件での公判でも、その切れ味に感嘆させられる場面がしばしばありました。しかし、同期に比べて年齢が高かった。法務省官房長までやって突然という形で退官したが、そのまま残っても、検事総長まで行ったかは微妙だったのではないでしょうか。
村山:吉永さんは、リクルート事件後、「お役御免」となり、広島高検検事長を経て大阪高検検事長に異動し、そこで退官すると見られていました。検察が、東京佐川急便事件の捜査で世論の手厳しい批判を受けたため、その建て直しを託され、検事総長に就任しますが、吉永さんを検事総長に押し上げたもう一つの要素は、法務官僚系のエリート検事が検察を支配する当時の検察の体制に対するメディアの反発と、その裏返しとして、現場検事の代表格の吉永さんを応援する、という図式があったと思います。メディアは勧善懲悪、鬼平が好きですからね。
小俣:鬼平、すなわち、火付け盗賊改め方の長、長谷川平蔵を主人公とした池波正太郎の名作『鬼平犯科帳』、たしか全24巻だったかな、私が全部、吉永さんにプレゼントしたんですよ。そうしたら「この本は、面白いね、面白いね」と、一時期、会うたび、電話のたびに言ってましたね。
松本:逆に吉永さんの側から言うと、吉永さんは「新聞こそが、特捜部の応援団なんだ。その支えを失ったら、検察は終わりだ」としょっちゅう言っていた。それは、マスコミに擦り寄って応援団になってもらう、ということではない。
検察権を行使する際の法の運用、適用のバランス、検察の公正さ、すべてを考え、慎重に、慎重にことを運ぶ。それは、マスコミ、つまり社会から一点の批判も招かないような検察でないといけないと考えていたからです。隙を作らないよう徹底していた。マスコミが検察の捜査を、どう受け止めるのか、ということをいつも気にしていました。
村山:東京佐川急便事件では、検察も、説明責任を問われるんだ、ということを初めて検事が意識した瞬間だったのかもしれません。ただ、純粋に法律と証拠の観点からこの闇献金事件を見た場合、世論の批判は浴びたものの、検察にとっては、上申書決着が最善の事件処理だったのではなかったか、と私は考えています。
金丸さんの政治資金規正法違反事件が成立するかどうかは、金丸さんの金庫番で、5億円の受け渡しにかかわった生原さんの供述にかかっていました。
検察が金丸さん本人を罪に問うためには、「寄付が金丸本人に帰属すること」を立証しなければならなかった。つまり、渡辺さんが持参したカネを、金丸さんが、金丸さん個人への献金と認識して受け取った、ことを客観的に証明しなければならないということでした。
生原さんの最終的な供述調書は「1990年1月16日ころ、渡辺さんから現金5億円を預かり、金丸先生の了解を得てこれを金丸先生の政治活動に関する寄付として受け入れた。5億円は金丸先生から金丸先生の指定団体で自分が代表者をしている政治団体に寄付された」となっていますが、当時、捜査に携わった検察幹部は以下のように言っています。
「授受の時期は別にして、カネの帰属を固めるのが難題だった。生原さんは金丸さんの政治団体の実質的責任者。生原さんが責任者として受け取った、といえば、金丸さんは道義的な問題はさておき、法的には責任なし。そこで事件は終わる。金丸さんの責任を問うためには、生原さんは渡辺さんからいったん、カネを預かり、金丸さんの指示を受けて金丸さんへの寄付として処理したことが前提となる。それを認定するためには、そうした内容の生原さんの供述調書が必要だった」
とはいえ、仮に、金丸さんが否認を続けて公判請求になった場合、生原さんも法廷では供述を覆す可能性が強かった。生原さんの検察段階の供述証拠だけで公判維持するのは困難な面があったとみられます。
当時、捜査にかかわった検事の一人は「そもそも最高でも罰金20万円の世界。金丸さん側が取り調べに応じず突っ張ったので、こちらも、危うい証拠で突っ張らざるを得なかった。そこに、上申書で容疑を認める、というのだから、何とか略式で起訴できた。仮に、公判になって生原さんが供述をひるがえし、金丸さんも帰属を否認していたら、もたなかったかもしれない」といっています。
小俣:金丸さんが突っ張ったら、危なかったのですね。その辺の説明が当時は十分ではなかった。当時の検察は、起訴裁量権を与えられている俺たちが捜査して俺たちが起訴、不起訴を決めたんだ。国民はそれを信用して受け入れろ、という態度だったと思います。
それを国民が受け入れると思ったら違った、ということです。検察の「普通のスタイル」が「不遜」と受け取られ、世の中に通用しないことが明らかになったのですね。
松本:上申書決着で厳しい世論の批判を受けた検察は、法廷でも大きなミスを冒しました。1992年11月5日午後、東京地裁で開かれた東京佐川急便事件の公判で、右翼団体幹部が多数の有力政治家から竹下ほめ殺し攻撃の中止要請を受けたとする、政治家の実名の入った団体幹部の供述調書を、裏付け捜査をせずに法廷で朗読し、政権与党の自民党などの猛反発を受けたのです。主任検事が公判立証で確実に有罪を得たいと張り切り過ぎ、本来は法廷に出すべきでない実名調書を証拠請求したのが原因でした。
小俣:特捜部のガバナンスに問題があったと思います。五十嵐さんはまっすぐな性格のいい部長だったと思いますが、部下は部下で、五十嵐さんに断らず裏付けのない右翼幹部の実名調書を公判に出してしまった。名前を法廷で読み上げられた自民党幹部らが怒るのはもっともで、法務省刑事局長は国会でつるし上げられ、立ち往生した。あれが原因で、気の毒に、五十嵐さんは検事長になれなかったのではないか、と個人的には考えています。(次回につづく)
▽編集部注:12月22日夕方に本文中に「10人余の政治家21人に献金した」とあったところを「10人余の政治家に21億円を献金した」と訂正しました。
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