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検事総長の椅子をめぐる密約はあったのか

(21)広島、大阪、東京の高検検事長から検事総長に

村山 治

 ロッキード事件、リクルート事件など戦後日本を画する大事件を摘発し、「特捜検察のエース」と呼ばれた吉永祐介元検事総長が亡くなって1年が経った。それを機に、吉永さんを長く取材してきた元NHK記者の小俣一平さんと元朝日新聞記者の松本正さんに、吉永さんと特捜検察、さらに検察報道の今と昔、それらの裏の裏を語ってもらった。第21回の本稿では、大阪高検検事長だった吉永さんを後継指名した岡村泰孝検事総長が、吉永さんに、検事総長職を根来泰周法務事務次官に「禅譲」するよう求めていたこと、根来さんを嫌った吉永さんが最終的にその要請に従わなかったことなど検察内部の権力闘争の実態を語る。

●都落ち

拡大検事総長になった吉永祐介さん=1993年12月13日、東京・霞が関
 村山:今回は、愚直ともいえる現場派検事の吉永さんが、検察の頭領である検事総長に就任したいきさつや、吉永さんの後継として本命視されていた根来泰周東京高検検事長が検事総長になりそこねた事情について取り上げたいと思います。
 吉永さんは、東京地検検事正としてリクルート事件を摘発し、光進事件のケリをつけた後、1991年3月に広島高検検事長に異動になります。その時点で、検事総長になる道はなくなった、と吉永さん自身、受け止めていたのではないでしょうか。

 小俣:本人はそう思っていたでしょうね。それだけに吉永さんが検事総長になったのは、確かにある意味で「事件」でしたね。私は、ロッキード事件の捜査・公判を指揮し、検察に対する国民の信頼を勝ち取った立役者の吉永さんが検事総長になるべきだと、検察を回り始めた1980年代の半ばから言い続けてきましたが、

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筆者

村山 治

村山 治(むらやま・おさむ) 

 徳島県出身。1973年、早稲田大学政経学部卒業後、毎日新聞社入社。大阪、東京社会部を経て91年、朝日新聞社入社。2017年11月、フリーランスに。この間、一貫して記者。
 金丸脱税事件(1993年)、ゼネコン事件(93、94年)、大蔵汚職事件(98年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(2004年)などバブル崩壊以降の政界事件、大型経済事件の報道にかかわった。
 著書に「工藤會事件」(新潮社)、「安倍・菅政権vs.検察庁 暗闘のクロニクル」(文藝春秋)、「市場検察」(同)、「特捜検察vs.金融権力」(朝日新聞社)、「小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争」(朝日新聞出版)、「検察: 破綻した捜査モデル」(新潮新書) 。共著に「ルポ 内部告発 なぜ組織は間違うのか」(朝日新書)、「田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と 特捜検察『栄光』の裏側」(朝日新聞出版)、「バブル経済事件の深層」(岩波新書)。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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