メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

震災関連死「行政の判断を尊重せず、司法の判断を」と元最高裁判事

奥山 俊宏

 阪神大震災による停電で人工呼吸器などが止まって死亡した兵庫県芦屋市の男性(当時75)の妻が、災害弔慰金を不支給とした市を相手にこの決定を取り消すよう求めた行政訴訟で、泉徳治さんは最高裁第一小法廷の裁判長として原告勝訴の大阪高裁判決を確定させ、「震災関連死」の判例を確立した。その泉さんが2014年12月25日、阪神大震災の発生から20年となるのを前に、朝日新聞記者の電話インタビューに答えた。

 泉さんは2002年11月6日に最高裁判事となり、主任裁判官として、同小法廷が2002年12月19日、被告・芦屋市の上告を棄却する決定を出すのを主導した。「震災がなければ…少なくともその時期には未だ死亡という結果が生じていなかった」という理由で「震災と死亡との間に相当因果関係がある」と結論づけた大阪高裁の判断はこの決定で確定した。
 一審・神戸地裁は「震災と死亡の間に因果関係がない」と妻の請求を退けたが、二審は「震災がなければ延命の可能性があった」と判断し、泉氏はそれを支持した。民事訴訟法318条の規定により、「最高裁判所の判例(これがない場合にあっては、大審院又は上告裁判所若しくは控訴裁判所である高等裁判所の判例)」は特別の重みを持たされており、その判断基準は事実上、一定程度、下級審の裁判官の判断を拘束する。災害弔慰金の支給については最高裁判例が存在しないため、大阪高裁の判決が「判例」となる。

 泉さんとの一問一答は以下のとおり。

2003年11月の「最高裁判所裁判官国民審査公報」から
 ――泉さんは、2003年に最高裁判事として初めての国民審査を受けた際の公報で、「最高裁判所において関与した主要な裁判」の筆頭に、「阪神大震災による停電により人工呼吸器等が停止し、芦屋市の病院の集中治療室で治療を受けていた患者が死亡した事案で、震災と患者の死亡との間には因果関係があり、患者の遺族には災害弔慰金が支給されるべきであるとした大阪高裁判決を支持した(全員一致)」との事例を挙げています。何か特別の思いがあったのでしょうか。

 私は2002年11月6日に最高裁判事に任命されました。就任のあいさつとかがあり、それからすぐに事件にとりかかりました。当時、この芦屋の事件が一番古かった。それまでに(最高裁への上告から)4年半かかっていました。それで真っ先に取り扱った事件の中の一つが芦屋の事件です。
 一番最初の合議が、私の日記だと、11月25日なんです。「合議」というのは(小法廷の)5人の裁判官が一緒に事件の結論について討議する場ですが、その最初の合議のときにこの問題を取り上げたんです。そういう面では非常に印象に残っている事件なもんですから、あそこ(国民審査の際の公報)に取り上げたということがあります。
 事件そのものは高裁の判決をそのまま是認したわけですが、なんでこんなに滞っていたんだろうと、ちょっと不思議な感じがしました。

 ――震災と死亡との因果関係について、一審と二審で判決が食い違っていました。震災がなくてもそのうち病気で亡くなられていた可能性が高いかただったので(最高裁の裁判官に)いろいろと迷いがあり、時間がかかったのかな、と想像しているんですが…。

 私の入るまでの間にどういう議論があったかというのは私は知らないんです。4年半もかかっているということは、たぶん、一審と二審の結論が違ってそこに迷いがあったんでしょうね。外形的には、だからこれだけ時間がかかったんだろうと思いますけど、実際のところは、ぼくには分かりません。だれかから聞いているわけではありませんから。
 私は自分の初めての事件として、みずから記録を読んで自分で頭を整理しました。
 たしかに、震災が起こらなくてもあと1週間後とか短期の間に亡くなられるかたであったことは十分わかりますけど、それは関係のないことであって、少なくとも、震災の間にまだ命があって、そこで、震災が起こってそれが原因で亡くなられたわけです。余命いくばくもない、病状からしてかなり重い病状のかたであっても、震災が原因でそこで亡くなられたら、極端な話、一日でも早く亡くなっても、それは震災は震災。原因が震災であれば、当然、災害弔慰金支給の対象になるわけです。そういう頭でおりました。
 一審はちょっとおかしいですね。「地震がなくても死んだだろう」と一審判決は言うんですが、それは誰だってそう。人間は死ぬんであって、それが短いか長いかのことですよね。それはやっぱり二審のほうが正当な解釈であるということは、ぼくは、なにも不思議には思わなかった。
 それから、特にこのケースの場合には、集中治療室で、人工呼吸器とかイノバンという薬の自動輸液注入器をつけていた。集中治療室で呼吸器とか注入ポンプを装着していて、それが震災で、装着していた機械とかチューブとかが外れ飛んだわけですね。典型的な「震災による死亡」と私はとらえた。だから、あの結論には迷いはありませんでしたし、合議でも皆さんが納得された。私が主任ですから記録を読み込んで説明いたしますが、それについて特段のご異論があったという記憶がないです。
 そういう意味では、事件としては何も苦労しているわけではないんですが、最初の合議に臨んだ最初の事件だったということで大きな強い印象があったので(国民審査の公報に)書かせていただいた。

 ――これは災害弔慰金という制度に基づく「因果関係」の判断なんですが、一般の「相当因果関係」より幅広にとらえた、ということなのかなと思ったんですが。

 それはそういうふうに特段の配慮をしたというわけではありません。法律は「災害による死亡」とだけ書いてありますので、災害が原因で死亡したかどうかに尽きる。震災だから特に幅広く取るとか、そういうことは特段考えませんでした。

 ――震災がなければその時期に亡くなっていたとは認められない場合は因果関係を認めるというシンプルな判断だと思うんですが、それを最高裁として是認されたということは、単なる裁判例というだけではなく、これは「判例である」と、とらえていいんでしょうか。

 それは「判例」です。
 最高裁は「上告を受理しなかった」という決定であって、「最高裁の判例」とは言えないんですが、最高裁で確定しましたから。最高裁で同種の判決がない以上、高裁の判決が「判例」になります。特にこれは、最高裁で高裁の結論を是認して市の上告を受理しなかったということですから、大阪高裁の判決が「判例」としての価値を持っております。

 ――東日本大震災でも震災との因果関係をめぐって争われている事件がたくさんございまして、その判断にあたって、後輩の裁判官の皆さんにおっしゃっていただけるようなことは何かないでしょうか。たとえば、震災後に自分の経営していた事業ができなくなってストレスが高じ、もともとあった高血圧が悪くなって心不全で亡くなられたというケースがあるんですが、それについて、震災との因果関係があるかないかとか。

泉徳治さん(朝日新聞社所蔵写真)
 具体的なケースになりますと、裁判官の習性といたしまして、自分の目で記録や証拠を見ないと、うかつなことを言えない、言うこともできないし、言うべきでない、という頭があるもんですから。具体的なケースでどうだろうとは言いにくいんですが。
 ただ、一般に、災害弔慰金の場合には、法律でもって「災害により死亡した住民」という要件が定められています。この要件にあたるかどうかは、ほとんどが事実認定であります。ですから、これは裁判官が自分で専権をもって判断しなければいけない。
 ふつう「行政処分」というと、「行政庁の裁量」ということが問題になります。「行政処分だから行政裁量がある」と考えがちですが、そういう頭を持っちゃいけない。「災害による死亡」という支給の要件が法律で定められておりますので、それにあたるかどうかは、裁判官が個々のケースにあわせて自分で判断しなければならないことです。行政庁の判断を尊重するとか、そういうことはまったくしちゃいけないんであって、行政庁の判断を尊重するのではなく、裁判官は白紙の状態で自分でじっくりと記録を見て判断すべきである、ということです。そこは気をつけなければならないことだと思います。

 ――行政庁の判断にとらわれることなく、白紙の状態で事実を見るべきだと。

 これ(「震災による死亡」という要件)は裁量の余地がない要件ですから。

 ――なるほど。

 それから、もう一つは、行政庁は大量のケースを公平な内容でできるだけ画一的に判断しようとする傾向があります。これは行政庁としては仕方のないことだと思います。けれども、裁判官はそれをやっちゃいけない。一つひとつの事件で要件にあたるかどうかを慎重に見るべきです。

 ――陸前高田市を相手取った訴訟では、原告の遺族の訴訟代理人が、災害弔慰金について「その制度趣旨からして、損害賠償金や労災死亡見舞金等と性質が異なり、その支給対象となる災害関連死はできる限り広く緩やかに捉えるのが相当である」と主張しています。

 これは言葉のあやですが、「こういう大震災だから甘くする」とか、これはなかなか採りにくい理屈だと思います。裁判所としては、法律と条令の文言に従って、それにあたるかどうかということを厳密に審査すべきことだと思いますね。
 ただ、挙げていただいたケースを見ると、これは実際迷うと思いますねぇ。たいへん難しい。抽象的には先ほど言ったようなことを簡単に口にできますが、一つひとつの事件は難しいと思います。
 こういうケースの場合に、原告さんのほうで外形的に「震災が起こってそれによって死亡した」ということを一応立証すると、今度は行政庁のほうで「薬を飲まなかったんだ」とか「震災後に発病したのである」とか、いろいろと反証する。で、それでもって(裁判官としては)両方の証拠を見比べて、「災害による死亡」かどうかを厳密に判断する。そして、「どうしても分からない」という場合が出てくると思います。そういう場合に、これは考え方が分かれるかもしれませんが、原告のほうであくまでも「災害による死亡だ」と立証しなければダメだという考え方もあり得るし、被告の行政庁の側が出してきた資料を見ても「災害による死亡」を否定できないという場合にはこれはやっぱり「災害による死亡」として考えるべきだというふうな考え方もあり得るかもしれません。

 ――立証責任を原告と被告でどう分担するかの問題ですね。

 分配の問題、そうなると思いますね。
 裁判官はふつう、判決で「立証責任の分配」を表に出して勝敗を決めるということはしません。頭の中で立証責任を考慮して、判決では「震災による」あるいは「震災によらない」という事実認定を行います。後者のような立場の人だと、やや原告に有利な認定をする。前者のような頭でいくと、行政庁の判断を尊重する、ということになりがちです。判決でいま言ったような分析をして書くということはあまりないと思いますけれども、頭の整理のなかでは、そこのところが人(裁判官)によって違ってくるかもしれません。
 そこは、すべての証拠を見て「震災による死亡であることを否定できない」ということであれば、それは「震災による死亡」と考えるべきだろうと、ぼくは思います。けれども、それはちょっと個性(個々の裁判官の考え次第という側面)があって、そうすべきだとは言えませんね。多少の個性が出てくるかもしれませんね。

 ――泉さんとしては、後者の立場(被告の行政庁の側が出してきた資料を見ても「災害による死亡」を否定できないという場合には「災害による死亡」と認定すべきであるという立場)だと。

 そう。
 あくまでも、ふつうの行政事件とは違う、ということですね。裁判所が要件を自分の考えで自分の専権でもって厳密に判断しなきゃいけない。行政処分ということで、つい「行政に裁量権がある」という先入観で臨みがちだけど、そうすべきではない。そこまではだれでも言える。これは意外と気をつけておかないと、行政処分を尊重しがちになります。そこは気をつけなければならない。そこまでははっきり言ってもいいんじゃないかと僕は思います。
 最後の部分(被告の行政庁の側が出してきた資料を見ても「災害による死亡」を否定できないという場合には「災害による死亡」と認定すべきであるという考え方)はいろいろ考え方がありうるでしょう。

 泉 徳治(いずみ・とくじ)氏
 1939年生まれ。1961年3月、京都大学法学部卒業。司法修習を経て1963年4月、東京地方裁判所判事補。1970年6月、ハーバード・ロー・スクール卒業(LL.M.)。最高裁で秘書課長兼広報課長、民事局長兼行政局長、人事局長、事務次長、事務総長を歴任し、2000年3月に東京高裁長官。2002年11月に最高裁判事。2009年1月、退官。2009年2月、東京弁護士会登録。2009年3月からTMI総合法律事務所顧問弁護士。