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津波で職員死亡、「組織の備え」不備を批判した盛岡地裁判決

後戻り 生死の分かれ目――車で避難の先輩と後輩

 津波の不安を感じながらも海の近くに戻ることにしたのは、一瞬の迷いの結果だった。
 「戻っちゃいけないという気持ちがあって、だけど……」
 2014年9月5日、盛岡地裁の法廷で証言台の前に座り、その彼(当時41)は弁護士の質問に答えていた。3年半前の3月11日午後、震災が発生してから20分間の気持ちの揺れ動きを彼は説明しようとしていた。
 「すごく混乱してしまったんだと思います」
 戻ってはいけないのに、戻ってしまった。それが結果的に、職場の後輩、りょうさん(当時22)が津波で命を奪われるきっかけをつくってしまった。

▽筆者: 金本有加、奥山俊宏

▽この記事は2015年2月20~22日の朝日新聞岩手版に連載された原稿を一つにまとめ、加筆・再構成したものです。

▽関連資料: 2月20日に言い渡された盛岡地裁判決の全文

▽注:登場人物の一部について、当事者に配慮して姓を省き、名前をひらがなで表記しました。
▽関連記事: 震災法廷シリーズ

 

 ■次長の避難指示

新岩手農協の山田支所
 震災が発生したとき、山田町にある新岩手農協(JA新いわて)の山田支所には、彼を含め9人の職員がいた。揺れは大きく、かつ、長く続いたから、支所の次長は「これは大きな津波が来るだろう」と直感した。
 支所のある土地は標高が低く、海から300メートル余にある。所長が宮古の中央支所に出向いていて不在だったため、次長が山田南小学校に避難するようにと8人の職員に指示した。
 小学校は支所の前から、なだらかな上り勾配の道路をまっすぐに800メートルほど進み、脇に少し入ると到着する。あらかじめ避難先に決められていたというわけではなかったものの、高台にあり、かつ、車で行きやすい。
 そのとき、りょうさんは農協に入って2年目。貯金・年金の渉外の仕事を担当する先輩職員である彼に頼んでその車の助手席に乗せてもらった。彼は、支所から車で2分ほどの家に日中は1人でいる祖母のことが気になったが、まずは指示に従い、りょうさんとともに小学校に向かうことにした。午後3時前のことだった。

 ■「ぶつかりそう」

山田南小学校の校門へと向かう坂道
 直線道路を抜けて、小学校のすぐそばに差し掛かったところで、先輩職員である彼は、車を走らせながら祖母に電話をかけた。呼び出し音が聞こえたが、だれも出なかった。「きっと何か大変なことが起きたに違いない」。そう思った。
 小学校の校門がそのとき目前だった。右折のウィンカーを出した。
 校門の前には数台の車が並んでいた。それらが校内に入るのを待ってそれに続こうと思った。が、後ろから別の車が迫ってきた。手には携帯電話を持っていた。一瞬、「減速すると、ぶつかりそう」と感じた。
山田南小学校の校門。今は仮設住宅への入り口になっている
 「そのまままっすぐ走ってしまっ
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