原発事故、事実と教訓を虚心に見たい
2015年03月15日
福島第一原発(1F)事故の取材を始めて今月12日で満4年となり、5年目に入った。この間、地元出身のベテラン所員の一人に何度か話を聞いてきた。
4年前、2011年3月15日朝、2号機の危機が続く中、4号機が爆発した。そのとき彼は、対策本部の置かれた1F(いちエフ)の免震重要棟にいた。震災の年の暮れに初めて会ったとき、その朝のことを彼は次のように振り返った。
私は仮眠というか別室でちょっと横になっていたんですけども、花火が鳴るようなパンパンという音がして目が覚めたんです。たしか2回くらい。
1号、3号(の爆発音)はバーンと響くような感じでしたけど、4号機の場合はパンという破裂音に近かった。
彼の話によれば、前夜、福島第一原発の免震重要棟の廊下は段ボールを敷いて寝転がる人たちであふれていた。3月15日朝、そこが閑散としていた。仮眠中に退避が始まったようだ。
そんな彼の話を聞いていたから、昨年5月20日朝、私は、朝日新聞の1面トップを見て、「こんなことがあったのか」と、とても驚いた。「所員の9割にあたる約650人が所長命令に違反して2Fに撤退した」という記事が載っていたからだ。
東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。
こんなふうにその記事のリードには書かれていた(注1)。それまでの私が知らない内容だった。
1Fに最後まで残った彼は、私にそんな話をしていなかった。震災の年の暮れに知人の紹介で初めて会った際、その年の3月15日の朝にどんな文言で指示を受けたのかと私から質問されて、彼は、「2Fに行け」と言われた、と明言していた。
インターネット上の朝日新聞デジタルに掲載された記事を読むと、そこには吉田所長の発言として「伝言ゲーム」という言葉があった。
本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しようがないなと。
朝日新聞デジタルの記事によれば、吉田所長は政府事故調の聴取にこのように述べたとされていた(注2)。
所員らによる「意図的な命令違反」ではなく、「伝言ゲーム」によって結果的に命令に違反する格好になった、ということを記事は指摘しているのだと、このとき私は理解した。しかし、そんな命令がもし仮にあったとしても、あまりに理不尽な内容で、それに従う義務が所員らにあるはずがない。
その後、私は9月4日に吉田調書の内容を読む機会を初めて与えられた。
1Fの吉田所長が政府事故調に答えた内容をそのまま記録したような体裁となっている吉田調書の記載内容と、1F所員の彼が私に直に話した内容のいずれが信用できるかといえば、明らかに後者だろう、と私は思った。前者は、故人となった被聴取者にもはや確認したり再質問したりすることができない伝聞である。一方、後者は伝聞ではなく、当人と直接やりとりしながら聞き取った当人の生の経験談だ。また、私のそれまでの経験によれば、東京電力では、地位の高い幹部よりも、現場に近い人のほうが、発言に種々の思惑が入らない傾向があり、信用性が高い。前原子力設備管理部長としても1F所長としても事故に責任を負うべき立場にあって、東電の執行役員でもある吉田氏の伝聞調書の記載よりも、そのような立場とは無縁で、何かを隠す動機も理由もない1F所員の彼の生の発言のほうが明らかに信用性が高い。
9月11日、朝日新聞社は5月20日の一面トップ記事を取り消した。
暮れ、久しぶりに彼と会った。彼は「2Fに行かざるを得なかった人たち」を気遣った。
2Fでは体育館に入れられたそうです。暖房もない、ひどい環境だったそうです。「逃げた」のだとすれば、そんなところにはとどまらない。
最前線に仲間を放置して撤退することなどあり得ない。「逃げた」という心理状態ではなかった。次の態勢を整えるために移っただけです。
彼自身が2Fに退避するつもりだったのだから、650人の気持ちを推し量ることのできる立場にある。
最悪の原発事故が起きたとき、所員は持ち場を離れて逃げだすのではないか、といった議論について、彼は、机上の空論と感じる。
発電所と運命を共にする覚悟でやっていました。命令されて命をかけるのではありません。自らの覚悟で難局に立ち向かったのです。命をかける義務はないけど、でも、あの状況では、命をかけますよ。
彼がこのように断言することができるのは、責任感が強い彼のような人だからこそ、なのだろうか。地元の出身で、地元に家族がいるからこそ、なのだろうか。彼に重ねて質問すると、次のような返答があった。
家族があり地域があり、それらを守る思いはありました。
これだけの未曾有の事故で、冷却ができなければ日本も危ういと頭をよぎりました。そのような状況で現場から逃げるか残るかといったら、ポジションにかかわらず残ると答えるのが日本人ではないのですか。少なくても、退避騒動の中で残った人たちは皆そのような思いだったのではないでしょうか。
チェルノブイリでも命をかけた社員は多かったと聞いています。
彼とその仲間ならば、そうなのだろう、と私は思った。
彼の話を端緒にして、私は、東京電力の広報部に4号機の爆発音の回数を尋ねた。「当社としては、回数までは把握していません。なお、当社の関係者へのヒアリングでは、複数回という証言は得ていません」との返答だった(2013年4月)。
1F所長だった吉田昌郎氏が政府事故調に語ったところによれば、3月15日朝の爆発について、吉田所長自身は、音を聞いたり衝撃を感じたりすることはなかったという。「ぽんという音がしたという情報が入ってきた」のだという(注3)。おそらく、吉田所長がいた大部屋は、菅直人首相の演説が終わってまだ間もないなか、物音やざわめきに包まれていたのだろう。それに対し、彼が仮眠をとっていた別室は比較的静かだったのだろう。私はそう推測する。
あのとき何が起きていたのか、何を教訓とすべきなのか。不明の点が多いからこそ、虚心に当事者の声を聞き、記録をたどる作業を今後も続けたいと思う。
▽注1:http://digital.asahi.com/articles/ASG5L51KCG5LUEHF003.html
▽注2:http://www.asahi.com/special/yoshida_report/1-1.html。その後2014年9月11日に政府から公表された2011年8月8、9日の聴取結果書のうち「事故時の状況とその対応について 4」の56ページにこの部分の吉田氏の発言の記載がある。http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10317644/www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/hearing_koukai/077_1_4_koukai.pdf#page=56
▽注3:2011年7月29日の聴取結果書の56ページ、http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10317644/www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/hearing_koukai/051_koukai.pdf#page=56
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