2015年10月19日
アンダーソン・毛利・友常法律事務所
橋本 雅行
一般的な弁護士の仕事のイメージというと、やはり訴訟の代理人として裁判で弁論するということが多いと思う。中には、饒舌や詭弁を駆使して訴訟で一度も負けたことがないという弁護士を思い浮かべる人がいるかもしれない。
実は有価証券の発行等に関して弁護士が行う仕事には様々なものがある。例えば有価証券届出書の作成に関する業務も重要な仕事の一つである。
多数の投資者を勧誘し、株式などの有価証券を販売することを「公募」という。公募を行うためには、有価証券を発行する会社「発行会社」は有価証券届出書を作成し、事前に監督官庁に提出しなければならない。また、有価証券届出書には、公募する有価証券に関して、投資者が適切な投資判断を行うために知っておくべき情報を記載しなければならない。このような有価証券届出書が公表されることで、投資者が誤った情報や一部の情報だけに基づいて投資してしまうことを防ごうとしている。
では、どうして弁護士がこのような有価証券届出書の作成に関与するのだろうか。
それは、有価証券届出書の重要な事項について虚偽が記載されていたり、記載しなければならない事項が記載されていなかったりした場合には、有価証券の発行会社に対して損害賠償責任等が生じるおそれがあるからである。
株式に投資すると、発行会社が同業他社との競合に負け、株価が下がることがある。予期しない自然災害により投資した有価証券の価格が下がり、時には投資額の全てを失うこともある。そこで、有価証券届出書には、このような投資に伴うリスクを記載することが求められている。
このため、例えば、株式を公募した会社が、調達した資金で他の会社を合併したものの、合併先の事業がうまくいかず、株価が下がった場合に、有価証券届出書に合併先の事業が失敗するリスクが記載されていなかったら、有価証券届出書に記載すべきであった事項が記載されていなかったとして、発行会社に対して、損害賠償請求が提起されるおそれがある。
そこで、弁護士は、法的な観点から、有価証券届出書のリスク開示が適切かどうかを確認する。
今年5月から6月にかけて韓国で中東呼吸器症候群(MERS)の感染が広まったが、これは、2003年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)のことを思い出させた。
2003年のSARS流行の際には、中国や台湾等への渡航自粛の勧告が出されたり、流行地から入国する者に対する入国制限が行われたりした。このため、旅行業界や交通・運輸業界に大きな影響を及ぼしたのはいうまでもないが、中国や台湾に工場や取引先がある会社でも、現地での事業が滞り、納品が遅延するなどの悪影響が生じた。このため、SARSにより大きな影響を受けた会社の中には、有価証券届出書の中でこれらのことに触れたものもあった。
現在では、2003年当時よりもアジア各国の経済的、人的な結び付きが格段に強くなっている。このため、MERSがSARSと同様に各国で広まった場合、より深刻な影響が生じる懸念があった。そこで、有価証券届出書の中でMERSのリスクをどのように記載するかを慎重に検討した事例もあった。
リスクの内容は、発行会社が行っている事業内容や会社の規模、経営方針等でそれぞれ違っている。カリスマ的な経営者によって牽引されている会社の場合、そのことが強みになる反面、会社の経営が特定の人物に依存していることがリスクになる。また、海外に積極的に進出している会社であれば、海外の成長を取り込むことができるが、社会的、文化的な違いがある外国での事業には、国内事業にはないリスクが存在する。
弁護士は、もちろんこのような発行会社の経営戦略や事業内容に精通しているものではない。そこで、発行会社に関する社内外の資料を調査したり、取締役会や経営会議等の重要な会議の議事録等を精査して事業内容や将来の経営計画等の把握に努める。また、時には経営陣や営業部門、法務部門の担当者に対してヒアリングを行い、発行会社が抱えているリスクを洗い出して、リスクの記載が適切かどうかを判断する。
加えて、発行会社によっては、リスクの開示を自社の事業内容や経営方針に問題があるかのように受けとめて、抵抗感を示す場合がある。また、リスクを開示することで有価証券の発行に支障が生じることを心配する場合もある。
しかし、私はリスク開示の本質的な機能はリスク負担の移転にあると考えている。発行会社がリスクを開示しない場合、リスクが現実化したことによる責任を投資者に負担させることは適切でなく、発行会社が負担することが原則となる。これに対し、発行会社がリスクを開示した場合には、そのリスクの負担について、発行会社から投資者に移転させることが可能になる。
そこで、弁護士としては、リスク開示に同意してもらえない発行会社に対しては、リスク開示の趣旨を伝えたうえで、発行会社がどのような点について、どのような理由で同意できないかを尋ねて、開示するリスクの内容、表現について、発行会社と繰り返し協議しなければならない場合がある。
このように、有価証券届出書のリスクの記載一つとっても、弁護士は様々な局面で関係している。
さらに、有価証券の発行等に関係する仕事には、訴訟等における代理人業務と異なるユニークな特徴がある。それは、有価証券の発行等に関係する仕事は、相手方が特定されていないということだ。
例えば、貸金返還訴訟で、債務者が、そもそもお金を受け取っていないと反論している場合は、貸金の授受の有無が争点になるが、お金は受け取ったが、これは贈与されたものであると反論してきた場合には、貸金の授受ではなく、返還合意の有無が争点になる。このように当事者が特定されている場合は、争点も特定化することができる。
これに対して、有価証券の発行等の場合には、相手方となる投資者が不特定多数のことが少なくない。このため、有価証券届出書等の準備をする際には、将来的に生じる可能性があるあらゆる紛争、主張、反論を予想しながら作業しなければならない。
これは、貸金返還訴訟の例でいうと、債務者から出される可能性がある全ての反論を想定して対応策を検討することに似ている。このような反論には、債権者に対する他の貸金と相殺した、返済期日を延長する合意があった、消滅時効が到来したなどの様々なことが考えられる。このため、弁護士としては、同様の案件や自ら取り扱った過去の事例に照らしながら、債務者が主張する可能性がある反論を丁寧に拾い出していくことになる。
このように有価証券の発行等に関する仕事では、将来発生する可能性がある紛争や反論について自由に検討し、自分の発想力を試すことができる面白さがある。
今度、有価証券届出書や目論見書等を手に取る機会があれば、是非、一度目を通してもらいたい。そこには発行会社や有価証券に関する様々な情報が納められている。
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