2015年11月17日
■東京港区のエレベーター事故
東京地検は、専門家の鑑定を求めたうえで同年7月、エレベーターのブレーキコイルのショートなどのため、ブレーキアームが十分に開ききらなくなり,そのためブレーキドラムがブレーキライニングとこすれ合ったまま回転していたため、ブレーキライニングの摩耗が進行し、事故が起きたと判断。シンドラー社側が事故の1年7カ月前の2004年11月にエレベーターのブレーキを点検・調整した際、すでに異常摩耗が起きており、それを知りながら、ブレーキを制御する部品のソレノイドを交換するなどの十分な対応をしなかったとして、またSEC側についても、事故9日前に点検していたのに漫然と異常を見逃したとして、原田元課長らシンドラー社側の2人と、鈴木会長らSEC側の3人を在宅起訴した。
事件の争点を整理する公判前整理手続きで、検察側が起訴の根拠としたブレーキコイルのショートの発生箇所やライニングの異常摩耗の発生時期などについての鑑定が弁護側の指摘で破綻。検察側は鑑定をやり直すなどし、争点整理に時間がかかり、公判が始まったのは、事故7年後の2013年3月。この年10月にはシンドラー社側の被告の1人が死亡した。被害者の父親も死亡した。
2015年9月29日の東京地裁判決は、原田元課長について「元課長らが点検した時点では事故の原因となったブレーキの異常摩耗は起きていなかった」として無罪を言い渡した。一方、SEC側については「事故9日前の時点で摩耗は発生していたのに、直ちに適切な対応がされず、事故が起きた」として禁錮1年6カ月~1年2カ月執行猶予3年の有罪とした。SEC側は控訴し、検察もシンドラー社側に対する無罪判決を不服として控訴した。
その間、遺族がシンドラー社などに損害賠償を求め東京地裁に提訴。国土交通省が原因究明にあたる事故対策委員会を新設、「ブレーキ故障が原因」とする報告書をまとめた。国交省は改正建築基準法施行令を施行。新設エレベーターに、ブレーキの二重化を義務づけた。消費者安全調査委員会もこの事故を取り上げ、「新旧の保守管理業者間で情報が十分に共有されていなかった」と指摘した。
■「無罪判決は予想通り」
――東京地裁の判決は、「シンドラー社元課長との関係では、(検察が「事故原因のライニングの異常摩耗が進行中にシンドラー側がブレーキの調整を行った」と主張する)2004年11月8日時点でライニングの異常摩耗が発生していたと認めることはできず、元課長人は無罪である」と認定しました。この判決をどう評価されていますか。
高井弁護士:予想通りの判決でした。法廷に立っていても、裁判官もこの事件の審理のために熱心に専門的な勉強をされていることがよく分かりました。裁判所に敬意を表したいと思います。
――東京地検は10月9日、シンドラー社の元課長を無罪とした地裁判決を不服として控訴しました。事故の責任が誰にあったのか改めて争う、と報道は指摘しています。
高井弁護士:控訴審でも必要かつ十分な立証をしたいと思います。
朝日新聞の取材では、検察側は、「判決が検察側の主張を全否定したわけではなく、一部は検察側の主張を受け入れている」と判断、事実の認定の仕方、評価について改めて争えば元課長を有罪にできる見込みがある、と考えているようだ。検察側は再鑑定しない見通し。
■「長期裁判の原因は、公判前整理手続きでの検察の再鑑定」
――それにしても、判決が出るまでに事故発生から9年、起訴からも6年かかりました。なぜこんなに時間がかかったのですか。
高井弁護士:時間がかかった最大の原因は、検察が、公判前整理手続きの中で鑑定をやり直したからです。高井 康行(たかい・やすゆき)
早稲田大学法学部卒業。1972年4月検事任官。岐阜地検時代の1976年に岐阜県庁汚職事件、東京地検特捜部時代の1989年にリクルート事件文部省ルートの捜査を担当した。同地検刑事部副部長、横浜地検特別刑事部長、東京高検刑事部検事を経て1997年6月退官。弁護士登録(第一東京弁護士会)。ライブドア事件の一審で堀江貴文氏の弁護人を務めた。政府の司法制度改革推進本部裁判員制度・刑事検討会委員、日本弁護士連合会犯罪被害者支援委員会委員長を務めた。――公判前整理手続きは、審理の迅速化を図るため、初公判前に裁判官と検察官、弁護人らが争点や証拠を絞り込み、審理計画を立てる非公開の手続きですね。裁判員制度を見据え、2005年に導入されました。検察側は「証明予定事実」を示し、弁護側は認否などを明らかにするとともに、争点を明示し、自らの証拠を示さなければならなくなりました。手続き終了後は新たな証拠請求が制限されています。
高井弁護士:公判前整理手続きでは、公判が始まる前に弁護側の主張を出さないといけなくなりました。検察側は、その制度を利用し、こちらの主張を見たうえで、起訴の根拠となった鑑定を引っ込め、新たな鑑定を行ったのです。それに6カ月もかかりました。
裁判の最大の争点は、ブレーキ異常の原因となるブレーキコイルの層間短絡は一度起きると、加速度的に進展するかどうか、でした。いったん短絡が起きると、段階的・加速度的に進展するというのが定説なのですが、検察側の2回の鑑定は、いずれも短絡は停止する、という説でした。短絡進展説だと、1年7カ月も前に短絡が発生したという理屈は通らないからです。――肝心のところですから、詳しく説明していただけますか。
高井弁護士:起訴の根拠となった最初の鑑定は、コイルの口出線と呼ばれるエナメル線と巻線との間に絶縁テープがないため口出線と巻線が直接接触していたところが振動によってエナメル線のエナメルが剝離して裸の銅線同士が接触・ショートし、一気に電気抵抗が45オームから22オームに低下した、としていました。普通は、そのまま抵抗は下がり続けるのですが、その常識に反する鑑定だったのです。
私たちは、本当に口出線と巻線との間に絶縁テープがなかったのか、と疑った。警視庁が押収し、バラバラに分解したコイルの証拠開示を請求し、開示されたコイルを詳細に点検しました。そうしたら、口出線と巻線との間には絶縁テープの他エポキシ樹脂まで存在していることが明らかになりました。それで鑑定の根拠と論理は破綻しました。検察側は、その鑑定を撤回し、半年間、公判を止めて再鑑定を行ったのです。
再鑑定も、短絡停止説でした。エポキシ樹脂と銅線のエナメル層が一緒に割れ、銅線が振動によってくっつき、短絡箇所が伸びていったが、エポキシの割れが途中で止まり、短絡も途中で停止した、というものです。しかし、実験してみましたが,そのような現象は起きませんでした。それを公判で立証したのです。
そのため,検察側はとうとう持ちこたえられなくなって、論告では、短絡停止説を捨て、弁護側の短絡進展説を採ったのです。ところが、結論としては、2004年11月8日時点で異常摩耗が起きるほどの短絡があった、と主張したのです。裁判所が受け入れるはずはありません。――裁判所が、検察の主張に不信を抱くのも当然ですね。判決の中で、裁判所は「層間短絡は一度発生すると段階的・加速度的に進展するものである」とはっきり認定しています。
高井弁護士:言い方を変えれば、ひどい捜査だったということです。論告で従来の主張を撤回したのは、立派といえば立派ですが、そもそも、鑑定を間違えたことが判明した段階で、検察は公訴を取り消すべきだったのです。
今の公判前整理手続きでは、後出しじゃんけんが可能だということです。だから、こういうことが起きる。制度の負の側面です。こういうことが起きないような制度を考える必要があるかも知れません。――それにしても、短絡進展説といい、専門的な知識が豊富ですね。
高井弁護士:一から勉強し直したので大変でした。私たちでも、証拠物であるブレーキコイルを子細に点検することによって口出線と巻線との間に絶縁テープとエポキシ樹脂が存在していることを発見できたのですから,検事や鑑定人が起訴前にブレーキコイルをきちんと見ていれば、そもそも短絡停止説を唱えることもなかったのではないかと思います。
■「事故の真相解明と再発防止のために必要なこと」
――事故が起きた当初、警視庁はシンドラー側を捜査対象にしていなかった、という話もあります。
高井弁護士:警視庁は、事故9日前に点検したSECの現場の担当者だけ立件しようとしていたと聞いています。
――事故直後、シンドラー社は、事故の起きたマンションを管理する港区の住宅公社主催の住民説明会に出席しませんでした。
高井弁護士:シンドラー側からすると、保守契約は事故の1年7カ月も前に打ちきられている上、事故の原因も分からない状態で、頭を下げろといわれても納得はできないとは思います。シンドラー社側には不公正に扱われているという意識はあったかも知れませんね。
――多数の死傷者を出したJR西日本の脱線事故や著名医療事故をめぐる業務上過失致死事件で無罪判決が目立ちます。この種の事故が起きると、市民とマスメディアは捜査当局に真相解明と責任追及を求めるのが常です。検察、警察は、個人の犯罪を処罰する刑事司法の枠の中でその期待に応えようとするが、運輸事業や医療システムは高度、かつ複雑になり、事故原因の特定や過失の認定は簡単ではありません。相次ぐ無罪はその構造的な矛盾の結果ともいえます。日本の司法や行政による真相解明には限界があるのではありませんか。この裁判と離れた一般論で結構ですが、ご見解を。
高井弁護士:まず、この種の事故が起きると世論が沸いて、捜査機関にどうしても誰かを事故の責任者として立件しなければいけないというプレッシャ―がかかるのが一番の問題だと思います。そのため、本来、刑事責任を問われる必要のない人たちが人身御供的に起訴されるという側面が出ざるを得ません。判決が無罪になっても、間違って起訴された人の精神的、社会的、経済的損失は回復できません。そのうえ、責任の所在や原因が不明となって、被害者の方や遺族の方も納得できないことになります。
そもそも、今の過失理論、刑訴法手続きのもとでは、複雑大規模な特殊事故の本質的原因を解明するのは無理なのです。一般的に、事故が起きたとき、その原因はいっぱいあります。捜査当局が追及するのは、その中のひとつである「直近過失」です。本質的原因を探すのではない。事故に結びつく直近の過失を探し、その過失を犯した人物を処罰するのが捜査なのです。しかし、「直近」の原因が、その事故の本質原因とは限りません。その事故の「直近」の原因を排除しても同種の事故が起きる可能性は否定できないのです。それを考えると、今の制度の下での捜査、裁判が、必ず同種事故の再発防止に繋がるとは言えないのです。
大きな事故が起きた場合、関係する人たちは、それぞれ、少しずつしか事故に関わっていないのです。複雑、大規模な事故は、事故の原因が一見して明らかというようなことは殆どない。しかも警察、検察は捜査手続きの中で事故原因を解明しようとするので、どうしても事故に関係のありそうな人物は被疑者として供述拒否権を与えて聴取をせざるをえない。そのような仕組みでは、関係者から全ての事実を聞き出すことは難しい。また、警察の科学的知識では、原因解明が難しい場合も少なくない。その上、捜査手続きで原因解明をしようとすると、関係証拠は全て警察が管理することとなり、「捜査の秘密」の壁で囲われてしまい、原因解明が遅れたり、捜査が正しい方向に向かわず、本来起訴するべきでない人を起訴してしまうということも起きうるのです。
ですから、事故の本質的原因を解明し再発防止に繋げ、被害者の方、遺族の方の納得を得るためには、新しい仕組みを作る必要があると考えています。――どのような仕組みにすれば、事故の本質的原因を究明し再発防止につなげられるとお考えですか。
高井弁護士:まず、事故に関係した当該メーカー、同業他メーカー、検察、警察、弁護士、第三者的専門家等で構成する調査委員会を作り、その委員会に捜索差押えの権限,関係者を勾引する権限等十分な権限と人員、予算を付与する。一方、事故関係者には刑事免責を与える代わりに調査に協力する義務と真実を供述する義務を課し、意図的にこの義務に反した場合は厳罰を科すようにする。
この調査で、当該会社の特定の社員に過失があ
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