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「文明の衝突」を国益に 米国式倒産実務の流入とその余震

坂井 秀行

国際化ということ

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
坂井 秀行

坂井 秀行(さかい・ひでゆき)
 1974年、東京大学法学部卒業。1976年、司法修習(28期)を経て弁護士登録(東京弁護士会)。1982年、米国デューク大学ロースクール修了(LL.M.)。1990年、ブレークモア法律事務所パートナー。1995年、坂井秀行法律事務所(前 坂井・三村法律事務所)設立。2007年、ビンガム・坂井・三村・相澤法律事務所(外国法共同事業)マネージングパートナー。2015年4月、統合により当事務所に加入。
 今さら、「国際化」もないだろう、とお思いになる方は多かろう。確かに、これだけ私たちの周りに「海外」が溢れてくると、私自身ついそのように思ってしまう。

 しかし、40年を超えた自分の弁護士人生を振り返ってみると、私たちの海外との融合はまだまだだなぁ、と感じざるを得ない。

 留学の効用

 ご存じだろうか。われわれが親しい外国と感じている米国でさえ、2014年~2015年の統計によれば、日本人留学生数19,000人は、今や中国の304,000人は言うに及ばず、韓国の64,000人にさえ既に遠く及ばない。日本の人口が韓国の約2.5倍であること、経済規模が4倍近いこと、これに対して米国との地理的、文化的な距離には差がないことなどを念頭に置くと、考えさせられる。

 私自身の経験から言うと、米国に留学した1980年代初頭には、日本人の英語能力は、世界の留学生の中で相当劣位にあったが、少なくとも明らかに韓国からの留学生たちよりは上だった。しかし、1990年代後半の一大金融危機を経て、韓国の若者は外国語の必要性に目覚め、いまや経済の中核を担う層では、日本人の英語を確実に凌駕しているように思える。

 留学には、言語の習熟に留まらない効用があると思う。その一つが、人は留学によって、外から自分を、そして日本の制度、文物、ものの考え方を見直す機会を与えてくれることだ。いわば、複眼的観察力を身につけるチャンスを与えてくれる。問題に直面した時、これを複数の観点から観察する習慣や能力は、社会人として重要な資質である。若い間に異文化に接触しておくことは、こうした資質を身につける上で貴重だと思う。そう考えたとき、若者のこの国内引きこもり傾向には、ふと懸念を覚える。

 デューク・ロースクール留学時代のこと

 私自身のことを振り返れば、米国ノースカロライナ州のデュークという大学のロースクールに行った頃、在籍していた日本人は、1年先に入っていた企業留学生1人だけだった。彼は、3年生のJD(法務博士)プログラムに在籍していたので、卒業は、LLM(法学修士)プログラムを選択した私の方が1年早かった。つまり、私は、デューク・ロースクールの日本人として第1号の卒業生となった。というより、むしろ日本人のコミュニティーのない大学に行くために、東京にあるフルブライト委員会事務局で相談し、調べて、デュークに出願したのだった。

 デュークでは、大学時代やっていたラグビー部に入って、4年制の学生たちと一緒になってプレーした。グラウンドは、グラスこそ豊かに生えているが左右に傾斜しており、ウイングが外側にスワーブを切ってもスピードの乗りが、左右でまったく異なる。大学スポーツの花形、フットボールゲームが行われる日には、観客たちの駐車場に様変わりし、私たちを悲しませた。

 練習はそのグラウンドで週2回だが、驚かされたのは、最初まるっきりの初心者だった選手たちが、そうして練習しているうちに直ぐ上達して、1、2ヶ月もすると土曜ごとの試合に出られるレベルに一応は到達してしまうことだった。子供の頃から、いろいろのスポーツに馴れ親しんでいるせいなのかと、彼我の違いに目を丸くした。けれども、ニューイングランドやカリフォルニアに比べて、レベルはそれほど高くはなかった。ある時、若い学生に、「Dick(当時私はそう呼ばれていた)は、日本代表だったのか?」と尋ねられた。褒められて喜ぶ前に、日本のプライドが傷つけられたと感じて、思わず、「とんでもない!」と答えた。答えてから、少し後悔した。

 試験を前にした、冬の謝肉祭シーズン。ニューオリンズのテューレイン大学のラグビー部が毎年主催しているMardi Grasトーナメントにその年も招待された。チームのメンバーと一緒にバンに乗り、南部の大平原を24時間、一路ニューオリンズまで走った。バンの中では、私はビールを飲み、若い学生の幾人かはマリファナを吸っていた。トーナメントに参加すると、決勝まで勝ち進み、相手はオーストラリアのマックォーリー大学チーム。なんと、私が米国留学直前に、自分のクラブの主将としてオーストラリア遠征をした際の対戦チームだった。彼らは、遠く太平洋を越えて、Mardi Grasトーナメントに招待されていたのだ。私は日本から。この再会には、両者びっくり仰天。まさに、地球は狭い。

 デューク大学ラグビー部の主将は、MBAプログラムの男で仲好く付き合った。彼とは、私に英語を教えるかわりに、家族持ちだった私の自宅で、週一回彼に夕食をご馳走する、という取引をした。1年続けた。

 ロースクールの教室や図書館では、それなりに勉強はした。しかし、日本を出る前、事務所の先輩弁護士から言われた、「アメリカに行ったら、なまじ勉強なんかしなくていいから、アメリカ人のものの考え方をよく見て来い」という助言だけは、かなりしっかり守れたような気がする。

 海外赴任

 海外の効用は、海外留学に留まらない。企業からの海外赴任もそうだろう。

 「昔、旧制高校、今、海外赴任」という。異なった帝大、異なった企業に所属していても、戦前なら旧制高校時代、今では海外赴任時代を一緒に過ごした仲間は、その後の人生がどう分かれようと、一生、肝胆相照らす付き合いができることをいう。タコツボ化しそうな日本の組織に所属する者にとって、海外赴任はそれほど貴重な機会だ。

 しかし、企業人の世界でも海外離れが始まっているのだろうか。大手企業の国際人事に勤務する友人から、「この頃、うちの若い連中って、海外に出たがらねぇんだよ」と聞いたのは、もう20年以上前のことである。その企業は、国際性にこそ存在価値を見出すべき業種だ。若者の内向き志向に吃驚した。

 弁護士業務の国際化―倒産関連業務の場合

 さて、私たちの関与する企業法務の世界。弁護士は、企業活動に寄り添いそのニーズを吸い上げようと努めてきた。その過程で、私たちの業務は、伝統的な実務区分の境界を越えて、どんどん融合が進んでいる。

 倒産と国際業務との融合も、その一つである。

 企業活動が国際化すれば、企業の倒産に伴って発生する問題も当然国際化する。「倒産」の世界に、「国際」の要素が入り込んでくる。しかし、私たち倒産弁護士は、長くこの要請に応え得てこなかった。倒産弁護士と国際法務を扱う渉外弁護士とを、同一の弁護士が演ずることは殆どなかったし、同じ法律事務所が取り扱うことさえ、きわめて稀だった。長くそうした水と油の時代が続いた。逆に言えば、多少ともその両者を融合する世界を活動の場とする弁護士はきわめて少なかった。

 その意味で自分は、日本の倒産弁護士の中では、かなり異例の類いに属する。上記のとおり、若い頃に米国留学を経験していたお蔭で、「国際」と「倒産」との融合分野への抵抗はなかった。1991年8月、(株)マルコ-についての史上初の日米国際並行倒産手続が始まり、その管財人団に加えて頂いたのが、国際倒産との最初の出会い。有名な、英米国際並行倒産のMaxwell Communications事件は、同年11月のことだったから、マルコ-事件は、私だけでなく、米国にとっても、初の本格的国際並行倒産だったのではなかろうか。以後、1997年に大倒産時代に突入し、2000年の千代田生命に対する史上初の更生特例手続における管財人経験を経て、時に数千億、数兆円の資産や負債の絡む、無数の国際倒産事件に関与してきた。

 これらの手続の特徴は、日本に巨額の不良資産投資資金が流入し、そこに米国の弁護士と米国式の倒産実務が流入してきたことだ。この「外資」たちは、古い日本の倒産業界の「掟」は知らず、これにしたがう気など端からない。巨額のカネと割り切りを持って、1990年代後半、突然、日本の倒産シーンに出現した。彼らは、米国式の倒産・事業再生実務を日本に持ち込んだ。そこで、大げさに言えば、「文明の衝突」が起きた。そのお蔭で、日本の経済危機からの脱出に必要な資金が供給され、多くの企業が復活を遂げた。今、日本の倒産・事業再生の世界で起こっていることは、約20年前に起きた衝突の余震であり、当分終わることはないだろう。私たちは、この状況をしっかりと理解し、受け止め、対応していかなくてはならない。

 文明の衝突は否応なく起こる。今、中東でも激しく起こっている。それによる衝撃も避けることはできない。しかし、その衝撃を和らげること、更には、自らの変革のために利用していくことは、私たちの知恵でできるのだろう。それには、他の文明を正しく理解し、これとの対話能力を身につけておくことだ。「国際化」の重要な一面は、ここにある。

 国際化は必然だが、これを国益とできるか否かは、私たちの知恵と努力次第だ。私たち国際倒産弁護士の責任は重いと感ずるのだ。