2016年04月06日
たかだか500人規模の暴力団工藤会に対し、警察、検察が2014年9月以来、総力を上げて「頂上」作戦を展開している。その成果を検証し、今後の課題を連載で探る。第3回の本稿では捜査当局を背水の陣に「追い詰め」、「その気にさせた」工藤会とは、どういう存在なのか、を報告する。
2012年9月7日午前1時前、北九州市のスナックの女性経営者が自宅前でタクシーから降りたところ、待ち伏せしていた黒の目出し帽の男にいきなり左頰を切りつけられ、右臀部を刺された。止めに入ったタクシー運転手も頭部に重傷を負った。
5週間前の12年8月1日、福岡県では暴力団排除条例が改正され、県公安委員会が発行する標章を掲げた店への工藤会組員の立ち入りが禁じられた。経営者は店に「暴力団員立入禁止」の標章を掲げていた。工藤会は怖い。それでも、警察による安全保障を信じ、工藤会を拒絶しようとした経営者の強い意思表明でもあった。
「震えるネオン 北九州、組員拒む店に『次はお前やぞ』」という見出しで2012年10月23日の朝日新聞朝刊に掲載された記事によれば、経営者に対する切り裂き事件の後、標章を掲げる約90軒の飲食店に一斉に公衆電話からドスのきいた声で「県警に協力しとろうが。次はおまえの番やぞ」との電話が入ったという。
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経営者が刺されるより3週間前の2012年8月14日未明には、北九州市小倉北区堺町で標章掲示店が複数入る雑居ビル2棟のエレベーターが放火されていた。経営者の店もそのビルのひとつにあった。経営者が刺されて3週間後の12年9月26日未明には、同市内のクラブの営業部長が自宅前で臀部を3回刺された。このクラブも標章を掲げていた。
一連の事件は、工藤会が市民に恐怖感を植え付け、みかじめ料の利権を確保する目的で起こした組織的犯行だと多くの市民は受け止めた。それは、警察に対する挑戦でもあった。
2012年10月の改正暴力団対策法施行に伴い、市民らへの襲撃を繰り返す恐れがある「特定危険指定暴力団」に指定された暴力団の組員は、縄張り内でみかじめ料などの不当な要求をすると、中止命令がなくても逮捕できるようになった。福岡県公安委員会は12月27日、工藤会を、「特定危険指定暴力団」に指定したが、同委員会や県警が指定準備を進める間にも、嘲笑うかのように飲食店を狙った犯行は続いた。
同年8月から11月までに飲食店関係者を狙った放火、殺傷事件は計9件に上った。県警は、暴力団怖さで標章掲示をためらう飲食店を「必ず守る」と説得し、店側が勇気を奮って掲示した。しかし、警察は、市民を守りきれなかった。警察に対する市民の信頼を大きく損ねる結果となった。
ようやく標章掲示店への襲撃がやんだのは、福岡県警が12年11月11日、応援機動隊を200人に増やし警戒を厳重にしてからだった。
工藤会の市民攻撃はこれが最初ではない。工藤会組員の犯行として捜査当局が摘発し、また、摘発にはいたっていないが、工藤会の犯行と疑っている主な事件を挙げてみる。
1992年の暴力団対策法施行に伴い、警察と企業による暴力団排除活動が全国で展開されていた1994年9月を中心に北九州市などでパチンコ店やホテル、タクシー会社に対し、19件(未遂1件)の連続発砲事件が起きた。県警は、二代目工藤連合草野一家(現工藤会)系の組員による犯行と断定、「警察と企業の暴力団排除キャンペーンに対する挑発」とみて本部事務所などを捜索した。
同一家幹部は報道陣に対し「一家としては一切関与していない」と組織的関与を否定した。が、一連の発砲事件で、6件について二代目工藤連合草野一家傘下の組員12人が一審で実刑判決を受けたが、残りの事件は犯人がわからず時効が成立した。
98年2月18日には、小倉北区のキャバレー前の路上で梶原国弘・元脇之浦漁協組合長が2人組の男に拳銃で頭や胸などを撃たれ殺害された。
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2000年6月14日には、山口県下関市内の結婚式場に火炎びんが投げ込まれ外壁が焼ける事件が起き、さらに、その3日後の17日には安倍晋三首相の下関市内の自宅に火炎びんが投げ込まれ、車庫と車を全半焼した。13日に衆院選が公示された後の選挙期間中で、安倍氏は自宅にいたが、けがはなかった。さらに、28日に安倍氏の後援会事務所にも火炎びんが投げ込まれたが、発火しなかった。
3年後に、工藤会系の組幹部と会社社長が3件の非現住建造物放火などの容疑で福岡、山口両県警に逮捕された。会社社長は99年の下関市長選にからみ「依頼された候補者支援で莫大なカネを使った」として安倍氏の元秘書から約300万円を脅し取ったとして逮捕されたが、起訴猶予になっていた。組幹部と社長らは実刑判決を受け確定した。一審判決は、下関市長選で安倍首相側が支援する候補者に協力した社長が恨みを抱き、暴力で金銭を引き出すため、実行犯に犯行を依頼した、と指摘した。
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2001年12月には、暴力排除を掲げて当選した福岡県中間市長の選挙参謀だった市議が襲撃され、河川敷に突き落とされ重傷を負った。工藤会組員4人が逮捕された。検察側の指摘によると、組員は、市議の車に発信器を仕掛け、位置を把握して襲撃した、という。組員はいずれも実刑判決を言い渡された。
2003年8月18日には、小倉北区の高級ナイトクラブ「倶楽部ぼおるど」店内に手榴弾が投げ込まれ、女性従業員ら13人が重軽傷を負った。容疑者の工藤会系組員は男性従業員らに取り押さえられ、胸部圧迫のため死亡した。「ぼおるど」の経営者は以前から暴力団追放運動に熱心だった。襲撃前にも、店内に糞尿をまかれたり、支配人が刃物で胸を刺されたりしていた。襲撃は、福岡県警が警戒を強めていたさなかに起きた。県警は爆破事件とは別の容疑で同組員10数人を逮捕。店の周辺の警戒を強化したが、その最中にも繁華街にある警官詰め所近くで発砲が起きた。クラブはその後廃業した。
2010年3月には、工藤会の事務所に立ち退きを求めた自治会長宅が銃撃される事件が起きたが、これも犯人は捕まっていない。
建設業界も標的となった。建設業界ではかつて、公共事業利権をめぐる官製談合が当たり前のように行われていた。「裏街道」には、当然のごとく暴力団が介入した。工藤会の場合は、それが他の組織より手荒かった。
2000年6月12日午後5時前、福岡市のオフィス街にある大手ゼネコン「大成建設」九州支店に向けて男が拳銃を発砲するのを通行人が目撃した。入り口のガラスが割れただけで負傷者は出なかったが、まだ明るいうちの大胆な犯行だった。県警は公共事業をめぐり同建設が工藤会へのみかじめ料を拒否したのが犯行動機とみて捜査し、工藤会系組幹部を逮捕した。同幹部は他の事件とあわせ有罪判決を受けた。
2004年6月には、北九州都市高速道路の橋改築工事を請け負った銭高組北九州営業所と下請け業者の事務所が銃撃された。福岡県警は、両社が工藤会と親交のある業者の参入を拒んだため組員らが威嚇して利権を確保しようとした、とみて工藤会系組員数人を逮捕。判決は、工藤会の組織的犯行と認定した。
さらに、2006年12月4日早朝、福岡市の清水建設九州支店が入るオフィスビルの玄関に銃弾が撃ち込まれた。翌5日には、同市の熊谷組九州支店、北九州市の山喜建設、同市の浅沼組北九州営業所が相次いで銃撃された。県警は、熊谷組については、みかじめ料を拒否したこと、残る2社については、元請けの大手ゼネコン大林組に対する嫌がらせとみて捜査したが、いずれも犯人は捕まっていない。複数の大手ゼネコンに対する嫌がらせとみられる発砲や放火は2011年5月まで断続的に続き、二十数件を数えた。
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中でも、最も執拗に狙われたのが清水建設だった。福岡県警によると、11回にわたって現場事務所が放火されたり、銃撃されたりした。2011年2月9日には事務所内に侵入した男が男性従業員に向け発砲、従業員は腹部にけがをした。県警は同建設が「工藤会との決別」を下請け業者などに宣言。嫌がらせを受けても屈しなかったため、長期の攻撃が続いたとみているが、犯人は捕まっていない。
2011年3月5日未明、九州電力会長宅と西部ガス会長宅に手榴弾が投げ込まれた。いずれも負傷者はいなかったが、九州電力は、西部ガスが建設中の液化天然ガス(LNG)受け入れ施設の運営会社に出資しており、福岡県警は、LNG施設建設利権をめぐる嫌がらせとみている。いずれも犯人は未検挙のままだ。
同年11月26日には、中堅の建設会社役員が、車で帰宅したところ、つけてきたバイクの男に銃撃され死亡した。同建設は、大手ゼネコン大林組の下請けだった。福岡県警は、大林組の意向を受けて工藤会と手を切ったため狙われたとみて捜査している。
工藤会の牙が向けられたのは、市民だけではなかった。警察官も襲撃された。1988年3月には福岡県宗像市の元福岡県警暴力団担当警部の新築住宅の床下にガソリンを撒いて放火。元警部方と隣家を全焼させた。県警は工藤連合草野一家組員4人を摘発。県警の捜査に対する牽制、挑発とみられる。
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12年年4月19日には福岡県警で工藤会担当班長を務めた元警部がスクーターの組員に銃撃され重傷を負った。元警部は事件の約1年前から県警の保護対象になっていた。事件前には自宅周辺で工藤会幹部らの車も目撃されていたが、事件を防ぐことはできなかった。この事件を機に警察庁は全国からの機動隊を福岡県に応援派遣することになった。14年末までにのべ約2万人が投入され、事件の警戒や市民の警護にあたった。
それでも事件は続いた。福岡県内の繁華街で暴力団員の入店を禁じる標章制度にからみ、北九州市内で飲食店経営者らが切りつけられる事件が続発するのはその後だ。改正暴力団対策法が施行され、工藤会は12年12月に全国唯一の「特定危険指定暴力団」に指定されたが、警察を嘲笑うように、殺傷事件は続く。
翌13年1月には、福岡市博多区の路上で看護師の女性が頭などを切られ重傷を負う事件が起きた。看護師は工藤会の野村総裁が入院治療を受けていた病院に勤務し、総裁を担当していた。
工藤会が生まれた北九州市は、官営八幡製鉄所の企業城下町として、また筑豊炭鉱群で産出する石炭の積み出し港として栄えた。全国から職を求める労働者や風俗資本が集まり、当時の当局が「不逞の輩」と見なす人たちも流入した。そうした中で、それらの人たちを統治し組織化する親分が台頭した。
芥川賞作家の火野葦平(本名、玉井勝則、故人)の代表作「花と龍」の主人公で火野の実父でもある玉井金五郎氏(故人)もそうした親分の一人だったという。中でも大親分といわれたのが吉田磯吉氏(故人)。捜査当局によると、10代半ばで、遠賀川で石炭を運ぶ船の船頭となり、その親分として、若松地区の他の親分や顔役と闘争をくり返し、彼らを従えたという。北九州の花柳界、炭鉱、興行の利権を取り仕切る一方、政界に進出し、民政党の代議士になった。
朝日新聞西部本社発行の1989年6月20日付夕刊の記事「任侠代議士・吉田磯吉、政界腐敗許さず KBCが放映」は、吉田氏について以下のように記している。
大正10年5月、政友会が日本郵船の膨大な資産と株の高配当を政治資金に利用しようと、総会に総会屋を送り込み役員の総退陣を迫る計略があった。これを対立する民政党の代議士だった吉田磯吉が山縣有朋の命を受け、子分200人を上京させ、圧服する事件があった。その時の政治状況が現代とよく類似していた。
この時代、原内閣が小選挙区制を導入し、総選挙で圧勝。軍備の拡大、所得税、酒税の増税を実施する一方、教育改革を図るなど時代は今に似る。米騒動を契機として、九州各地の炭鉱夫たちの解雇、閉山が相次いだ。
三井や三菱などの中央大手資本が筑豊炭鉱を経営していくのに、磯吉の「フィクサー」としての力量と影響力を見込んで利用しようとし、半面、磯吉も子分たちに存在を示す根拠を作る必要があった。暴動を起こせば、資本側は強権を発動、警察をださせ抑えつけた。炭鉱労働者の不満や怒りはいつ爆発してもおかしくない状況だつた。
捜査当局などによると、吉田氏の子分の富永亀吉氏は北九州から神戸に進出し、神戸港の労務作業に人夫を供給する富永組を立ち上げた。富永氏の兄弟分の親分の舎弟の大島秀吉氏が富永氏亡きあと、神戸ヤクザ界のトップになったという。その大島氏の子分が山口春吉・初代山口組長。日本最大の広域暴力団山口組のルーツは北九州だったともいえるのだ。
暴力団に詳しいフリージャーナリストの猪野健治氏は著書「やくざと日本人」(ちくま文庫)で吉田氏を「『現代やくざの鼻祖』といわれる」「系譜的に見るならば、伝統的なやくざ組織の大部分が吉田磯吉となんらかのつながりをもっている」と表現した。
当の工藤会は、こうした一連の事件についてどう説明するのか。
「言うこと聞かんかったら、殺せっていうのが小倉の極道。警察や自治体がほえない方が何も起きない。そっとしておいた方がいいのよ」
朝日新聞記者の取材に応じた元工藤会系組員はこううそぶいたという。また、木村博工藤会幹事長(当時、その後理事長代行)は取材に対し「無理に市民と暴力団を対峙させる警察のやり方は問題があるのでは」「我々がいるから、不良外国人や半グレと言われる不良集団を根付かせない面もある」などと語った。(いずれも、2012年10月23日の朝日新聞朝刊記事)
確かに、国内の別の暴力組織や中国マフィアが北九州市の飲食街を進出するのを工藤会が食い止めた側面はあるのだろう。だからといって、暴力に訴えていいわけはない。いわんや、みかじめ料の支払いを拒んだ経営者や暴力団追放運動のリーダーを襲撃するなどもってのほかだ。警察は何をしているのかと、市民やマスコミから警察に批判の矛先が向けられた。
ちなみに、木村理事長代行は、自分が組長を務める組の幹部を2008年9月に福岡県中間市の自宅で射殺したとして2015年5月に起訴された。県警は2009年に木村理事長代行ら5人を殺人などの疑いで逮捕したが、木村理事長代行ら3人は証拠不十分として処分保留で釈放されていた。地検は、新しい証拠がその後得られたとして起訴に踏み切った。(次回につづく)
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