2016年04月13日
西村あさひ法律事務所
弁護士 有吉 尚哉
このようにマイナス金利の導入により新たな論点が生じている場面の一つとして、融資契約やデリバティブ取引などにおける変動金利に関する実務対応があげられる。以下では、マイナス金利の状態が現実のものとなったことに伴う影響の一例として、契約実務の動向や既存の契約の解釈に関して生じている法的論点を紹介する。
変動金利によって利息を定める融資契約や、金利スワップ取引など変動金利を参照するデリバティブ取引においては、契約実務上、LIBOR(London Interbank Offered Rate。ロンドン市場での銀行間の資金取引の貸出金利)やTIBOR(Tokyo Interbank Offered Rate。東京市場での銀行間の資金取引の貸出金利)などの金利指標を基準金利(ベースレート)として定め、この基準金利に債務者の信用力などに応じた一定のスプレッドを加算することにより、適用金利を計算し、元本を乗じることで利息を計算するものとされている(〔基準金利〕+〔スプレッド〕=〔適用金利〕)。然るところ、マイナス金利が導入されたことにより、LIBORなどの金利指標がマイナスの値となる状況が生じており、スプレッドの値が小さい場合には、計算上、適用金利がマイナスとなる場合も生じている。
ここで、たとえば、融資契約の中で、基準金利+スプレッドの形式で適用金利が定められている場合において、計算上、適用金利がマイナスとなった場合(すなわち、スプレッドよりも基準金利のマイナス幅が大きくなった場合)、利息についてどのような決済を行うべきなのか(通常のとおり借主が貸主に利息を支払うのではなく、貸主が借主に対して利息を支払うといったことが必要になるのか)ということが論点となる。
契約によってどのような効力・権利関係を生じさせるかということは、基本的に当事者の合意に委ねられており、基準金利を参照して当事者間でどのような支払いを行うことを取り決めるかについても、契約に示された当事者の合意内容次第となる。したがって、融資契約において、基準金利がマイナスとなったことに伴い、計算上、適用金利がマイナスとなった場合に、利息の支払いを行わない(適用金利をゼロとする)とすることも、あるいは、貸主が借主に対して「マイナス金利」として金銭を支払うとすることも、いずれも契約に定めること自体は当事者の自由であり、当事者が定めた内容に従った権利関係が生じることになる(文字どおり「マイナスの利息」というものを観念することができるかどうかは明確ではないが、少なくとも、利息とは別の手数料などの名目で、一定の場合に貸主から借主に一定額の支払いをすることを約定することは可能である)。
マイナス金利の導入により、LIBORなどの金利指標がマイナスの値となる可能性が顕在化して以降の変動利息による融資契約の実務においては、計算上、適用金利がマイナスとなる場合の取扱いについて、契約に明示的な定めを置くことが多くなりつつある。具体的には、計算上、適用金利がマイナスとなった場合には、適用金利がゼロとなること(あるいは、基準金利となる金利指標がマイナスとなった場合に、基準金利をゼロと取り扱うこと)が、契約上明示的に定められることも見受けられるようになってきている。
以上のようにマイナス金利政策の採用決定後に締結される契約においては、基準金利や適用金利が計算上、マイナスとなる可能性も踏まえて、当事者の意図している権利関係を、契約に明示的に定めることによって対応することが可能である。これに対して、日本銀行がマイナス金利政策の採用を決定する以前に締結された契約の多くでは、適用金利がマイナスとなった場合の取扱いが明示的には定められておらず、実際に適用金利の値が計算上マイナスとなる場合に、どのように取り扱うべきか契約の解釈が論点となる。この点は、個々の契約について、具体的な事情の下で当事者がどのような意図をもって契約を締結したかという意思解釈の問題であり、最終的には個別的に判断をせざるを得ない論点であるが、一般的な考え方について、日本銀行が事務局を務め、金融分野を専門とする学者・弁護士を構成員とする金融法委員会(なお、筆者も同委員会の委員を拝命している)より2016年2月19日に「マイナス金利の導入に伴って生ずる契約解釈上の問題に対する考え方の整理」と題するペーパー(http://www.flb.gr.jp/jdoc/publication49-j.pdf。以下「金融法委員会報告」)が公表されており、金融実務上の指針となっている。
金融法委員会報告では、①金銭消費貸借・社債、②デリバティブ取引(金利スワップ取引)、③預金の3つの取引類型について、変動金利に関する契約条項の解釈についての考え方を整理している。その中では、変動金利の値がマイナスとなる場合の取扱いが契約上、明示的に定められていない場合に関する一般的な考え方について、概要として以下のようにまとめられている(検討の詳細は金融法委員会報告をご参照いただきたい)。なお、デリバティブ取引の実務上、参照されることの多い2006年版ISDA Definitionsでは、金利スワップ取引において、当事者が適用金利の下限をゼロとする条項を選択しない限り、適用金利がマイナスとなった場合に、変動金利相当額を本来受け取る側の当事者が(計算上、マイナスとなった)変動金利相当額の絶対額を支払うこととされており、マイナス金利の状況の下での取扱いが契約上、明確になっているが、2006年版ISDA Definitionsを参照していないデリバティブ取引については、以下の考え方が当てはまることになる。
金融法委員会報告では、以上のように3つの取引類型における原則的な考え方を整理した上で、具体的な契約文言、取引の経済的合理性、当事者の取引動機、説明・交渉経緯、当事者の属性などの個別事情(当事者による会計・税務上の処理も含む)により、一般的な考え方とは異なる内容の合意が認定されることも充分にあり得るとしている。
実務上は、金融法委員会報告で示された考え方も参考に、融資契約・社債・預金については、別段の合意がない限り、マイナス金利による反対方向の支払いを行う義務は生じないことを原則とし、特段の事情によって反対方向の支払いを行うことの(黙示的な)合意が推認される場合に限って、貸主・社債権者・預金者からの「マイナス金利」の支払いが必要となると取り扱うことが一般的となりつつあると思われる。他方、(前述の2006年版ISDA Definitionsが参照されていない)金利スワップ取引については、基本的には適用利率がマイナスとなった場合には反対方向の支払いが必要となると解されることを原則として、例外的に取引動機などの個別事情によって両当事者が適用金利の下限をゼロとする意図で契約をしていたことが推認される場合には、そのような取引として取り扱うという運用がなされる例が多くなっているのではないかと思われる。
実務上、金融機関から変動金利の融資によって資金を調達した上で、借主が金利の固定化ないし金利リスクのヘッジを行うために、別途、貸主や他の金融機関と金利スワップ取引を締結するという一連の取引が行われることがある。このような取引において、融資契約と金利スワップ取引のいずれについても、適用金利がマイナスとなった場合の取扱いが明示的に合意されていないこともある。金融法委員会報告では、このような場面について、一連の契約の締結経緯などを踏まえた金利スワップ取引の解釈として、(通常の場合と異なり、)反対方向の変動金利相当額の支払義務が生じないと解される、あるいは、融資契約に基づく反対方向の支払義務の合意が認定される可能性があるとしている。
個々の取引について、取引の動機や交渉・説明の経緯を踏まえて、そのような解釈がなされる可能性もあり得よう。もっとも、契約締結の経緯を踏まえても、なお当事者の会計処理や他の取引の取扱いとの整合性などを含めた個別事情により、前述の一般的な考え方に即した解釈が当てはまり、適用金利がマイナスとなった場合、融資契約については反対方向のマイナス金利の支払いが行われず(適用金利についてゼロを下限とし)、他方、金利スワップ取引についてはマイナス金利の絶対値について反対方向の支払いが必要となるという状況が生じることもあり得る。この場合には、借主は、融資契約により金融機関から追加的な支払いが得られない一方で、金利スワップ取引によって所定の固定金利相当額に加えて、マイナスとなった変動金利相当額の絶対値の支払いも必要となり、金利の固定化ないし金利リスクのヘッジを行うという取引の目的が達成できないことになってしまう。
このような場面では、金融機関の側も、(契約の解釈とは乖離するとしても)融資契約の金利と金利スワップ取引の適用金利とを合わせることを意図しており、金利スワップ取引によるマイナス金利分の収益を期待しているわけではないこともあり得よう。その場合、顧客との取引関係の観点から、金融機関が、マイナス金利分の変動金利相当額の支払いを免除したり、マイナス金利分の変動金利相当額と対当額を顧客に支払うこととした上で相殺処理をすることによって、当初の意図や顧客への説明内容と合致した結果を実現しようとすることが想定される。
ここで、金融商品取引法は、市場仲介者としての中立性・公正性を確保する観点から、金融機関が顧客とデリバティブ取引を行う場合に、顧客に生じた損失を補てんすることを禁止している(同法39条1項)。また、金融機関がデリバティブ取引について、顧客に対して、「特別の利益」を提供することも禁止されている(同法38条8号、金融商品取引業等に関する内閣府令117条1項3号)。そこで、前述のように金融機関が金利デリバティブ取引についてマイナス金利分の変動金利相当額の支払いを免除すること、あるいは、マイナス金利分の変動金利相当額と対当額を顧客に対して支払うことが、禁止されている損失補てん又は特別の利益の提供に該当しないかが、法的に問題となる。
この点、このような処理は、金利スワップ取引によって顧客に生じたマイナス金利分の損失を補てんするものであると評価される可能性があり、形式的には金融商品取引法によって禁止される損失補てんに該当し得るようにも思われる。もっとも、たとえば、事業再生ADR手続において金融機関がデリバティブ取引による損失に係る債権を放棄することも、一定の合理性・公正性が認められる場合には、損失補てん等禁止に違反しないと考えられており、形式的に損失の補てんに当たる行為が例外なく金融商品取引法によって禁止されると解されているわけではない。そのため、金利の固定化ないし金利リスクのヘッジを行うために締結された金利スワップ取引について、目的の正当性が認められる範囲で、かつ、市場仲介者としての中立性・公正性を損なわない態様で、金融機関が顧客に生じたマイナス金利分の損失を補てんする行為は、金融商品取引法に違反するものではないと解することもできるものと考える。
また、顧客に生じたマイナス金利分の損失を補てんする行為が、顧客を不公正に取り扱ったり、顧客の適正な投資判断を害することになるものではなく、かつ、社会通念上妥当と認められる範囲で行われるような場合には、金融商品取引法が提供を禁止する「特別の利益」に該当するものでもないと解することができると考えられる。
以上のとおり、金利の固定化ないし金利リスクのヘッジを行うために締結された金利スワップ取引について、顧客にマイナス金利分の変動金利相当額の負担を免れさせる行為は、金融商品取引法の規制に抵触する可能性があるものの、適正な範囲で実施する限り、適法な行為として実施することができると考えられる。なお、このような金利スワップ取引の処理に当たっては、経済的な利益関係や規制との関係に加えて、金融機関・顧客双方の会計・税務への影響にも配慮することが求められよう。
日本銀行がマイナス金利政策を採用したことにより、LIBORなどの金利指標がマイナスとなる可能性が顕在化し、実際に金利指標や金利指標にスプレッドを加えた適用金利がマイナスとなる事態が生じるようになってきている。このような状況は、従来、想定されていなかったものであり、ここまで述べてきた融資契約やデリバティブ取引の契約実務に関する問題を一例として、金融機関とその顧客の双方に、予期されていなかった負担や損失を強いる可能性を生じさせている。
マイナス金利を導入したことによる金融政策
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください