2016年04月19日
アンダーソン・毛利・友常法律事務所
小林隆一
1 はじめに
2 ギターという楽器の深み
私が初めて手にしたギターは中学校の音楽室にあるクラシックギターだった。
友人に教えてもらったエアロスミスのイントロを爪弾き、普段はラジカセから聴こえてくる音楽を自分の手で再現できることが嬉しくて、繰り返し同じフレーズを音楽室で奏でていた。それから間もなく、従兄弟からエレクトリックギターを借り受け、多くの同年代の友人と同様にハードロックに目覚めてバンド活動を始めることとなった。大学生になって自分の音楽の幅を広げようとクラシックギターを弾き始め、大学時代は寝ても覚めてもクラシックギター漬けだったことが懐かしく思い出される。
ギターというのは面白い楽器で、非常に制約が多い。
そもそも、この楽器が音を奏でる仕組みは、一定の力で張られた弦を弾くことで振動させ、その振動が空気を震わせて音程を作るというものだ。そして、テンションをかけて張られた弦を一定のポジションに打ち込まれたフレットと呼ばれる金属部品に押さえつけることで、弦が振動する部分の長さを変える。そうすることで、音程を変化させることができる。そして、メロディを作りだすことが可能となるのだ。
しかし、一度弾いて弦が振動を始めると、その振動は次第に弱くなっていく。生み出された音はゆっくりと減衰して、最後には無音になってしまう。そのため、音楽的には「徐々に音量を上げる」という意味のクレッシェンドという表現方法は、弓を使うバイオリンなどの弦楽器と違い、ギターで表現することが難しい。また、電気的な処理をしない限り、音量は限られ、ピアノほどの広い音域をカバーすることもできない。全く不器用な楽器である。
他方、ギターにしか表現できない音があると、私は思っている。
この楽器は、爪弾く位置や指やピックの角度などの複雑な要素によって、驚くほど多彩な音色を生み出す。弾くポジションによって柔らかい音、硬い音と使い分けたり、弦に接触する爪やピックのアタック音まで表現の一つにしたりすることは、ピアノでは難しい。プロの演奏を間近で聞くと、一人の人間が操るたった6本の弦でここまで様々な表現ができるものなのかと言葉を失ってしまう。
この表現力の豊かさが「小さなオーケストラ」と呼ばれる所以なのだろう。
3 その時だからこそ創りだせる音
バンド活動に傾倒していた10代の頃、私は、他人と同じことをするのが嫌で仕方がなかった。アーティストの演奏を完全にコピーすることに何の楽しみも見出せず、常に変わったこと、新しいことをやろうということばかり考えていた。演奏するたびに違うフレーズを弾いて、バンドメンバーを困らせて楽しんでいたこともあった。
しかし、クラシカルなギター曲は、先人が創り出した珠玉の楽譜があり、その譜面には、奏でるべき音やリズム、テンポや音の強弱まで事細かな指示が書かれている。クラシックギター弾きは、まずは譜面を読み込み、正確にその曲を弾くことができるよう練習するのである。
ここで、初めてクラシックギターというジャンルに出会った頃の私は、次のような疑問を持った。どのように弾くべきかが譜面によって指示されているのであれば、誰が弾いてもその曲は、「その曲」にしかなり得ず、演奏者の個性が発揮出来る余地がないのではないか。そうであるとすれば、演奏家は、どのようにして演奏家としての価値を見出すのだろうか。これが、バンドマンだった私の偽らざる心証だった。
しかし、ギターという楽器の世界に深く潜り込んでいくにつれ、私の考えも変わっていった。同じ曲を同じように弾いているつもりでも、なぜかその時々で違う音が響いている気がするのだ。何か良いことがあった日には踊り跳ねるような音が。失敗したり嫌なことがあったりした時には複雑に絡み合う緊張感ある音が。雨の日にはどんよりと沈み込むような音が、その時々に顔を出す。
また、誰の前で音楽を奏でるのか、聴衆の顔を見ながらも音の表情は変わっていく。
同じ人間の演奏でさえこれだけ変化が出るのだから、違うアーティストが違う解釈で演奏する楽曲は、一つの楽譜を出発点にしても全く異なる表情を見せるのは、当然のことだった。
同じ音は二度と再現することができない。しかし、真摯に楽器に向き合う限り、音楽は彩り豊かに創り出される。
私は、時に不器用で扱いづらい楽器だからこそ、ギターというものに惹かれるのかもしれない。そして、ギターを弾くたびに出会う音色に、「一期一会」という言葉を連想するのである。
4 一期一会
私は、これまで検事の仕事をすることで、多くの人と出会い、その人生に触れてきた。事件によって事情は様々であるため、適正妥当な処分をするためには、関係者一人一人から丁寧に話を聞いて、事実を明らかにしていく必要が生じるのである。
そんな中、私は、日々の仕事が「一生に一度の出会い」であるということを意識するようにしていた。それは、人との出会いであると同時に、事件との出会いでもある。全く同じ事件などなく、目の前の一つ一つの事件に対して真摯な気持ちで向き合うことが重要なのである。
これは、弁護士の仕事も同様なのではないかと思う。
職務経験制度によって弁護士の仕事をして1年が経ち、これまで大小様々な企業の案件に携わってきた。
以前は、企業法務というと、その企業で働く一人一人の顔があまり見えないのではないかというイメージを持っていた。また、ある程度定型化された法的サービスもあり、案件の個性を感じる機会も少ないのではないかという素人的な考えもあった。
しかし、実際に弁護士として関与してきた案件は、実に多彩であった。
組織が人によって構成されている以上、それぞれ個性を持っているのはある意味当然であるが、個別の案件についても、複数の人間の複雑な利害関係が絡み合って個性的な表情を持っている。やはり、弁護士の仕事も、その一つ一つが「一生に一度の出会い」なのだと実感している。
私たち法実務家は、現実社会で生じた(または将来的に生じる)事象に関して法的サービスを提供する。そして、現実社会は、そこで生きる個性豊かな人々によって形作られている。そのため、時に理屈だけでは上手くいかないこともあるかもしれない。ただ、私は、日々出会う案件の一つ一つに対して真摯な気持ちで向き合うことで、求められている役割を果たしたいと思う。
弁護士職務経験の期間は残り1年を切ってしまった。二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いだからこそ、誠意を尽くす。残りの1年間でどれだけの出会いがあるだろうか。その一つ一つを大切にしていきたいと思う。
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