2016年04月20日
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疑惑の舞台となった白島洋上石油備蓄基地は、北九州市若松区の沖合8キロの無人島、白島に併設して建設された。4300億円の国費をつぎ込み、足掛け15年かけて1996年に完成した。島の東側約60㌶の海を防波堤で囲んで外海と遮断し、中に70万㌔リットルの貯蔵船8隻を浮かべ最大で560万㌔リットルの原油を貯蔵できる。
1973年秋の中東戦争で起きた石油危機をきっかけに、国が民間の石油会社に1976年から一定の原油備蓄(90日間)を義務づけたのがそもそもの始まりだった。各地で民間石油備蓄基地を誘致する機運が高まり、北九州市でも白島での石油備蓄基地計画がスタートする。
5社グループは、横田県議ら3人を地元コンサルタントにし、洋上備蓄基地実現のための政官界工作や地元の漁協との交渉を委ねた。関係者の話では、若松区脇之浦漁協組合長だった梶原氏は、コンサルタントの一人である安藤会長と幼なじみで、安藤会長との関係で3人に協力したという。
状況が一変するのは1978年、石油開発公団法が改正されてから。90日分を超える備蓄の義務づけは民間企業に対する経営圧迫につながりかねない、として国自らが石油備蓄を行うことになり、「石油開発公団」を改組、新たに石油備蓄業務の推進を主要業務に加えた「石油公団」(現・独立行政法人「石油天然ガス・金属鉱物資源機構」)が誕生。90日を上回る備蓄として石油公団は当面1千万㌔リットル規模の国家備蓄を実施することになった。
5社グループは、白島備蓄基地計画を国家事業にするよう石油公団などに売り込んだ。福岡県や北九州市も国家備蓄基地の誘致に乗り出した。白島は1978年10月には全国4カ所の基地候補の一つに選ばれ、2年半後の1981年4月には、石油公団は白島に洋上石油備蓄基地を建設すると決定した。
基地建設で漁業権を失う漁民に対する漁業補償は48億円で合意した。漁民側代表として国や県との補償交渉の前面に立ったのが梶原氏だった。石油公団が70%を出資する第三セクター「白島石油備蓄会社」が設立され、北九州市から運輸省に白島東岸の埋め立て願いが提出された。
ところが、着工を控えた1982年秋、5社グループから安藤会長と満井社長の側に政界などへの工作費25億円が流れていたとする疑惑が、マスコミの調査報道や市民グループ「北九州いのちと自然を守る会」(野依勇武代表、当時)の調査などで発覚する。
世界で初めての洋上石油備蓄基地建設をめぐって、すでに25億円余りの資金が工事受注を目指している日立造船を中心とする5社グループから出ていることを裏付ける5社グループの会議録や関係者の証言を1日までに朝日新聞は入手した。そのうち9億円余りは民間備蓄計画時代の諸調査や漁協迷惑料など、先行投資として支出され、残り16億円は主に地元漁協や政界工作に使われたといわれ、その仲介役には東京の不動産業者と北九州市の元暴力団組長で不動産業者である地元コンサルタントが当たったという。
記事の「東京の不動産業者」は満井社長、「元暴力団組長の不動産業者」は安藤会長を指す。記事には、「(グループ企業の1社の)元役員も『地元コンサルタントを通して政界に流れた』と証言した」と書かれていた。
守る会が同じころに入手した5社グループの内部資料によれば、1977年9月時点で安藤会長らは5社グループに対し「北九州市議会工作で3-6億円が必要」「プロジェクトがまとまった場合は、ゼネコンの工事費500億円の3-5%の仲介手数料をもらいたい。この中から3-6億円の工作費を払っていく」と報告していた。
また、1981年6月前後に日立造船が石油公団に報告したとされるメモによれば、「(安藤会長らに流れた)25億円のうち9億2千万円は民間備蓄基地計画時代に立地調査などに伴う漁協関係者迷惑料などの名目でグループ5社が負担。残り16億円は日立、ハザマ、飛島3社が出した」という。
地元選出の複数の有力国会議員や県知事、北九州市長らの周辺に対する安藤会長らコンサルタントの工作や資金提供疑惑が取り沙汰された。数億円の裏金が動いたという噂が飛び交った。
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