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事業再生とは人を再生すること:初めての和議で悟ったこと

三村 藤明

初めての事業再生経験で悟ったこと

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
三村 藤明

三村 藤明(みむら・ふじあき)
 1977年、愛媛大学法文学部卒業。1987年、弁護士登録(東京弁護士会)。1991年、三村藤明法律事務所開設。2002年坂井・三村法律事務所(後にビンガム・坂井・三村・相澤法律事務所(外国法共同事業))開設。2015年4月統合により当事務所に参画。倒産・再生のほとんどの分野に深い経験を有する。元東京弁護士会倒産法部長。
 私は、企業や事業の再生を主な業務としている。弁護士としては、少し偏っていると思わなくもないが、今日は、私が事業再生に取り組むきっかけとなった案件のお話をさせて頂こうと思う。

 20数年前の寒い冬の日のことである。夜9時過ぎ、帰り支度をしていた私の事務所の電話が鳴った。「先生、今日、手形の不渡りを出しました。でも再建したいんです。すぐ来てもらえませんか?」。切羽詰まった調子は有無を言わせない感じだった。再生事件の経験が全く無かった私は、不渡りを出したら駄目だろうと疑心暗鬼の気持ちで、指定された場所に向かった。

 会社は、江東区の中心的な街中にあった。本社ビルは自社所有で、子供用品の製造、販売を行っている従業員約50名くらいの企業であった。当時は、バブル崩壊後といえども、まだ地価は高く、自社ビルを持っているというだけでそれなりの資産価値はあった。

 その本社ビルの3階に、役員ら幹部7~8名が、タバコを燻らせながら、死んだ魚のような目をして集まっていた。私が到着するなり社長が言った。「先生、再建したいんです。不渡りは出しましたが、和議という方法があると聞きました。何とかなりませんか?」。私は、彼らがどこまで本気なのかと慮りながら言った。「分かりました。やってみましょう。でも、和議は難しいですよ。申立の最初に、債権額の過半数の方の、和議に対する同意書を提出しなければならないし、再建計画を可決するには、出席債権者の過半数と総債権額の4分の3以上の同意が必要ですよ」。耳学問で知っていることを絞り出した。ある意味、開き直って私は続けた。「どうしても再建したいというなら、その代わり私の言うとおりにやって下さい。まず、明日以降も平常どおり、工場やお店は、普通に開けて商売を続けてください。しかし、朝から、債権者が大勢、目をつり上げて押しかけてきます。それでも皆さんは慌てず、社長、専務、常務の三名に分かれて、3班くらいに手分けをして丁寧に対応してください。そしてこういって下さい。『ご迷惑をおかけして大変申しわけありません。しかし、再建したいのです。どうぞ、お力をお貸し下さい。詳細は、来週の債権者集会でご説明させて頂きます。どうかお願いします』」。私はさらに続けた。「債権者が納得せずに、商品を持ち帰ったり、それ以上の強硬な手段に訴えてきたら再建はできません。その場合は、速やかに法的整理を行います。債権者がどう対応するかは、みなさんにかかっています。」。「私は、明日のこの時間に、もう一度、ここに来ます。それで、今後のことを判断させて頂きます。」。

 ここで、和議について少し説明が必要であろう。民事再生法が制定されるより前に施行されていた和議法では、和議の申立てをしても、倒産直後の混乱を収拾し、秩序だった再建を可能にするために必要な弁済禁止の保全処分を出してもらうために、申立時に、総債権額の過半数の債権者の、和議申立に対する同意書が必要だった。つまり、再生するために最初から高いハードルがあったのである。

 まだ携帯電話もメールも一般的でない時代である。事務所に電話もかかってこないし、どうなったかと思いながら、約束どおり私は、次の日の夜、同じ時間に本社ビルに行った。正直にいってあまり期待はしていなかった。ところが、「先生、予想どおり沢山の債権者の方が来ましたが、皆さん、話を聞いて帰って行かれました。怒鳴った方はいましたが、乱暴な行動にでる人はいませんでした。」との報告であった。本当かと思いながら、「これを明日以降も続けて下さい」。「債権者の方が、もう来なくなるくらいまで実行することが大切なのです」と伝えて激励した。

 そして次の日、また次の日と同じ対応をしていると、とうとう債権者は来なくなった。怒って会社に出向いて行ったところ、当の社長らが皆、逃げずに対応し、必死で謝りながら再建したいというのであるから、後は債権者集会とやらの様子を見てみるか、というところかも知れない。半信半疑だった私も、もうそんなことは言っていられなくなった。幹部たちと一緒になって、慌てて債権者集会の議事の運び方や、おおざっぱな再建計画の立案と説明の仕方を議論していった。

 そして、第1回目の不渡りから1週間後、債権者集会当日を迎えた。

 区の公民館を会場として借りたが、案の定、150名以上の債権者が、皆、目をつり上げて参加していた。狭い会場は満杯で、まさに一触即発という異様な雰囲気であった。とても進行を社員に任せていられる状況ではなかった。冒頭から、私が司会兼説明役に回った。

 代表者のお詫びの後、私が、会社の現状、第1回不渡りを出した経緯、そして今後の方針を説明している途中であったろうか、中央に座っていた債権者がいきなり立ち上がった。私は「きたっ」と思わず身構えた。するとその人は、私をまっすぐ指さすなり、「先生、俺、応援するよ。頑張ってくれよ!」と大きな声で言ってくれた。私は嬉しくなり、とっさに最も大口の債権者(すなわち最も迷惑をかけている債権者)を指名して「大崎商会さん、どうですか?」と声をかけた。すると大崎商会の社長は、「先生!俺、同意書を持ってきたよ!」と書類を持った右腕を高らかに上げてみせた。前述のとおり、和議の成功のために必須の書類だった。一番の大口債権者が同意するのだから「仕方ないな」という感じで、他の債権者もどんどん追随していった。

 険悪だった債権者集会の雰囲気が一変した。「有り難うございます」。私は、債権者にお礼をいいつつ、大口債権者数名からなる債権者委員会を組織して、その都度、報告や相談しながら再建を進めることで了解を得、無事に債権者集会を終えることができた。

 集会の後、皆で会社に戻った。社員たちは、どん底から這い上がったような気持ちになっていたのだろう、皆、表情が明るかった。久しくなかった笑い声さえ聞こえた。幹部の一人が言った「先生、何とかなりそうですね。」。驚いたことに、その幹部の目がキラキラ輝いていた。数日前、死んだ魚のような目で集まっていたのが嘘のようだった。その瞬間、私は悟ったのだった。「事業再生とは、人を再生することなのだ!」。

 もちろん、事業再生は、一度の債権者集会がうまく乗り切れたからといってそれで成功するような簡単なものではない。本件も、予定どおり和議を申し立てたが、その後もいろんな予期せぬ事態が発生した。今では当然になっているスポンサー選定や、デューデリジェンスも行ったが、当時は、そんな言葉すらなかった時代だった。加えて、最初に述べたとおり、私は事業再生の経験など全くなかった。それでも、見よう見まねで、一生懸命事態に立ち向かっていくうちに、良い結果が実現できたのである。仕事を通じて学んだことは数限りなくあるが、いずれもその事案に対して、誠心誠意、思いっきりぶつからなければおそらく学ぶことも感じることも少ないのではないだろうか。それと、私のような一弁護士が、事業を再生することにより社員やその家族、あるいは多くの取引先や関係者の助けになることを思うと、非常に嬉しく感じたものである。この事件をきっかけとして、私は事業再生を、自分の弁護士としての一生の仕事にしていこうと思い至り、その後は、案件の大小にかかわらず常に再生事件に関与するように心がけた。

 その後少しして、日本は大倒産時代を迎えることとなった。1997年には、山一証券や北海道拓殖銀行が破綻し、翌年には日本長期信用銀行等が相次いで倒産していき、2000年にはついに千代田生命保険が更生特例法の適用を受けるに至った。日本がまさに経済危機のまっただ中を進んでいた。私も、これらの事件のいくつかに深く関与していくようになっていった。

 現在の事業再生は、以前とはうって変わって準則型私的整理が主流となっているが、20数年前を振り返ると、あの案件に出会わなければ、私の弁護士人生もまた違ったものになったかも知れなかった。そう思うと、不思議な運命を感じるのである。