2016年09月18日
アンダーソン・毛利・友常法律事務所
竹本 康彦
1 はじめに
そうして昨年4月から現在の事務所に所属して以降、新人なのか経験者なのか微妙な立場(注1)ながら様々な案件に関与させていただいた。本稿では、法曹界における外様的な立場から私がこれまでに感じたことを、思いつくままに書き連ねていきたい。なお、私の拙い経験に基づく部分については、経験豊富な先輩方からすれば噴飯ものであろうが、お目零しいただければ幸いである。
2 法曹の世界に足を踏み入れるまで
私が初めて法律に触れた(注2)のは、大学の教養科目でのことであった。今振り返ると、その講義内容は民法総則の意思表示に関するごく基本的なものであったが、法律学のお作法(注3)を知らない当時の私は、「洗脳された者による、精神的支配者に迎合的な内容の意思表示は、『瑕疵ある意思表示』か否か? 物心ついて以降洗脳が継続され、被洗脳状態が人格そのものと言える場合はどうか?」などと妙な質問をして教官を困らせていた。この頃の私は、やたら「べき」が出てくる割にはそこに至る価値判断のツールが整備されていない法解釈学に、あまり学問としての興味を持てなかった。他方で、経験・思考法の裾野の広がりがアウトプットの頂の高低を決すると考え、分析ツールが豊富な統計学や心理学を中心に学びつつ、マクロ・ミクロな考え方を提供してくれる経済学や、切り口鋭い社会学にも手を出していた。
法律に対する見方が変わったのは、卒業論文の題材を将来的な環境政策に決め、社会の「システム」について考えるようになってからだった。自由主義社会における幅(一定の自由)のある社会活動の中で、政策に合目的的な個々の活動を促す仕組みとして主要なものが、インセンティブを設定して活動の方向付けをマクロで行う経済的手法と、活動が許される枠を定める法規制だった。ここでの法律は、様々なイデオロギーとは距離をおいた(注4)、具体的・現実的で有用なツールであった。学問としてではなく実学・ツールとしての法は、それほど自分に合わないわけではないと思った。
その後も仕事を通じて組織や社会のバックボーンとしての制度の在り方には興味を持ち続けていたところ、法科大学院の発足を契機に、法曹への道を歩むこととなった。
3 検事として、人として
私が検事としてこれまでに担当した事件は数百件あり、その内容も様々であるが、比較的、反社(反社会的勢力)や知能犯の事件が多かったように思う。反社事件では、数年間かけて一人の幹部に関する証拠を追い続けた刑事たちの執念に心を打たれ、知能犯事件では、職業詐欺師の流麗な弁舌に触れて舌を巻いた。企業組織の内外で罪を犯し懲戒解雇となった方々も見てきた。初めて通った繁華街の路上で、全く面識のない客引きから「検事さん」と声をかけられゾッとしたこともあった。不良少年グループが半グレ組織に取り込まれていく深刻な実態も垣間見た。人生の半分以上を刑務所で過ごしている人を見て「刑罰」「矯正」とは何かと悩んだこともあった。挙げれば際限がないが、捜査官以外の職業を選んでいたらまず知ることのない社会の一面を垣間見ることができた。
私が検事として特に大事にしていたことは、被疑者・被告人や参考人の価値観をできる限り理解し、私自身もその価値観を仮に共有した上で事実関係を見つめること(注5)であった。相手の立場に立って、ではなく、相手になり切って、である。たとえば、被疑者からおよそ共感できない言い訳が出てきたときに、「そんな言い訳は通用しない。」と指摘することはもちろん重要ではあるが、他方で、突き放すだけでは何も変わらないこともある。
私が大学時代に嗜んだ少林寺拳法(注6)の開祖の言葉に、「人、人、人、すべては人の質にある。」というものがある。これは、社会の良し悪しは全て各々の立場で活動する人の心の持ち方次第だということである。人が違えば価値観は異なり、そのわずかな差異が決定的な結果の差異に繋がることもある。同じ状況におかれても、一線を越えて犯罪に及ぶ人もいれば、越えない人もいる。もちろん、矮小な一個人でしかない私では、誰かの価値観そのものに影響を及ぼすことはできない。しかし、相手の考え方を根底から理解し、どの部分であれば変化を受け容れられるかに気づくことができれば、再び同じ状況に置かれても犯罪に走らないよう、何らかの楔を心に打ち込むことはできるかもしれないと思っている。
4 不祥事を起こすのも、人
現在は、弁護士として企業の紛争や不祥事対応に従事することが比較的多く、いくつかの不正調査委員会にも関与させていただいた。一口に不祥事と言っても、主体の面では役員や従業員の個人的なものから組織ぐるみと評さざるを得ないものまで、客体の面ではオフィス用品の私的な費消から会計不正(有価証券報告書の虚偽記載)まで、その切り口によって様々であるが、刑事事件と比較すると、不祥事発生の仕組みは複雑ではあってもそれほど多様ではないように感じる。企業は、様々な不祥事に応じた防止策や発生後の対応策を、そのリスクとコストに応じて導入しなければならない状況に置かれているが、その中で特に不十分と思われるのが、各種方策や業務の運用状況のモニタリングではないかと思う。たとえば、不祥事防止のため様々な社外研修を導入・実施しながら、そこで指摘されている違反例の存在が認識されながら放置されるなど、まさに「仏作って魂入れず」であるし、理不尽な結果へのコミットを求めながらプロセスや手段の管理を放棄するのであれば、そのような物事の進め方は反社と同じである。不祥事を防止・抑止する仕組みと同時に、不祥事を誘発する不適切な行為の整理とそれを排除するための仕組みの構築も必要と思われる。
また、個々人の視点で誰でも起こしかねない不祥事といえば、交通事故である。ここ十数年ほどの私の趣味は主に車であり、最近はミニサーキット等での練習も再開してスポーツドライビングを満喫している。しかし、当然ながら公道においては別であり、違反や事故を起こさないよう、とにかく注意している。私の拙い経験上、少なくない自動車運転者が誤解しがちな交通法規がある。それは、交差点にて自車の進路を横切る方向の道路に一時停止表示があっても、見通しの悪い交差点であれば自車にも徐行義務はあり、事故を起こせば責任を問われる、ということである。自転車や歩行者が一時停止するとは限らない。この場を借りて注意喚起を図ることで、未来の不幸な「不祥事」が少しでも少なくなれば幸いである。
5 おわりに
宇宙の誕生や生命体の発生に思いを馳せれば、地球の存在も個々人の存在も、それ自体が「奇跡」としか表現しようのない現象(注7)なのであるが、社会で生活していると、そんなことを意識することもないまま仕事に忙殺されがちである。私は、憲法第13条が謳う「個人の尊重」は、単なる理想論ではなく、一人一人の存在が奇跡であるという事実に本質的な基礎があると考えている。私が検事の道を選んだ理由も、一番には法曹の中で特に「人」、それもある意味で極限状態に置かれた「人」に焦点を当てた仕事であることに魅力を感じたからである。
今後も、法曹という仕事を通じて様々な「事件」を扱うことになると思う。既に起こったことを無にはできないにしても、以後の可能性は無限に広がっているはずである。これからも事件を通じて、それぞれの事情をそれぞれの目を通して見ていくことで妥当な「落とし所」を見つけるべく、「奇跡」と相対していきたいと思う。
注1:「期を見て人を見ず」とも称される法曹界においては、弁護士1年目であることよりも62期であることの方が重視されるようである。
注2:悪いことをしたという意味ではない。
注3:法学は文学と同様、人為的に作られたものを客体とする点で、他の多くの学問とは根本的に体系が異なるように思う。
注4:全ての法に何らかのイデオロギーは影響しているが、個人的に理解・受容できるイデオロギーとそうでないものはあった。
注5:家族円満の秘訣とも思われるが。
注6:多くの方がイメージする嵩山少林寺の少林拳とは(その一派の流れを汲むものの)別物である。
注7:(異論はあるものの)いまだに地球外生命体の存在は確認されていないようである。
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