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リクルート事件の捜査・公判を原点に証券取引監視委員長に

証券取引等監視委 前委員長インタビュー① リクルート事件

村山 治

 事件や不正は社会のひずみを映す。検事として36年、証券取引等監視委員会委員長として9年。リクルート事件やオリンパス粉飾決算事件など経済事件の捜査・調査の最前線にいた佐渡賢一氏にインタビューした。朝日新聞経済面の連載「証言そのとき:不正に挑んだ45年」に大幅に加筆して連載する。(敬称略、肩書は当時)

●未公開株の譲渡

佐渡 賢一(さど・けんいち)
 1946年北海道生まれ。71年検事任官(大阪地検)。88~92年、東京地検特捜部検事、同副部長として、リクルート事件や東京佐川急便事件などを捜査。2004年には大阪地検検事正としてアンタッチャブルとされた食肉利権にメスを入れた。07年福岡高検検事長を最後に退官。同年7月から証券取引等監視委員会委員長。オリンパス粉飾決算事件、公募増資インサイダー取引事件などを摘発した。
 まず、検察時代の話から始める。

 1980年代後半、日本はバブル景気に沸き、株価は右肩上がりだった。その最中の88年6月、リクルート事件が発覚する。就職情報大手のリクルート社が、グループ企業「リクルートコスモス」の未公開株を政官財の要人らに広くばらまいていたのだ。

 川崎市助役への未公開株譲渡が朝日新聞の調査報道で明らかになり、中曽根康弘元首相ら政界の実力者への譲渡が次々に報道されると、「濡れ手にアワ」批判が集まり、多くのエスタブリッシュメントが傷ついた。

 検察は、政官界への譲渡の一部を収賄事件として切り取り、政治とカネのあり方に一石を投じ、それはまた、日本の証券市場が透明化に向けて動き出すきっかけともなった。

 佐渡は、特捜検事として捜査の突破口を見付け、大物政治家の取り調べも担当。「特捜部のエース」捜査官と目されるようになる。

 1988年夏以降、リクルート社側から政治家ら有力者への未公開株の譲渡疑惑が連日のように報道されていた。私はこの年の4月に、東京地検の刑事部から特捜部の特殊直告班に異動になったばかりで、配点された手持ちの詐欺事件などの処理に追われ、未公開株疑惑にはさほど関心はなかった。周りの多くの同僚がそうだった。

 現場だけでなく、検察首脳も捜査には乗り気ではなかった。

 というのは、未公開株の譲渡による利益提供を罪に問うには、様々な隘路があったのだ。未公開株の譲渡自体は違法ではない。公職にある人への譲渡で利益を提供した事実があれば、何らかの見返りを期待した贈収賄の構図が浮かぶ。刑法の贈収賄罪に問う場合には、未公開株譲渡時点の犯意、すなわち譲渡した側に「賄賂を贈る」との認識があったことの証明が必要となる。

 株式市場は、個々の市場参加者の思惑ではなく、見えざる神の手によって株価が変動する。株式の性質上、値段が下がって損する場合もある。だから、利益が出たとしても、譲渡した側も受けた側も自己責任で株を売買した結果だ、と主張できる。

 しかも、未公開株の譲渡自体は、商慣習として経済社会で容認されていた。譲渡先になることは一種のステータスシンボルでもあった。そうした中で、リクルート側が未公開株を譲渡したことが、賄賂に認定できるのか、という根本的な問題があったのだ。

 ロッキード事件で元首相の田中角栄を受託収賄罪で摘発し「捜査の神様」といわれ、後にリクルート事件の捜査を東京地検検事正として指揮することになる吉永祐介(当時、最高検公判部長)でさえ、当初は、親しい記者に「あんなの事件にならないんじゃないか」と言っていた。

 さらに、リクルート側は、社業の就職情報誌に限らず、あらゆる分野の有力者に未公開株をばらまいており、リクルート側が何のために利益を提供したのか焦点が定まらない印象があった。

 雰囲気が変わったのは、リクルートコスモス社社長室長が、譲渡疑惑を国会で追及しようとした社民連の楢崎弥之助衆院議員に現金を贈ろうとした場面が日本テレビの記者によってビデオに隠し撮りされ、それが放映されてからだ。

 楢崎議員が、リクルート側を誘導した“おとり捜査”的な要素もあったが、リクルート側もカネを使ってまで「火消し」をしようとしたことは明らかだった。これは、奥が深いのではないか、と、皆疑った。楢崎議員は「贈賄申し込みを受けた」と特捜部に告発した。それを受けて、特捜部は本格捜査に乗り出すことになった。いわばリクルート側の「オウンゴール」だった。

 捜査を指揮したのは、東京地検特捜部で汚職や企業犯罪を担当する特殊直告班の堤守生副部長(司法修習19期)。証拠を握られている社長室長はビデオ撮影された本件については自白したが、それ以外については口が固く、特捜部の捜査は伸びなかった。

 特捜部は、社長室長を贈賄申し込みの罪で起訴。1988年8月4日と同月25日の2回にわたり、議員宿舎で、それぞれ現金100万円を同代議士に渡そうとしたほか、9月3日にも現金500万円を受け取らせようとした――という内容だった。捜査は88年11月10日、社長室長を起訴したところでいったん終結する。

 社長室長は1989年3月、懲役1年6月、執行猶予4年(求刑、懲役1年6月)の有罪判決を言い渡され、確定した。

 特捜部が、その捜査で、リクルート社から、未公開株の譲渡先リストなどを押収した。当時の特捜部は3班体制で、堤さんのほか、特殊直告担当副部長の宗像紀夫さん(20期)と脱税事件や経済事件を扱う財政班担当副部長の高野利雄さん(20期)がいた。

 宗像さんは、堤さんがリクルートコスモス社長室長の事件を捜査しているころから、密かに、未公開株ばらまきが政官界汚職につながるのではないかとみて独自の内偵捜査を続けていた。

 1988年12月、吉永が最高検公判部長から東京地検検事正に就任する。吉永は特捜部長として1979年にダグラス・グラマン事件の捜査を指揮し、同事件のキーマンの日商岩井幹部の取り調べを担当した宗像を信頼していた。宗像の進言で改めてリクルート社に対して本格捜査を進めることになり、堤に代わって宗像が担当副部長になった。

 未公開株の譲渡先は各方面に及んでいたが、捜査のターゲットは、公務員としての職務権限のある政治家、旧労働・文部両省幹部とNTT幹部に絞り込まれた。特捜部は、それに対応して「政界」「労働省」「文部省」「NTT」の4ルートで捜査班を編成した。

 88年暮れに捜査会議が開かれ、私はNTT班のキャップになった。NTT会長の真藤恒さん、元役員の長谷川寿彦さん、役員の式場英さんの3人の側に未公開株が譲渡され、いずれもそれを売って利益を得ていた。宗像さんのもとで先行捜査していた矢田次男検事(28期、現弁護士)から捜査を引き継いだ。

 矢田は独自の嗅覚を持った特捜検事だった。朝日報道のあと、リクルート社幹部に独自に接触し、労働省、文部省、NTT幹部らへの譲渡を聴き出していた。「楢崎議員の告発の前だ。これは事件になると確信し密かに内偵していた」と振り返る。リクルート事件捜査に最後までかかわり、89年8月、退官し、弁護士となった。

 捜査班ができたころには、検察幹部を逡巡させていた未公開株譲渡の賄賂性にかかわる問題点は解消していた。バブルが最も膨張した時代、株価はほぼ確実に上昇した。そうした中で、リクルート側から譲渡資金の融資まで受けていたものについては、贈る側の贈賄の意図が明確に認定できると判断したのだ。88年7月に殖産住宅相互事件で最高裁が、大蔵官僚に譲渡された未公開株について賄賂と認め、それも検察の背中を押す一因となった。

 捜査資料を検討したが、未公開株の譲渡が賄賂の玉になるという判断には違和感はなかった。株の右肩上がりの局面を利用してリクルート側が渡した相手に株取引で利益を与えようとしていることは明らかだった。譲渡を受けた公務員については譲渡の対価性(賄賂の趣旨)が認められれば贈収賄罪は成立すると思った。

 問題は、リクルート社によるばらまきがあまりにも広汎だったことだ。職務権限のある公務員については贈収賄罪が成立するにしても、政党幹部や財界やマスコミの幹部など事実上の権力者については成立しない。全体の中ではほんの一部にすぎない政官界関係者だけを立件する意味はあるのか、とは思った。しかし、検察の方針として、立件すると決まった以上、それに向けて捜査するしかない。

●「ブツ読みの内尾」

 苦労したのは、リクルート関係者を聴取しても、何のためにNTT経営中枢に未公開株を譲渡して利益を提供したのか、さっぱり要領を得なかったことだ。これは、リクルート社の監督官庁である労働省や業務に関係のある文部省についても同じだった。深い山に入って道に迷ったような感じだった。

 原点に戻るしかない。「ブツ読み」だ。

 ブツとは押収物のこと。ブツ読みとは、押収物を詳細に分析し、リクルート側の贈賄目的を示す手がかりを探ることをいう。特捜部は、楢崎議員の告発を受けた事件の捜査でリクルート社から大量の資料を押収していたが、未公開株譲渡リスト関係以外は、ほとんど捜査していなかった。

 突破口を開いたのは班員の内尾武博検事(現公証人)だった。押収資料のブツ読み専従を命じたら、その日のうちに贈賄目的を示す物証を見付けてきた。

 内尾は当時、検事任官10年。87年夏、特捜部に入ったばかり。特捜部では若手だった。内尾によると、佐渡から「ブツ読み」の指示を受けたが、すぐには手を着けず、すでに呼び出しをかけていたリクルート関係者の聴取を先行した。それを知った佐渡から「何をやっている。早くブツを読まんか」とハッパをかけられた。慌ててリクルートの経営中枢である社長室から押収した資料の段ボール箱を押収資料保管庫から執務室に取り寄せた。

 資料を読み始めてすぐ一枚の資料に目がとまった。社長室長が起案した江副浩正リクルート会長のリクルート社幹部会議での発言草稿だった。

 NTTの回線リセールやスーパーコンピューターを利用した新規事業に社運を賭けるというもので、真藤恒NTT会長らと簡単に推測できる匿名の幹部3人への工作方針とも受け取れる記述があった。そして真藤ら3人の側にはいずれも未公開株が譲渡されていた。廊下を挟んだ佐渡の執務室に走った。

 内尾が「これ見てください。いけるんじゃないでしょうか」と草稿を差し出した。「これだ」と心の中で手を打った。私は、捜査でめったに部下を褒めることはないが、このときばかりは、内尾、よくやった、事件の筋が見えたぞ、と言葉をかけた記憶がある。捜査チームでは、以後、内尾を「ブツ読みの内尾」と呼んだ。私は今も、公証人になった彼をそう呼んでいる。

 もっとも、内尾によると、「佐渡さんは報告を聞いて、嬉しそうな顔はしたが、『ああ、おお、うう』としか言わなかった」という。後でも触れるが、佐渡は、勤務中は普段から口が重かった。

 その幹部会議で実際に江副さんがそういうスピーチをしたか、すぐ裏をとれ、と指示した。リクルートの複数の幹部が、実際にそういう発言があったことを認めた。筋が見えると、パズルを埋める証拠は次々と集まった。

 真藤さんらNTT幹部がリクルートが進めていた情報通信事業に便宜を図った謝礼として未公開株の譲渡を受けた、との事件の筋が固まった。その草稿を添付した簡単な捜査着手報告書を上げた。検事正の吉永さんは、捜査が先行していた労働省ルートでなく、NTTルートから強制捜査に入ることを決めた。

●NTT会長逮捕

 特捜部は89年2月13日、真藤を除くNTT幹部2人とリクルート前会長の江副ら2人を逮捕した。佐渡は主任検事として被疑者を勾留した東京拘置所に詰めて捜査を陣頭指揮した。NTT幹部は収賄容疑を認めた。江副は、未公開株が値上がり確実だったと認識していたことは認めたが、贈賄の意図については否認した。特捜部は3月4日、幹部2人と江副らを起訴した。

 秘書名義で1万株の譲渡を受けていた真藤さんは、財界の大物だから、まわりを固めてから逮捕する方針だった。

 検事正の吉永さんが栄養ドリンク持参で拘置所に現れ、取り調べ検事らに気合を入れた。東京地検のような大組織のトップである検事正が拘置所にまで足を運ぶのは異例のことだ。NTTという国の通信インフラを担う大組織に切り込んだ。吉永さんのような修羅場を経験した人でも、緊張し、気合が入っていたんだろうな。

 NTT幹部2人を起訴した後、捜査は、内偵が先行していた労働省ルートの摘発に向かい、その後に、真藤さんを捕まえるものと思い込んでいた。

 起訴から2日後の月曜日、自宅でのんびりしていたら、宗像副部長から「すぐ役所に来い」と電話があった。昼ごろ出勤すると、真藤を今日逮捕する、調べはお前、と言われた。仕方がない。気合を入れ直した。

 真藤さんは、東京・池袋の病院の2階の特別室に逃げ込んでいた。病院には、IHI(石川島播磨重工業)社長時代からの真藤さんの取り巻きが詰めていた。真藤さんに「逮捕する」と告げると、真藤さんは、ズボンも穿けないぐらい動揺した。

 窓から外を見ると、捜査情報が漏れたのか、病院の外はマスコミだらけ。規制線はもう張れない。真藤さんに「マスコミから逃げるより、堂々と玄関から出ませんか」と言ったら、本人も納得してくれた。

 病院から小菅の拘置所に向かう車の中でも真藤さんの動揺はおさまらなかった。補聴器を車の床に落とした。震える声で「検察は、どこまでやる気なんだ」と隣に座る私に聞いてきた。

 NTTは日本の通信インフラを独占する半官半民の巨大企業だ。民営化後も多数のファミリー企業を抱える。現在は持ち株会社のもとに長距離通信1社と東西の地域通信会社2社がぶら下がる経営体制になっているが、1985年に前身の電電公社が民営化された際には、郵政省が分割を求めたのに対し、NTT側が強く反対し、分割が先送りされ、その際、真藤らNTT幹部による政界工作があったのではないか、と取り沙汰されていた。

 おそらく、真藤さんはそこに捜査のメスが入るのを本気で心配したのだと思う。東京拘置所に向かう荒川の橋を渡ったら、車のガラスが一瞬で真っ白に曇った。3月6日。暦の上では春だが、寒い日だった。

●未公開株の譲渡を認めた真藤さん

 真藤さんは取り調べに対し、未公開株を受けたことはあっさり認めた。秘書口座を使って未公開株を売買し、その利益は真藤さんの口座に入っていたから、利益提供については否定しようがなかったのだろう。

 真藤さんほどの大物財界人になると、誼を深めたい取引先の企業などから未公開株の譲渡話はいくつもあったとみられる。それらの取引については、通常の商行為と受けとめていて罪の意識はなかったが、リクルートの未公開株は他社とは違い、後ろめたい思いがあったようだ。

 購入資金をリクルートの関係金融会社「ファーストクレジット」が融資し取引で損をするリスクはまったくなかった。とても普通の経済行為とはいえない。だから、秘書口座で同株の売買をしていたのだ。渋々ではあるが、収賄容疑も認めた。

 真藤は89年12月の初公判でリクルートコスモス未公開株を江副から譲渡されたこと、秘書名義の譲渡は、自分に対してのものとする事実関係は認めたが、「職務とは関係なく、わいろとは思わなかった」などと述べて譲渡の趣旨を否認し、無罪を主張した。しかし、真藤は捜査段階で「江副は、回線リセールやスパコンでお世話になったお礼に、社長の私に一もうけさせようとしたのだと感じた」などと供述しており、東京地裁はそれらの供述調書を証拠採用した。真藤は90年10月、有罪判決を受けると、控訴しなかった。

 真藤さんは、打ち解けて、いろいろ話すようになった。

 江副さんに最初に興味を持ったのは、真藤さんが子供のアパートを探すときに、リクルートの住宅情報を見たときだったと話した。今でいうウインドウ、情報欄が次々出てくるのに感心した。「センスがいいなあ、この会社の経営者はどんな奴だ?」と思った。そうしたら、それが江副さんだった、と。

 弁護人に対する不満も漏らした。「検察は、NTTの会社の仕組みなど基本的な知識を勉強してから私の取り調べに臨んでいるのに、接見にきたうちの弁護士は、そういうことを一から説明してくれ、という。私に聞かずに自分で調べてこい、というんだ。時間の無駄だ」と。

 真藤さんは、合理的な経営でIHIをトップメーカーに育て、NTTでも電話事業からNTTデータなど通信事業へと抜本的なビジネスモデル改革に取り組んだ。そういう人らしい感覚だと思った。

●会長秘書供述をめぐる駆け引き

 特捜部は、真藤の未公開株の取引に直接かかわった秘書も逮捕したが、別の検事の取り調べに対し、頑強に供述を拒んだ。秘書はIHI時代から真藤に仕え、真藤の個人的な裏金を管理していた。どうやって裏金を作り、何に使ったかをすべて知っていた。リクルートの件をしゃべると、全部しゃべらざるを得なくなる。それで黙りを通していたのだ。

 宗像さんから、真藤さんの秘書の取り調べを命じられた。秘書を呼ぶ前に拘置所の取調室に真藤さんを呼んだ。

 「IHI時代からずっと仕えてきているんでしょ。そろそろ秘書業務から解放してやったらどうですか。秘書業務を解任する、もういいから真相を話せ、とあなたが言っている、と秘書に伝えていいですか」と打診した。

 真藤さんは逡巡した。秘書が、電電ファミリー企業を舞台にして作ってきた裏金の全貌を明らかにしてしまうと、政界を含めて大混乱になると心配したのだと思う。

 「今はリクルートについてだけ捜査している。秘書に心の平安を与えてやって」と説得した。「リクルートについてだけ」は以心伝心。そもそも、リクルート以外での裏金作りや使途の事実については、こちらには情報がなく、真藤さんと秘書が供述しない限り、わからない。それが真藤さんに伝わったと思う。「私をかばう必要はない。気持ちの通り、話せば良い、と秘書に言っていい」と納得してくれた。

 真藤さんを留置場に帰し、秘書を呼んだ。秘書は取り調べ官が交代したので緊張していた。

 「いま、その椅子に真藤さんが座っていた」と言ったら、飛び上がった。

 「会長からあなたに伝えてくれといわれたことがある。何十年も仕えてくれて感謝している、もう十分だ、気持ちのままにしゃべってくれていい、とのことだ」と話した。秘書は泣いた。しばらくそのままにして「どうする」と聞いた。「しゃべる」という。では、ここから先はこれまで調べていた検事に代わるから話してくれ、と取り調べを交代した。

 秘書は事実の詳細を供述し、佐渡は真藤の容疑が固まったと判断した。事実関係については、当然、秘書の方が詳しい。佐渡が最初に真藤から聞き出した話と細かな点でずれも生じたが、佐渡はあえて真藤の調書の取り直しはしなかった。

 調書は人間の記憶で事実を再現するものだ。ひとつの事実でもかかわった人の記憶はそれぞれ違うものだ。検事は、供述のずれを嫌がってすり合わせをしがちだが、それをすると、却って不自然になるからだ。

●江副土下座事件

 一方、リクルート前会長の江副は逮捕後、無実を訴えて検察の取り調べに抵抗していた。江副の取り調べを担当した検事は、佐渡の2期後輩で特捜部での捜査経験の豊かな検事だったが、狙い通りの供述を得られずに苦労していた。

 私は、NTT班のキャップとして拘置所に詰めていたから、個々の検事の取り調べ状況をだいたい把握していた。

 休日だった。その日も、拘置所に出ていたら、夕方、その検事が「佐渡やん、割れたぞ」と言ってきた。「よかったな。すぐ上に報告しろ」と言うと、「今日は疲れたから帰る。立会事務官が調書を作成して持ってきたら、本庁にファクスしといてくれ」と言い残し、さっさと帰ってしまった。本当に、疲れていたんだろうな。

 上がってきた江副さんの調書は、「土下座して謝ります」というだけ。容疑の中身については何もなかった。本庁に送ったら、案の定、宗像さんから「この後の調書はあるのか」と問い合わせがあった。宗像さんは吉永さんにも調書を上げ、吉永さんからも同じ質問があったようだ。「これだけですよ」というと、「すぐ調べるように言ってくれ」と指示された。しかし、その検事はすでに帰っており、そのままになった。

 結局、翌日、その検事が江副さんを聴取すると、「あまりにも、あなたの調べがひどいので、そういうしかなかった」と供述し、容疑は認めない。結局、「割れて」はいなかった。江副さんは実際、前日は、取調室で土下座もしたようだ。何という調べをしているのかと思った。

 江副は、後に、著書「リクルート事件・江副浩正の真実」で、検察の取り調べを批判した。椅子を蹴られたり、壁に顔を近づけて立たされたりした、と書き、土下座をした経緯についても明らかにした。

 私自身はそういう調べ方をしたことはないが、特捜部の検事が、調べ室で被疑者を怒鳴りつけたり、壁に向かって立たせたりするという話は聞いていた。

 当時の裁判所は、検察が作成した自白調書があれば、だいたい有罪の心証をとる傾向があった。それゆえ、検察では、捜査で被疑者の自白をとるのが最大の眼目とされていた。土下座をさせた検事も、あの手この手で江副を揺さぶり、精神的に追い込んで、自白を引きだそうとしたが、江副がそれに屈しなかったということだろう。

 特捜部では、自白をとれる検事が重宝され、評価された。そうした捜査環境の中で、一部の検事が「最高の取り調べ技術」と称賛していたのが「なし割り」だった。検事が、具体的な情報を持たず、いきなり被疑者や参考人を取り調べて犯罪の事実を自白させる、というものだ。

 そんな手品のような調べはあり得ない。もし「なし割り」で自白をとったとしたら、私なら、その調書を信用しない。むしろ、被疑者、参考人を検察側のストーリーに誘導してしまい、真相から外れた結論の処分をする危険の方が大きかった。

 だから、捜査するときは、常に、ある犯罪の疑いがあるという仮説を立てて、それにつながりそうな客観的な証拠をまず収集し、それをもとに関係者を取り調べ、その結果でさらに仮説を再構築し証拠収集し、また取り調べる、ということをくり返し、最終的に、犯罪事実について判断するようにしていた。それは、その後の検察人生、証券取引等監視委員会時代も変わらない。

●NTTの政界利権にはメス入らず

 真藤は、初公判の被告人意見陳述で「株式売却益(2100万円)のうち、900万円は、私が電信電話公社総裁時代に支出した政治資金などの補てんとして私個人の銀行口座に入金され、残金1200万余円は、NTTの管理職職員の任意の拠出金で賄われ、政治献金に使用される基金に拠出されました」と述べたが、特捜部の捜査では、基金のカネがどこに流れたのかは解明されなかった。

 結局、NTTルートの捜査は、NTT側の政界工作には切り込まず、真藤ら幹部3人がリクルートに便宜を図った見返りに賄賂をもらったという個人犯罪の摘発で終わった。

 NTTをめぐる構造的な利権があったのは間違いないが、当時は、リクルートとNTT幹部の贈収賄容疑を固めるので精いっぱいで、とても手が回らなかった。

 NTTが米国・クレイ社から購入したスーパーコンピューターのリクルート社への転売などにからみ中曽根元首相が便宜を図った謝礼に、江副さん側から未公開株を譲渡された疑いがある、との告発もあったが、話は逆で、リクルートが政府に恩を売る構図だった。政府が貿易摩擦で米国に輸出超過だと責められている中で、江副さんらはスパコンを買って国側に対して貢献した。

 リクルートがリセールの時間貸事業をするといっても、すぐ儲かるわけではない。このルートで中曽根さんをターゲットにするのは無理だった。

 ただ、NTTは当時、経済大国ニッポンを代表する企業として国際的にも知られた存在だった。そのトップが収賄罪で逮捕された衝撃は世界に伝わった。

 それを実感したのは、数年後、中央信託銀行元次長の脱税事件の裏付捜査のためフランスに出張したときだ。フランスと日本の刑事手続きの違いにとまどったが、一番驚いたのは、地元メディアで「あのNTTの真藤会長を捕まえた検事が、フランスに捜査に来た」と大きな記事で紹介されたことだ。改めて、真藤さんの存在の大きさを知った。

●政界ルート 車のトランクに隠れて脱出した隠密捜査

 NTTルートの捜査が一段落すると、佐渡は、政界ルートの目玉である藤波孝生元官房長官の取り調べを担当した。藤波は、国家公務員の青田買い問題をめぐりリクルート社側からリクルートコスモスの未公開株1万株や小切手2千万円のわいろを受け取ったとして、受託収賄容疑が持たれていた。

 真藤さんを起訴した後、吉永さんから、極秘で藤波さんに接触して容疑の感触を取るよう命じられた。ホテルで接触しようとしたが、未公開株の譲渡を受けたことが明らかになっていた藤波さんには各社の記者がぴったり張り付き、すぐばれそうだった。都内の藤波さんの自宅も見に行ったが、報道のハイヤーが並び、家の構造上、裏口から気づかれずに入るのも無理だった。4月中は、時間がずるずると過ぎていった。

 5月の連休の中日、地元の三重県にいた藤波さんと示し合わせ、東京の事務所で聴取することにした。立会事務官と2人、藤波さんが到着する前に事務所に入った。対応してくれた藤波さんの秘書は、後に小沢一郎議員の側近となる松木謙公衆院議員だった。

 藤波さんの執務室の机の上は、お礼状などの手紙やはがきでいっぱいだった。どんな些細ないただきものでも、ちゃんとお礼をする、几帳面な性格だとわかった。これならリクルートのまとまった資金提供を忘れたなどとは言えないだろうと思った。

 藤波さんは、事務所で昼食をとり執務をする、と記者に説明して、事務所に現れた。聴取は夕方まで4、5時間に及んだ。事実関係を淡々と聞いた。

 「普段は分刻みのスケジュールをこなす藤波さんが長時間事務所に籠もるのはおかしい」と感じた記者もいたようだ。聴取が終わると、藤波さんはビルの外で待ち構えていた記者を引き連れて去った。

 やれやれ、と思って窓から外を確認すると、電柱の影に1人だけ顔見知りの記者が隠れていた。

 当時の特捜幹部に食い込んでいたその記者は、リクルート事件でスクープを続けていた。佐渡が事務所で藤波を聴取するとの情報をつかみ、佐渡が事務所から出てくるところを確認しようとしていたのだ。

 姿を見られたら間違いなく記事にされる。密かに調べろ、という命令だから、記事になるのは絶対に避けたい。一計を案じた。ビルの地下に乗り付けていた検察の公用車のトランクに事務官と2人潜り込んで脱出することにしたのだ。特捜部長の松田昇さんと副部長の宗像さんに「記者が待っていてばれそうだ。わからないように脱出するので任せてくれ」と電話した。

 トランクは案外、狭くはなかった。事務官と2人、くの字になって横になったが、余裕があった。運転手には、わざと記者の前をゆっくり通過してもらった。座席に誰も乗っていないことを見せつけるためだ。キャピトル東急の駐車場に入って座席に乗り込むと一目散に役所に帰った。その日、藤波聴取の記事は掲載されず、藤波さんに感謝された。

●「やっつけ仕事ですな」と吐き捨てた元官房長官

 リクルート事件「政界ルート」で特捜部は5月22日、藤波と、公明党を離党した池田克也代議士を、就職協定をめぐる受託収賄罪で在宅のまま東京地裁に起訴した。藤波は中曽根内閣の官房長官時代に、前リクルート会長の江副から請託を受け、首相官邸などで4回にわたり額面総額2000万円の小切手を受け取るとともに、リクルートコスモス未公開株1万株の譲渡を受け、また、池田は国会質問を行うよう請託を受け、総額700万円の小切手や送金と、コスモス株5000株の譲渡を受けた、とされた。

 起訴する前日の朝、中野区検で藤波さんを再度、聴取した。早朝、自宅から妻の運転する車で区検に向かった。運転に自信のある妻が信号でマスコミの追跡を振り切った。

退任記者会見で、質問に答える証券取引等監視委員会の佐渡賢一委員長=2016年12月12日午後、東京・霞が関の金融庁、関田航撮影
 検察は、リクルートから藤波さんに対する未公開株譲渡などについて、江副さんの供述をもとに青田買いに対する規制を請託した対価とみて起訴すると決めていた。その旨を告げると、藤波さんは「佐渡君、やっつけってわかります?」と私に問う。「知っています」と答えると、「やっつけ仕事ですな」と皮肉った。返す言葉がなかった。私自身、そう思っていたからだ。この日の藤波さんの聴取は2時間ほど。聴取はこれを含めて2回だけだった。

 官房長官の職務権限の有無がポイントだった。藤波さんは青田買いにからんで人事院に電話をしていた。それが官房長官の職務行使と判断できるかどうか、がカギだった。官房長官当時の配下の内閣参事官がキーマンだった。幕田英雄検事(現公正取引委員)の取り調べに対し、最初は、供述を渋ったが、参事官の父親が元検事だったこともあったのか、最終的に「職務行使」に当たる、と供述してくれた。

 中野区検では、参事官の名前を出さずに、その話を当てた。取り調べが終わり、車で本庁に帰る途中、宗像さんから電話が入った。その参事官から特捜部に「藤波さんから電話が来て、『君にも苦労をかけていますね』と言われた」と連絡があった、と伝えてきたのだ。

 取り調べでは、参事官の名前を出していないのに、藤波さんがその参事官に聴取直後に電話をしたということは、容疑事実に思い当たることがあるからに違いない。これで、起訴内容の見立ては間違いない、と確信した。

 藤波さんは気持ちのいい人で、こういう人こそ首相になってほしいと思えるような人だった。そういう私の気持ちを察した特捜幹部は、私の戦意をかき立てるためか、藤波さんについて「勲章や教科書にからむ利権話があるんだ」などと私に吹き込んでいた。しかし、私自身は、藤波さんに対し、こんなことで事件に引っかかって気の毒に、とずっと思っていた。

 未公開株の利益も自宅の建築費に充てていた。一昔前なら、将来有望な政治家にはスポンサーがついて、東京での家の心配などしなくて済んだ。時代が変わり世知辛くなったとはいえ、この程度のことで有為の政治家を潰してしまっていいのか、と思った。

 藤波さんは一級の政治家で、将来の首相候補だった。捜査の一部を担ったが、事件で世に問うたものと、その人が失うものとのバランスがとれていない、と感じた。

●見切り発車の原因は政界の圧力

 犯罪立証という点について言うと、藤波さんの捜査は、あと10日間捜査時間が足りなかった。請託場面の解明が不十分だった。1976年のロッキード事件で田中角栄元首相の受託収賄事件の捜査や公判を担当した特捜幹部は、私に「ロッキード事件だって起訴してからだいぶ詰めの捜査をしたんだから」と自分を慰めるように言った。後に、この請託場面の詰めの甘さが傷となり、検察は、藤波さんの一審判決で無罪の言い渡しを受ける。

 「いつまで捜査をやっているんだ」と政権与党の自民党から圧力があり、検察は捜査の期限を5月末までと切っていた。当時の検察は、それに抗する力と覚悟がなかった。

 竹下派の金丸信元副総理は1989年4月20日の竹下派総会で「法務省も首相の指導下にある。事件をもみ消すということではないが、検察も国家国民のためにある。予算をあげることに横を向いていることはない。検察も国民のために何とかしなくてはならない、と考えてしかるべきだ」と批判。それが圧力となった。検察は5月30日、捜査終結の記者会見を行った。

●不幸な自殺 政権を倒したスクープ

1989年4月22日の朝日新聞夕刊一面トップ記事
 リクルート事件の政治的な最高潮は、89年4月25日の竹下首相の辞職表明だった。辞職の原因は、首相の金庫番といわれた青木伊平秘書が、1987年に個人名義で江副から借り数カ月後に返済した5千万円の借金だった。

 国会でリクルートからの利益提供の内容を追及された首相は、国会でリ社から未公開株譲渡や政治献金などで1億5千万円の資金提供を受けていることを公表。「これ以外はない」と宣言した。その直後に、朝日新聞がこの5千万円借金をスクープ。首相は不公表の責任をとった。青木はその翌日自殺した。

 この借金をリクルートの押収物から発見したのも内尾だった。佐渡は89年4月初旬、青木の聴取を指示された。

 青木さんは事務所の出納記録を抱えて出頭してきた。5千万円は、個人ベースでの貸借で政治資金でもなかった。事件性はなかった。「シロ」と上層部に報告し、青木さんにもその旨伝えた。

 その際、青木さんからこの借金の事実を公表すべきかどうか相談された。当時、国会やマスコミは、政治家にリクルートからの利益供与の有無について説明するよう求め、竹下首相も、リ社からの資金提供について事実を公表していたが、この5千万円は青木さんの個人ベースの貸借とされていたことから公表していなかった。それを新たに公表すべきか否か、竹下派内で両論あり、判断に困っているということだった。

 「それは、あなたたちが決めることですよ」と答えた。結局、竹下首相側はこの事実を公表しなかった。

 特捜部は、佐渡の聴取のあと、別の検事に青木秘書の取り調べを続行させた。青木は特捜部が86年に捜査した平和相互銀行事件の金屛風疑惑で名前が取り沙汰されており、それらの疑惑について聴取していたとみられる。

 青木さんは気の毒だった。大学時代の友人が放送局の記者として竹下派を担当していた。「青木さんを死に追いやったのは、検察だ。佐渡はいいが、その後、青木さんを調べた検事は許さない」と政治家らが息巻いていると聞いた。政治家らは、検察から情報が漏れたと疑ったのだ。しかし、私のあと青木さんを調べた検事は、きちんとした人で、彼が情報をリークしたとはとうてい考えられない。真相はわからない。

 朝日新聞の5千万円借金報道は、政権を倒す引き金になった歴史的スクープだった。政界では、検察のリークではないか、と検察批判が起きた。それが検察部内にも波紋を呼んだ。

 朝日新聞の報道について、内尾を含む複数の検事が、青木秘書自殺の直後、検察幹部から「5千万円の話は検察関係者の一部しか知らない。漏らしたのではないか」と査問を受け、いずれも否定した。佐渡は査問対象にならなかった。

 検事正の吉永も自ら査問を行った。吉永の査問を受けた検事(現法務省幹部)は「吉永さんが調査に乗り出さざるを得ないほど、重大なことだった。もし検察のリークだとすると、検察が、無辜の人を自殺に追い込み、政権まで倒した、ということになる。それはあってはいけないことだ。少なくとも、自民党はそう疑っていた。今にいたる、検察に対する自民党の不信の原点はそこにある」と話す。

●因縁 控訴審で逆転有罪勝ち取り復活

 佐渡とリクルート事件は不思議な因縁がある。佐渡は、リクルート事件捜査終了後の92年、特捜部副部長として金丸信元副総理の5億円ヤミ献金事件など一連の東京佐川急便事件の捜査を担当し、その事件処理で検察が批判を浴びた後の93年春、その責任を背負う形で特捜部から刑事部に異動になった。左遷だった。その窮地を救ったのが、94年9月のリクルート事件・藤波ルートの無罪判決だった。

 東京佐川急便事件の摘発で政治家とカネへの批判が広がり、自民党一党支配時代に幕を引くことにつながった。私自身は、刑事部の筆頭副部長のポストを与えられたので、別に左遷だとは思っていないが、同僚やマスコミはそう受け取っていた。

 その1年後には、検察では「中二階」とされる東京高検刑事部の検事になった。もう大事件の捜査で表舞台に立つことはなく、検察の組織に埋没し、地方の検事正を1、2カ所やって退官か、と思っていた。

 だが、運命はめぐる。佐渡が高検に異動して5カ月後に、リクルート事件政界ルートの裁判で、東京地裁が藤波に無罪を言い渡したのだ。

 検察のメンツは丸つぶれとなった。検事総長になっていた吉永の指名で、佐渡は、リクルート事件の控訴審を担当する東京高検の特別公判部長になった。

 無罪判決は、検察が「請託」の場面を特定できないまま起訴したのが原因だった。官房長官の日程表に絞って再捜査し、国会内でリクルート側と接触し請託を受けた事実を証明した。裁判所は、逆転有罪判決を言い渡してくれた。

 詳細は後で話すが、私はその後、東京地検次席検事、大阪地検検事正などを経て検事長にまでなった。検察部内で評価されたとしたら、この逆転有罪判決のおかげだと思う。経済事件にかかわり続けてきた私の原点は、リクルート事件にあった。

 リクルート事件は、昭和末期のバブル膨張期を象徴する経済事件だった。政治とカネの乱脈に警鐘を鳴らし政治資金規正法改正のきっかけとなった。マスコミの調査報道を検察が追いかけるという、今では珍しくなくなった捜査パターンによる最初の大事件摘発だった。

 検察は、政界、旧労働・文部両省、NTTの4ルートでリクルート前会長の江副ら14人を逮捕。藤波孝生元官房長官ら政治家2人を含む計12人を起訴。いずれも執行猶予付きの有罪判決が確定した。贈賄側の江副は公判で一貫して無罪を主張。100人以上の証人が出廷し、一審有罪判決の言い渡しまでに13年3カ月を要した。(次回につづく