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オリンパス元専務・河原一三さんを偲ぶ もし社長になっていれば事件はなかった

Michael C. Woodford

河原一三さんを偲んで

オリンパス株式会社、元社長兼CEO
交通安全推進NPO「Safer Roads Foundation」代表
マイケル・ウッドフォード

筆者と河原氏=2011年5月、東京都内で
 去る5月13日、日本からロンドンの自宅へ一本の電話がかかってきました。声の主はオリンパス元専務であり、親友でもある宮田耕治さん。河原一三(かわはら いちぞう)さんの訃報を告げる電話でした。私たち三人は言葉に尽くせないほどの深い友情で結ばれていました。

 河原さんは、「内視鏡の生みの親」として知られる優秀なエンジニアで、自社製品はもとより関連する医療分野にも精通していました。また、精神面でも優れた洞察力を持つ思慮深い方で、オリンパスの専務として医療機器事業のトップを務めました。
 けっして英語が堪能なわけではなかったのですが、言語の垣根などもろともせず、人間の本質を見抜く能力を持つ人でした。とりわけ空虚な弁舌や政治的な欺瞞を嫌い、少しでも不誠実な態度を取ろうものなら、すぐさま見破りました。彼は、私が職場をともにしたなかで最も優秀なマネジャーのひとりで、事実、比類ない功績を多く残しています。

 社内でも一目置かれる存在でした。とりわけ、あの赤ペン! 真摯な河原さんは怠慢であることを許さず、赤ペンを片手に数々の書類を採点して回りました。「これはゴミだ」「考えが足りない」などの書き込みは日常茶飯事。私は今でも、彼がオリンパスの社長に就任すべきだったと思います。なぜなら、彼こそが日本の秀でた特質を理解し、然るべき方向へと舵を切れる、唯一の人物だったからです。しかし、残念ながら河原さんではなく、はるかに劣る下山敏郎が社長に任命されました。下山はのちに「オリンパス事件」の発端となった財テク法「トバシ」を最初に仕掛けた張本人です。

 河原さんは1994年に定年退職しました。最後にお会いしたのは、私が社長に就任した2011年の5月でした。晴天の土曜日、午後に耕治さんと三人で京王プラザホテルにある中華レストランで昼食を共にしました。当時80歳を超えていた河原さんですが、知力はいささかも衰えず、毒舌でユーモアたっぷりの以前と変わらぬ話しぶりに感嘆したものです。思い出話に花が咲き、時間を忘れて語らいました。

 それ以来、河原さんと直接お会いする機会には恵まれませんでしたが、耕治さんを通じてやり取りをつづけ、最期まで音信が途絶えることはありませんでした。私はいまなお想像します。下山でなく河原さんが社長になれば、オリンパスの運命、私自身の運命がどう変わっただろうかと。

河原氏から筆者に贈られた木彫りのマガモ
 我が家のリビングには、二羽のマガモを象った木彫が飾られています。河原さん自らが手彫りした物で、生前、彼から譲り受けました。私にとって、永遠の形見です。
 誠実で、謙虚な姿勢。私がこの目で記憶した、河原さんの偉大なうしろ姿はけっして色あせることがありません。彼には到底およびませんが、日々、彼の志を自身のなかで反芻しつづけています。

 河原さんの他界によって、残されたご家族の悲しみは察するに余りあります。しかし、彼がその生涯で築き上げた輝かしい功績を誇りに思い、慰めとしてください。フレキシブル内視鏡の開発と発展、それによって命を救われた数しれない患者さんたち。河原さんの遺産は今も世界中で生きつづけているのです。

 河原一三が生きたサムライの精神を想います。これほど尊い人間を私は他に知りません。永遠に忘れられない男です。

 2017年5月16日
 ロンドンにて

 ▽AJ編集部注:この原稿は、ウッドフォード氏の英文原稿を同氏の親友で東京在住のミラー和空氏において翻訳したものです。