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「スーパーグローバル」大学創成支援事業:二兎を追うものは一兎をも得ず

Stephen Givens

「スーパーグローバル」大学創成支援事業:二兎を追うものは一兎をも得ず

 

外国法事務弁護士・米NY州弁護士
スティーブン・ギブンズ(Stephen Givens)

拡大Stephen Givens(スティーブン・ギブンズ)
 外国法事務弁護士、米ニューヨーク州弁護士。ギブンズ外国法事務弁護士事務所(東京都港区赤坂)所属。
 東京育ちで、1987年以降は東京を拠点として活動している。京都大学法学部大学院留学後、ハーバード・ロースクール修了。
 日本企業に関わる国際間取引の組成や交渉に長年従事している。

 2014年、文部科学省は「徹底した大学改革と国際化を断行し、我が国の高等教育の国際通用性、ひいては国際競争力強化の実現を図り、優れた能力を持つ人材を育成する環境基盤を整備する」ことを目的として、スーパーグローバル大学創成支援事業を立ち上げた。

 2つの異なる課題:大学ランキングとグローバル人材

 公式資料を読み解いてみると、この事業によって文科省は2つの異なる課題を解決することを目指しているようだ。

  1.  日本の大学には「国際競争力」がない。世界の大学ランキングによれば、日本の最高学府である東京大学はジョージア工科大学や北京大学にも遅れを取り43位に甘んじている。そこで、このスーパーグローバルプログラムの第一の目標は、東大・京大を筆頭にランキング下位にある日本の各大学を、大学ランキングという観点からハーバードやオックスフォード、カリフォルニア工科大やMIT、スタンフォードと並ぶ「競争力のある」機関とすることである。
  2.  日本には「グローバル人材」が不足している。外国人と効果的かつ対等にコミュニケーションの取れる日本人はごくわずかであり、日本企業による海外での企業買収や市場開拓を阻む要因となっている。スーパーグローバルプログラムの第二の目標は、日本が国際社会において競争力を維持できるよう「グローバル人材」を育成することである。

 「大学ランキング」の問題と「グローバル人材」の問題は異なるものであり、異なる戦略をもって個別に対応しなくてならないということを文科省は理解していない。かたや「大学ランキング」の問題は日本の歴史、文化、組織に深く根付いた原因があり、短期間で変革できるものではない。多くの困難を伴う長期にわたる取り組みが必要であり、達成できない可能性すらある。一方、「グローバル人材」の問題のほうは多少実現しやすいかもしれない。若者にもっと効果的なやり方で英語を教えるだけで、比較的短期で具体的な成果が得られるという見通しが立つ。ところが、このスーパーグローバルプログラムは、2つの病気に同じ薬を投与するもので、その結果どちらの病気も治せない。どういうことか詳しく見てみよう。

 2つの異なる問題に対してスーパーグローバルプログラムが処方した薬はいずれも同じ「3本の矢」で構成される。(1)外国の大学に送り出す日本人学生数を増やす。(2)日本の大学に迎え入れる外国人の教員、研究者および学生の数を増やす。(3)日本の大学で「英語」による授業科目を増やす。

 「グローバル人材」問題は単なる「英語力」の問題ではない

 まず「グローバル人材」問題からはじめよう。日本人が外国人と同じ会議に入ると必ず表面化する、きわめて深刻な問題である。今日のグローバル経済時代において、会議室はイスラエルやスウェーデン、韓国やシンガポールといった英語を母語としない国の人々でいっぱいである。ところが彼らはみな英語を話す。必ずしもネイティブほど流暢ではないものの、目前のビジネスについては英語で、十分効果的に会話をすることができる。このようなグローバルな会議の場で、日本人はその機能不全の英語力のせいでかえって目立っている。英語は話せても目まぐるしく交わされるディスカッションや交渉にはついていけず、外国の人たちと気軽に飲みに行き夕食を共にするなどして自然と友情や人間関係を構築するだけのレベルにはほど遠い。必要最低限の「グローバル人材」が不足していることは、ボーダレスなグローバル経済における日本の競争力を直接妨げている。

 当然のことながら「グローバル人材」問題は単なる「英語力」の問題ではない。もっとずっと根深くはるかに複雑な教育的、精神構造的、文化的な問題である。日本人は自己主張し自ら判断し、個人個人の意見を述べ相手を説得し、分析し徹底的に討論し交渉し、自分の主張を通すためにユーモアや皮肉を使うといった教育は受けていない。日本人は試験で正解を出すための教育を受ける一方、関係者にあらかじめ確認しないまま個人の意見を述べることのないよう教育されている。先ほどのグローバルミーティングの例で言えば、日本人出席者に足りないのは英語だけではない。今日のグローバルビジネス組織において必要な各種スキル、すなわちハイペースに進められる集団的問題解決に貢献できる分析技術やプレゼンテーション能力や説得力を備えていない。グローバルな会議の場で日本人出席者は往々にして無口であるが、それは英語力に自信がないからではない。あえて真実を言うならば、仮に完璧な英語がしゃべれても何をどう言っていいかよくわかっていないのだ。

 もしも日本人が本物の英語で会話することを学んだら、思考方法も自然と変わるはずだ。ネイティブに近い英会話能力を習得した日本人は、習得の過程で否応なしに「(ものごとの)考え方」も変えさせられる。ネイティブに近いレベルの英語力を身につけるためには、たいていは日本国外である程度の期間を過ごし、外国の人たちと交わり、うわべだけでなく彼らのことを理解し、その過程で彼らの「考え方」を吸収する。外国語、とりわけ自分の母語とまったく違う言葉をマスターすると自分の考え方も変わるのだ。真に流暢なレベルに達すると、頭の中で翻訳する作業はしなくなり実際にその外国語で思考し始めるので、根底から考え方(そして感じ方や受け止め方)も変わる。英語を自由に操ることを覚えた日本人はよく、英語を話しているときの自分は「別人のように感じる」、もっとオープンで自由で「ありのまま」であると語る。英語が堪能になるということは、別の考え方をすることにつながる。日本人の思考方法とは異なるが、世界の大部分の人々のやり方である。

 英語を流暢に話せる大学卒業生を育成できたら、ただちに「グローバル人材問題」が完全に解決されるわけではない。日本人と他国のグローバル会議室の参加者の間にはなお、語学以外の教育内容とそのあり方に相当なギャップが残っている。しかし、グローバル会議室で対等に議論に参加するためには英語は不可欠な条件でもあり、英語を学ぶ過程において、考え方そのものはより開放的になるはずだ。

 ところで、流暢な英語を習得しその過程で自然と異なる思考方法を身につけた数少ない日本人はある種の代償を払っている。外国語に堪能であるということで疎外感を味わい、その人の文化的アイデンティティについて疑念をもたれる。英語を流暢に話せる者は、日本人の集団生活の中ではいつも少し浮いた存在で、変わり者と見られ、個性と自我を押し殺さなければならない不満に生涯にわたって苛まれる。「グローバル人材」の人数を増やしたいと主張する官僚たちはおそらくこのパラドックスを理解していない。成功の代償として集団に溶け込めない日本人、もはや真の日本人でない日本人を多数生むことになるのだ。

 あるいは官僚たちも実はわかっていて、あえてプロジェクトが失敗するように仕向けているのか。

 「スーパーグローバル」事業の三本の矢ではグローバル人材の不足を解消できない

 「スーパーグローバル」プログラムの三本の矢、すなわち(1)外国の大学に日本人学生を送り出す、(2)日本の大学に外国人を迎え入れる、(3)「英語」による授業を増やすことを目指す政策では、リアルな英語が話せる、あるいはグローバルビジネスの場で「グローバル人材」として活躍できる日本人卒業生の数を効果的に増やすことはできず、資源の無駄遣いである。

 音楽やスポーツの世界を見たらわかるように、コンサートピアニストやプロテニスプレイヤーになるためには一般的に4、5歳の幼少期に訓練を始める。20歳では遅すぎるからだ。同じ理由で、20歳になった人々に英語の短期速修コースを受講させても、10歳や15歳下の子どもたちに教えた場合と比べてごくわずかな成果しか得られない。まれに例外はあるものの、英語を流暢に話せる日本人大学生は大学進学前からすでに話すことができるというのが現実だ。日本の大学で教鞭をとって15年になるが、入学時に実践レベル以下の英語力しかなかった学生が在学中の4年間で流暢な英語の話者として開花したという者は1人も知らない。根本的な問題として、スーパーグローバルプログラムを効果的に進めるには、日本の幼稚園か小学校でそれを始めなければ無理である。

 「グローバル人材」育成のために大学レベルに国家資源を投入するならば、まずは体系的で規律ある英語の言語教育、すなわち進捗度・達成度の客観的基準がある集中ブートキャンプ方式の言語習得コースから始めるべきだ。ところが、スーパーグローバルプログラムの「3本の矢」は言語教育ではない。三本の矢はいずれも、指導言語が英語である教室や周囲のコミュニケーション言語が英語である環境(寮の部屋、カフェテリアなど)に日本人学生を入れて、その環境から彼らがどうにか自然と英語を「吸収する」という非現実的な希望を抱いたものばかりだ。しかし、第二言語を習得した人ならばだれでも知っているが、受身的に吸収するだけでは本当の進歩は得られない。外国語を習得するには多大な努力、積極的な学習、能動的なスピーキングとライティング、絶え間ない反復練習と教官による矯正が必要である。フランス映画を鑑賞し、フランス料理のビストロに通って隣のテーブルの人たちがフランス語で話すのを聞いていてもフランス語を流暢に話せるようにはならない。

 そもそも流暢な英語も習得していない20歳の人たちをカリフォルニアやオーストラリアの大学に一学期間送り込むという「第1の矢」は、彼らに英語を教えるにはひどく無駄の多い方法である。ゴルフの初心者をいきなりコースに行かせて、ドライバーからアプローチ、パットまで自力でも試行錯誤すればなんとかプレイできるのではないか、と期待するのと同じようなものだ。あるいは、バイオリンを習い始めたばかりの人をいきなりオーケストラの中に座らせて、どうにか自然に演奏方法を「身につける」のではないかと期待するようなものだ。基礎的な能力レベルに達する前にゴルフコースやコンサートホールに置き去りにするのは甚だ残酷なことである。学生たちが教室で教えられる科目を理解できる程度の英語スキルを習得したでしか、海外留学は意味をなさない。海外の大学への留学プログラムに参加する日本人学生の圧倒的多数が、教室で教えられる科目を理解するだけの英語言語スキルを持たないまま渡航してしまうため、結局何も学ばずに帰ってきている。ほとんどの者が、同じように英語がわからない日本人学生たちと共にESL(第二言語としての英語)のクラスに入れられて、そこで群れを成して日本語で話している。留学に支出される膨大なお金は、彼らが飛行機に乗る前に日本で本物の英語を教えるために支出したほうがよっぽど有効ではないか。

 同様に、外国人学生を日本のキャンパスに輸入するという「第2の矢」も、日本人学生の英語習得に何の役にも立たない。第一言語と第二言語をバラバラな習得レベルで話す外国人学生と日本人学生をカフェテリアで無秩序に交流させても、効果的な外国語能力の習得に必要な体系にも規律にも欠けている。海外からの学生は概して日本語を学ぶために日本に来ているのだから、できれば日本語で会話したいと考えており、もし英語を話すならば 労せず英語でコミュニケーションが取れるくらい英語ができる人と話がしたいだろう。私が教えている大学では、海外からの留学生は、留学生同士か留学から戻ってそこそこ英語ができる帰国生とつるんでいる。グローバル人材育成のために、日本に迎え入れた外国人学生とランダムに相互交流させても効果的でない。

 「第3の矢」は、日本の大学キャンパスにおいて「英語で」教える科目数を増やすことを目指している。これにはネイティブの英語話者である教員によるコースとネイティブでない日本人の教員によるコースの両方が含まれている。「英語」で教えられる授業の相当数が英語言語の授業ではなく、教員たちは経済や化学などそれぞれの専門分野の実質的な授業を、ネイティブでない日本人学生相手に「英語で」行うことが求められている。

 学生たちの母語でない言語で経済や化学などの実質的な科目を教えることにいったいどのような論理的根拠があるというのだろう。学生たちにとって、母語で習うよりも学習効率が悪くなるにちがいない。数年間日本の大学で「英語で」法律を教えてきた立場として、英語で教える私を見つめる生徒たちのぼんやりとした顔が、私が日本語に切り替えた瞬間に突然生き生きとして理解を示すさまを私はよく知っている。海外留学の場合と同様、日本の大学で「英語で」授業を受けることは、学生たちが英語を機能的に使いこなせるようになったでしか意味をなさない。「流暢な英語力を身につけていない学生は、英語で」行われる授業に参加していても、ぼんやりと英語の映画やテレビ番組を眺めているのと同様、英語言語スキルは向上しない。外国語を学ぶことは、温かい風呂に浸かることやBGMを聴くといった受動的なアクティビティではない。英語の言語スキルを高めたければ、「英語で」教えられる授業ではなく「英語言語」の授業を受ける必要があるのだ。

 さらに悪いことに、日本の大学において「英語で」教えられるコースのほとんどが日本人の教授によるもので、彼らの言語能力や教育的バックグラウンドでは実質的でダイナミックなインタラクティブな大学レベルのコースを、ましてや英語で教えることはできない。概して日本人の教授は一語一句練り上げた原稿なしに英語で授業を行う自信がないため、結局日本語で行う授業と同じレクチャーを英語に直訳したものを読み上げている。これでは学生たちの英語言語スキルを向上させるという目標を達成できないばかりか、従来の日本式の考え方や問題解決方法から脱却させることもできない。

 学術分野の国際競争力:紛らわしい原因と結果

 文科省は、別の問題、すなわち大学ランキングにおける日本の大学の評価の低さへの対策として「グローバル人材」育成とまったく同じ「3本の矢」を利用している。だが、同じ「3本の矢」が国際競争力の問題解決に役立つかもしれないと期待することは根本的に原因と結果を取り違えている。

 「3本の矢」のうち、大学ランキング問題にもっとも関連のあるのが2本目と3本目の矢である。

 おかしなことに、海外により多くの学生を送ろうという第1の矢は、世界的に一流であるという日本の大学の主張を弱めてしまっている。自校の学生を海外の大学に送り出すということは、学生たちが求めている教育を自分のところで提供できないと認めるものである。かたやMITやスタンフォードやケンブリッジは自校の学生の海外留学を積極的には奨励していないし、学生たちも海外で学びたい理由や希望をあまり持っていない。MITの学生はMITで学ぶために過酷な競争を勝ち抜いてきたので、自分たちのいる場所に非常に満足している。世界的に見る学生の流れはとかく、発展していない国々から発展している国々への一方通行だ。将来、東大がMITと学術的に同等に見られる日が来たら、日本人の学生や研究者を海外に送る差し迫ったニーズはなくなるだろう。優秀な学生を海外に送るということは、日本の高等教育の質を向上させるという最終目標に事実上逆行することになるかもしれない。海外のトップランクの大学で成功した日本人の多くは、日本の大学に戻っても魅力のないキャリアしか見出せないので、イチローのように海外のメジャーリーグに残る道を選ぶのだ。

 文科省は、第2および第3の矢こそが日本の大学の国際競争力の高さを表すカギであると考えている。いったいどんな理論なのか。それはいわば次のような理屈である。

 MITやケンブリッジのような国際競争力のある大学には海外からの研究者や学生の数が多い。国際的に競争力の高い大学の授業は一般的に英語で行われている。有力な大学ランキングでは、外国人研究者や学生の数や英語で行われる授業科目の数が多いほどポイントが与えられる。ゆえに、日本の大学もキャンパスにいる外国人研究者や学生の数を増やしてより多くの授業科目を英語で教えれば、日本の大学も国際競争力のある大学となれる、あるいは少なくともそう見られるだろう。

 だが、この論理には欠点があり、根本的な原因と結果を混乱させている。メジャーリーグ野球を考えてみよう。勝率の高いチームは低いチームよりも観客動員数が多い。理由は明白、ファンは勝つチームを見たいからである。負けているチームが勝ち越すと、多くの観客を動員するケースが多い。ところが、この反対は論理的に正しくない。例えばチケットを値下げしたり、無料の粗品を配ったり、特別な花火を打ち上げたりして観客動員数を増やしても、チームの実力が上がるわけではない。熱を下げてもインフルエンザは治るわけではない等々。

 根本的な問題として、日本の大学が世界におけるランキングを上げたいのであれば、提供するもののクオリティを向上させるしかない。単に品質の表示(観客数)を操作しても、根底にある品質自体は変わらない。ところが、文科省のスーパーグローバルプログラムは、日本の大学における教育の質を向上させるために何の対策も講じていない。表面上の品質指標を増やした大学は表彰し、できなかった大学を罰しているにすぎない。

 文科省の指導の結果、「スーパーグローバル」を目指す日本の大学は、外国人学生の人数と「英語で」行われる授業科目の数という数値目標を達成するために互いにしのぎを削っている。これらの数値目標を達成するために、日本の大学は中国、韓国および東南アジアの学生を大量に受け入れている。こうした外国人学生のGPA(成績評価値)は同級生の日本人学生よりはるかに低い傾向がある。その外国人学生の大半は卒業後本国に戻らず、日本企業に就職活動をすることから、日本の大学に在学している主な目的は日本のビザを取得して日本企業に就職することであろう。中国人や韓国人学生を取り扱う留学エージェントの集計によると、これらの外国人学生は、もし理想がかなって受け入れられたならば通いたかったMITやスタンフォードやケンブリッジで学ぶ同郷の学生たちよりも学術的に劣っているというデータもある。

 同様に、日本の大学は「英語で」行われる授業科目の数についても数値目標をめぐって互いに競い合っている。この目標を達成するべく大学は「英語で」授業を教えるため、すなわち翻訳された日本語の授業を理解できずにぼんやり座っている学生たちに向かって「英語で」読み上げるために、日本人やネイティブでない英語講師を教室へと召喚し続けている。

 数字を膨らませることで、日本の大学も追いついているという見せかけの安心感を与えるのはいかにも官僚的な対応だ。しかし対症療法をいくら重ねても根底にある疾病は治らない。それどころか、数値目標を満たすために能力の低い海外の学生を輸入し、資格のないノンネイティブの教員に「英語で」授業をさせることは、むしろ提供する教育の質を下げることになる。

 どうすべきか?

 「グローバル人材」不足のもっとも効率の良い対策はきわめて単純明快である。言語学的能力の高い日本人の子どもたちに本物の英語を幼少期から教えることである。大学入学時には日本語の文章を読むのと同じくらいたやすく英語の文章が読めること、英語のライティングとスピーキングで自分の考えをはっきり伝えられるようにすることが大切である。大学入学時までに本物の流暢な英語を習得していれば、自然と実質的な学術科目を日本語と同じように英語で受講することができ、交換留学生として海外の大学で有意義な時間を過ごすこともできれば、日本のホームキャンパスで外国の教員が英語で教える授業を履修することもできる。流暢な英語で読み書きと会話ができる最低限必要な人数の日本人を育成することは、簡単ではないが、 規律ある体制で取り組めば10年間で実現できる。

 スーパーグローバルプログラムの3本の矢は、この単純な目標から目をそらして資源を奪うものであり、「グローバル人材」を育成するための手段としては中止すべきである。

 日本の大学の根本的な品質の向上という第2の作業はこれにも増して相当に困難である。日本人の学部生の振る舞いを見ても、多くは真面目に授業も受けず出席や宿題すら任意という状況で、日本の大学のランキングが低くて何の不思議があるだろうか。日本では数十年間にわたり、大学在学中に受けられる実際の教育の質よりも、一流の大学に合格することを重視してきたのだ。企業も、未来の従業員の学業成績にほとんど関心がない。その結果、日本の高等教育とその礎となる人的資本が空洞化してしまったのだ。人的資本は一夜にして成らず、再び築くのに何世代もの時を要する。

 日本の高等教育を真剣かつ真摯に見直し、症状だけでなく本当の原因に対処するという困難な作業を行うことなく、その解決を、スーパーグローバルプログラムの3本の矢で代用することなどできない。

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筆者

Stephen Givens

Stephen Givens(スティーブン・ギブンズ) 

 外国法事務弁護士、米ニューヨーク州弁護士。ギブンズ外国法事務弁護士事務所(東京都港区赤坂)所属。
 東京育ちで、1987年以降は東京を拠点として活動している。1976年から77年にかけて京都大学大学院に留学した後、1982年にハーバード大学ロースクール修了。青山学院大学教授や上智大学教授を経て、現在、慶應義塾大学大学院法務研究科 非常勤講師。日本企業に関わる国際間取引の組成や交渉に長年従事している。国際間M&Aから、コーポレート・ガバナンス問題、民間・公的融資、戦略的提携、合弁事業などに経験を持つ。

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