より有効な病気の治療法を開発するために人の体を使って行う臨床研究では、研究に参加する被験者の人権の保護とデータの信頼性確保が欠かせない。日本では過去、被験者への説明なしの試験薬投与や倫理審査委員会の機能不全など、臨床研究をめぐるさまざまな問題が表面化したが、根本的な対策がとられてこなかった。その結果、高血圧症治療薬ディオバンの臨床研究不正が2013年に明るみに出て、日本の臨床研究のずさんさが国内外に広く印象づけられた。臨床研究の不祥事が絶えないのはなぜか――。この連載ではその背景をさぐる。第1部では、生命倫理研究者の橳島次郎氏と朝日新聞の出河雅彦記者の対談を通して問題の核心に迫る。その第3回では、臨床研究を法で管理する意味について考える。
出河 ここまで日本でのスキャンダル対応の歴史と海外の対応について振り返ってきました。なぜ日本で法律による臨床研究の管理ができないのかというテーマについてもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。橳島さんは2003年に「研究対象者保護法要綱試案」を弁護士の光石忠敬さん、栗原千絵子さん(当時・臨床評価コントローラー委員会、現・放射線医学総合研究所信頼性保証・監査室)と共同でまとめ、雑誌「臨床評価」に論文として発表されましたね。これはどういう経緯でまとめられたものですか。
橳島 次郎(ぬでしま・じろう)
1960年横浜生まれ。1988年東京大学大学院社会学研究科博士課程修了、社会学博士。三菱化学生命科学研究所 社会生命科学研究室長などを経て、2007年から生命倫理政策研究会共同代表、2015年から慶應義塾大学医学部非常勤講師。専門は生命倫理。
著書に、『生命の研究はどこまで自由か』(岩波書店)、『生命科学の欲望と倫理』(青土社)、『これからの死に方』(平凡社新書)、『移植医療』(出河雅彦と共著、岩波新書)など。
橳島 臨床研究を包括的に管理する法律をどこも作らないなら自分たちで作ってみせようと、日本での議論を進めるために提案したのです。試案をまとめた経緯は、3人の連名で「法学セミナー」(2003年9月号)に発表した「研究対象者保護法試案-生命倫理をめぐる議論の焦点を結ぶ-」に書いていますので、それに基づいて振り返ってみましょう。
医薬品の承認申請のために企業の責任で実施する臨床試験、すなわち治験については、治験審査委員会での審査、対象者のインフォームド・コンセントなどを詳細に定めた厚生省令(新GCP)が1997年に施行されましたが、治験以外の医学研究に対する包括的なルールは存在しませんでした。「無法地帯」だったのです。2002年には医薬品研究開発の効率化と安全対策強化を目的に薬事法が改正され、それまでの「企業主導の治験」に加えて「医師主導の治験」も法律とそれに基づくGCPによって管理されるようになります。この改正法令の施行は、「臨床研究に関する倫理指針」が告示されたのと同じ2003年7月でした。倫理指針の作成に関しては前年の2002年に厚生労働省の部会で審議されたのですが、医薬品の承認申請のデータを取るための治験には詳細な法的規律があるが、治験以外は法的ルールが存在しないといういびつな構造が、ますます顕著になるだろうと思いました。こうした状況に危機感を覚えた私たちは、それまで異なる立場で臨床研究の公的規制の必要性を訴えてきたのですが、2002年の後半にフランス被験者保護法の翻訳作業を通して初めて共同作業をしたことをきっかけに、試案作成に向けての議論を始めました。厚生労働省の「臨床研究に関する倫理指針」のパブリックコメント受付期間中だった2003年3月2日には、「被験者保護のための立法を考える――人対象研究規制の現況と将来」と題するシンポジウムを開催しました。シンポジウムの直前の2月17日には、同意なしに抗がん剤の比較臨床試験の対象にされた卵巣がん患者の遺族が起こした裁判の判決公判が金沢地裁であり、原告勝訴の判決が出たばかりでした。
出河 研究対象者保護法要綱試案のポイントを教えてください。
橳島 試案の特徴としては、①丸ごと生きた人を対象とする研究だけでなく、人体の一部やその情報を対象とする研究、医学研究以外の科学研究も対象とする、②研究対象者の保護と研究の公正さの確保を法律の目的とする、③研究の審査体制を個々の研究機関から独立した公的なものとして設計する、④計画段階および実施中の研究評価に関し、対象者の選定など弱者保護を重視し、同意に過大な役割を課さない、の4点が挙げられます。私たちが最も重視したのは、倫理審査委員会の体制づくりです。現代医学の倫理の根本精神は、「個々の医者の良心にゆだねない」ということです。言葉を変えると、「集団管理をする」ということです。研究について言えば、事前審査制度などを設け、こんなことをしてもいいのかということを一人一人の医師が判断するのでなく、集団的に、組織として管理をする。それが、「研究と医療の峻別」と並ぶ、現代医学の倫理の基礎です。インフォームド・コンセントは、適正な臨床研究を行うための必要条件ではありますが、十分条件ではありません。臨床研究の管理において実質的に一番大事なことは、ある研究を人間に対して行ってよいかどうかを事前に審査し、審査を通らなければやれない、という仕組みが機能することです。事前審査を通らなければ、インフォームド・コンセントを得るための説明を持ちかけてはいけないわけですから、倫理審査委員会の事前審査はインフォームド・コンセントより上位の規定になるのです。そこが根本的に大事です。私たちがつくった試案の要は、フランスの制度に倣って研究計画を事前に審査する委員会は独立の公的第三者委員会として設計することでした。フランスはこの委員会に法人格を与えています。ちなみに、再生医療安全性確保法は日本で初めて、厚生労働大臣の認定を受けた委員会で審査をするという制度を導入しましたが、多くは研究機関が設置した委員会であって、公的第三者性があるとはいえません。
私たちはその後議論を広げるために医学研究者にも参加してもらって、2007年に研究対象者保護法要綱試案の改訂版を出しました。先に述べた四つの基本は維持しつつ、内容と形式を見直し整え、医学者にも受け入れてもらえるような現実的な規定になるよう心がけたことが、改訂のポイントです。
医学論文の虚偽記載問題で記者会見する東大医科学研究所の幹部=2008年7月11日、東京都港区の東大医科研で
出河 橳島さんたちの活動もあって、「臨床研究に関する倫理指針」の見直しが施行から5年後の2008年に行われたときには、臨床研究に対する法規制を求める意見がかなり出されました。このときの見直しでは、有害事象の国への報告や健康被害に対する補償などに関する条項が追加されましたが、厚生労働省は行政
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